三つの器と、一人の母の願い
夜の供養食堂に、
肩を落とした一人の女性が、そっと入ってきた。
「……こんばんは」
声はかすれていて、目は泣き腫らしていた。
灯はいつものように微笑む。
「いらっしゃいませ。今夜は……おひとりですか?」
女性は少し考えて、首を横に振った。
「……たぶん、今日は……三人分、です」
ゆっくりとカウンターに座った彼女の名は、沙織。
三十二歳。
流産を三度経験していた。
結婚して、何年も待ち望んだ命。
初めて心音を聞いた日、夫と泣いた。
でも、その子は、生まれてこなかった。
次の子も。
その次の子も。
やっと、やっと、出会えたと思ったのに。
「泣いてばっかりでした、私。
“どうして?”って、毎日自分に問い続けて……
気づいたら、誰にも会いたくなくなってて……」
「周りの子たちの“おめでとう”が、つらくて。
ベビーカーを見かけるたびに、
ごめんねって、心の中で謝って……」
ぽろり、と涙が落ちた。
「“私の身体がちゃんとしてたら”
“私がもっと気をつけてたら”
そんなふうに、ずっと自分を責めてきたんです」
「でも……ちゃんと心音、聞いたんです。
トクン、トクンって……確かに、お腹の中で生きてた。
短い時間でも、あの子たちは……
ちゃんと、この世界に来てくれてたんです」
灯は静かに頷き、奥へと下がる。
ふわりと立ちのぼる香りとともに、戻ってきたお盆の上。
そこには、三つの小さな器と、ひとつのお椀が並んでいた。
小さなおにぎり。
ふわふわの卵焼き。
やさしい味の味噌汁。
それは、まるで——
「ようこそ」のかわりに出す、**はじめての“おかあさんごはん”**だった。
そのとき、カウンターの隣に、
小さな影が、ひとつ、またひとつ、ふわりと現れた。
ぽすん。
ちょこん。
ふにゃり。
——三人の、小さな子どもたち。
「……えっ……」
沙織は息をのむ。
手を伸ばしたその先に、小さな手がふれる。
小さな笑顔が、そこにある。
「おかあさん、ないてたの?」
「おかあさんのところに、うまれたかったよ」
「おかあさん、ちゃんとあいしてくれてたよ」
沙織の目から、ぼろぼろと涙があふれる。
「ごめんね……ごめんね……!
何もしてあげられなかった……!」
でも、三人の影たちは、首を振る。
「もう、ないてないよ」
「おにぎり、おいしいね」
「つぎ、またきていい?」
沙織は、胸に手をあてた。
「うん……また来て。何度でも……」
三人は、うれしそうに笑って、
光のなかへ、ふわりと消えていった。
カウンターに残った器には、
三人分のごはんが、きれいに食べ尽くされていた。
沙織は涙を拭きながら、小さく笑った。
「……ありがとう。生まれてきてくれて。
たとえ少しでも、私のところに来てくれて……ほんとうにありがとう」
灯は、そっと湯飲みを拭きながら、つぶやく。
「“母でいられなかった”なんてことはありません。
あなたは、あの子たちの、まぎれもないお母さんでしたよ」
そして、ふと、沙織に問う。
「……さあ、これからどうしますか?」
沙織は少しだけ考えて、ゆっくりと立ち上がる。
「……帰ります。
また、明日を生きるために。
この気持ちと一緒に、ちゃんと、生きていきます」
灯は、深くうなずいた。
今夜、供養食堂の窓が、やさしく揺れた。
風が、心の奥の痛みを、ほんの少し、ふわりと撫でていった。
この物語はフィクションですが、
世の中には、流産や死産を経験された方がたくさんいます。
誰にも言えず、誰にも気づかれず、
そのまま心の中で、そっと涙を流している人がいます。
「私が悪かったのかな」
「ちゃんと守ってあげられなかった」
そんなふうに、何度も自分を責めてしまう人もいます。
でも、どうか知っていてほしいんです。
たとえ抱きしめられなかったとしても、あなたはお母さんです。
お腹の中に命が宿ったその瞬間から、
あなたは、まぎれもなく“迎える側”でした。
誰にも見えなかったかもしれない。
誰にも言えなかったかもしれない。
でも、あなたが確かに“あの子たちを想った”時間があった。
その優しさも、不安も、祈りも――全部、本物でした。
この物語が、あなたの心を少しでもあたためられたのなら、
私はそれ以上のことは望みません。
どうか、あなたが少しでも楽になりますように。
そして、あの子たちのことを、優しい記憶として抱いていけますように。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。




