ハンバーグと、おかあさんの手
その少年は、まるで眠るように静かに現れた。
店の暖簾がかすかに揺れたのは、夜の深い時間。
息をひそめるように、小さな足音が一歩、また一歩と近づいてきた。
「……ここ、なに?」
カウンターの前で立ち止まった少年がつぶやく。
「ここは、“供養食堂”。おかえりなさい、ようこそ」
女将・灯はそう答え、にこりと笑った。
「……おかえりって、だれが?」
「お母さんが、いつも君に言っていた言葉でしょう?」
少年の目が、かすかに揺れた。
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名前も、病気の名前も、もう曖昧になっている。
けれど、覚えている。
苦しかった日々を、ずっとそばで支えてくれた“ひとりの人”のことを。
「ねえ……ぼくね、ずっと入院してたんだ。気がついたときには、病院にいた」
「食べたいものはいっぱいあったのに、食べられなかった」
「チョコレートも、お寿司も、アイスも……我慢ばっかりだったよ」
「でも……ほんとはね」
少年はうつむいて、ぽつりと声を落とした。
「一番食べたかったのは、おかあさんのハンバーグだったんだ」
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それは、まだ元気だった頃の記憶。
遠足の前の日、「明日はごちそうにしようね」と笑ってくれたお母さん。
キッチンからいい匂いがして、台所に行くと、エプロン姿でハンバーグをこねていた。
「チーズ入りにしようか?」って、笑ってた。
ソースは甘くて、チーズがとろけて、ふっくらしてて。
「ふーふーしてあげるね、やけどしないように」
「おいしい? うれしいな」
「また作ってあげるね、今度はもっと上手にね」
その「また」が、来なかった。
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「だんだん食べられなくなって……味も、匂いも、分からなくなって」
「でも、夢の中でね。何回も、何回も、あのハンバーグの味がしたの」
「ぼくね、ほんとはもう、食べられないって分かってたよ。分かってたのに……」
少年は顔を覆い、肩を震わせた。
「ごめんね、おかあさん。もっと、“おいしい”って言いたかった……」
「ずっと、作ってくれてたのに、ありがとうって、言えなかった……」
灯は、黙って一皿を差し出す。
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ハンバーグだった。
小さな鉄板の上に、あつあつのチーズハンバーグ。
甘いソースがとろりとかかって、湯気の向こうに見える“おかあさんの手”。
添えられたにんじんは、星のかたち。
蒸したじゃがいもは、ちゃんと皮をむいてあった。
「……これ……」
スプーンを持つ手が、震えていた。
ひとくち、口に運ぶ。
――その瞬間、世界が止まった。
「……おいしい……これだ……これ、ママの味だ……!」
熱い涙が、ぽたぽたとハンバーグに落ちた。
それでも、彼は止まらなかった。
何年も、何年も夢見ていた味だった。
「……ママ……ママ……だいすき……ありがとう……」
嗚咽と共に、彼は最後の一口まで、ゆっくり、しっかりと噛みしめて食べた。
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食べ終えると、少年は顔を上げ、灯を見つめた。
「……ねえ、ママに……“ごちそうさま”って、伝えられるかな?」
「きっと、すぐそばで聞いていますよ」
灯の言葉に、少年はふっと笑った。
その顔は、ようやく満たされた子供の、それだった。
「……そっか……よかった」
そして、彼は光のほうへと歩いていった。
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静かに空になった皿を片付けながら、灯はつぶやいた。
「また、“食べたかった味”を、作りましょうか」
忘れられたごはんは、心の奥で、ずっと誰かを待っている。
供養食堂の窓の外で、夜風がそっと暖簾を揺らしていた。