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供養食堂 灯(とも)  作者: 脇汗ベリッシマ
3/32

ハンバーグと、おかあさんの手

その少年は、まるで眠るように静かに現れた。


 店の暖簾がかすかに揺れたのは、夜の深い時間。

 息をひそめるように、小さな足音が一歩、また一歩と近づいてきた。


 「……ここ、なに?」


 カウンターの前で立ち止まった少年がつぶやく。


 「ここは、“供養食堂”。おかえりなさい、ようこそ」


 女将・ともはそう答え、にこりと笑った。


 「……おかえりって、だれが?」


 「お母さんが、いつも君に言っていた言葉でしょう?」


 少年の目が、かすかに揺れた。



 名前も、病気の名前も、もう曖昧になっている。

 けれど、覚えている。

 苦しかった日々を、ずっとそばで支えてくれた“ひとりの人”のことを。


 「ねえ……ぼくね、ずっと入院してたんだ。気がついたときには、病院にいた」

 「食べたいものはいっぱいあったのに、食べられなかった」

 「チョコレートも、お寿司も、アイスも……我慢ばっかりだったよ」


 「でも……ほんとはね」


 少年はうつむいて、ぽつりと声を落とした。


 「一番食べたかったのは、おかあさんのハンバーグだったんだ」



 それは、まだ元気だった頃の記憶。


 遠足の前の日、「明日はごちそうにしようね」と笑ってくれたお母さん。

 キッチンからいい匂いがして、台所に行くと、エプロン姿でハンバーグをこねていた。

 「チーズ入りにしようか?」って、笑ってた。


 ソースは甘くて、チーズがとろけて、ふっくらしてて。


 「ふーふーしてあげるね、やけどしないように」

 「おいしい? うれしいな」

 「また作ってあげるね、今度はもっと上手にね」


 その「また」が、来なかった。



 「だんだん食べられなくなって……味も、匂いも、分からなくなって」

 「でも、夢の中でね。何回も、何回も、あのハンバーグの味がしたの」

 「ぼくね、ほんとはもう、食べられないって分かってたよ。分かってたのに……」


 少年は顔を覆い、肩を震わせた。


 「ごめんね、おかあさん。もっと、“おいしい”って言いたかった……」

 「ずっと、作ってくれてたのに、ありがとうって、言えなかった……」


 灯は、黙って一皿を差し出す。



 ハンバーグだった。


 小さな鉄板の上に、あつあつのチーズハンバーグ。

 甘いソースがとろりとかかって、湯気の向こうに見える“おかあさんの手”。


 添えられたにんじんは、星のかたち。

 蒸したじゃがいもは、ちゃんと皮をむいてあった。


 「……これ……」


 スプーンを持つ手が、震えていた。


 ひとくち、口に運ぶ。


 ――その瞬間、世界が止まった。


 「……おいしい……これだ……これ、ママの味だ……!」


 熱い涙が、ぽたぽたとハンバーグに落ちた。

 それでも、彼は止まらなかった。

 何年も、何年も夢見ていた味だった。


 「……ママ……ママ……だいすき……ありがとう……」


 嗚咽と共に、彼は最後の一口まで、ゆっくり、しっかりと噛みしめて食べた。



 食べ終えると、少年は顔を上げ、灯を見つめた。


 「……ねえ、ママに……“ごちそうさま”って、伝えられるかな?」


 「きっと、すぐそばで聞いていますよ」


 灯の言葉に、少年はふっと笑った。

 その顔は、ようやく満たされた子供の、それだった。


 「……そっか……よかった」


 そして、彼は光のほうへと歩いていった。



 静かに空になった皿を片付けながら、灯はつぶやいた。


 「また、“食べたかった味”を、作りましょうか」


 忘れられたごはんは、心の奥で、ずっと誰かを待っている。


 供養食堂の窓の外で、夜風がそっと暖簾を揺らしていた。


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