やめてください、それは俺のエビフライです。
ある夜、供養食堂の扉が、ひとりでにカラン、と鳴った。
入り口に立っていたのは、髪がボサボサで、どこか“揚げ物に嫌われてそうな男”だった。
くたびれたスーツ。下がりきった目元。ネクタイは斜め。顔色も悪い。
まるで人生に油切れを起こしたかのようなその男は、ゆっくりとカウンターに腰を下ろし、
開口一番、こう呟いた。
「……なんでさ、俺って……
エビフライに、ここまで嫌われてんのかな……」
灯はその言葉に小さく瞬きをして、微笑む。
「いらっしゃいませ。今夜は、おひとりですか?」
「いや……たぶん、一生エビフライにフラれ続けた“ふたり分”の孤独を連れてきた感じです」
男の名前は、杉田圭介。享年四十七。
エビフライが好きだった。
いや、好きどころじゃない。**「世界一美しい揚げ物」**だと信じて疑わなかった。
子供の頃、お弁当に入っていたあのぷりっぷりで、サクサクのやつ。
ひとくち目にかぶりついた瞬間の、あのジュワッと広がる旨味。
口の中が「うめぇえええ!!!」と叫ぶような、あの衝撃。
——それがすべての始まりだった。
だが、地獄もまた、そこから始まった。
「小学三年から六年まで、全部盗まれたんだよ……俺の弁当のエビフライ……」
「弁当開けたら、エビフライだけ消えてるの。
他のブロッコリーとか、ミートボールは無事なのに」
「先生に言っても“勘違いじゃない?”、親には“あんたが先に食べたんでしょ!”って」
「いや俺じゃねえし!!食ってねぇし!!ブロッコリーじゃねぇんだよ欲しいのは!!!!」
彼は、エビフライを盗まれすぎた。
エビフライが消えるたびに、心の何かがぽっかり抜けていった。
中学生では友達を信用できなくなり、
高校では誰とも弁当を囲まず、
社会人になっても“誰かと何かを分け合うこと”を避け続けた。
「それでも、俺はエビフライが好きだった。
冷凍でもコンビニでも、なんでもいいから……食べたくてさ」
「でも、落ちるんだ。買ったばかりのパックが、手から滑って……地面へダイブ」
「デリバリー頼めば“エビフライだけ忘れられてる”し、
ビュッフェ行ったら、俺の前で“売り切れです〜”って」
「なんで俺だけ、エビフライと縁がねぇんだよ……」
灯は黙って話を聞きながら、やがてそっと席を立った。
やわらかな足音とともに、厨房へと消えていく。
そして、数分後。
ふわりと、香ばしい香りが店内に満ちた。
戻ってきた灯が、銀色の丸いプレートをそっと置く。
「お待たせしました。——“あなたのためだけのエビフライ”です」
そこにあったのは、
衣がカリッと立った、金色に輝くエビフライが三本。
申し訳程度の千切りキャベツ。
脇には、昔ながらのごはんと、手作りのタルタルソース。
——だけど、それがいい。
それが、たまらない。
「……うわ、うまそ……」
杉田は箸を取り、そっとひとつのエビフライを持ち上げる。
衣が、ザクッと音を立てて割れた。
その瞬間、揚げたての香ばしい香りが鼻を突き抜ける。
タルタルをちょん、とつけて、ひとくち。
——サクッ。ぷりっ。ジュワッ。
「……ああ……うめぇ……」
「俺、今、人生で一番報われてる……」
涙が、ぽたぽたと落ちる。
誰にも奪われない。
誰にも見られない。
これは“自分だけのエビフライ”だ。
それだけで、満たされた。
食べ終えた杉田が、ぽつりと呟いた。
「なあ、灯さん……
来世では、誰かと笑いながら、エビフライ食えるかな……」
灯は、ふわりと微笑んだ。
「今度こそ、“誰にも盗られない”場所で、お召し上がりください」
そして彼は、エビフライの香ばしい余韻を胸に抱き、
静かに光の中へと歩き出した。
灯は、空になった皿を片付けながら、そっと呟く。
「たとえ一皿の記憶でも、人はずっとそれを求め続けるものですね」
今夜、供養食堂の窓が、ちょっとだけカリッと音を立てた——気がした。




