じゃがいもコロッケと、レジに立ち続けた手
その夜、供養食堂の戸が、かすかに揺れた。
湿った風と一緒に入ってきたのは、制服ではなく――エプロン姿の、年配の女性だった。
髪は整えられていたが、どこか“生活のにおい”がした。
そして――手の甲には、レジ袋を何度も結んだ痕が、薄く残っていた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、供養食堂へ」
カウンターの奥から現れた女将・灯が、静かに頭を下げる。
女性は、まるで迷ったようにきょろきょろと辺りを見回し、
やがて、おずおずと椅子に腰を下ろした。
「……あの、ここ……なんだか懐かしいような……
すみません、なんで来たのか、自分でもよくわからないんです」
そう言って、小さく笑った女性の名は、三浦 信子、63歳。
スーパーで30年近くレジをしてきた、独り身の女性だった。
「レジなんて、誰でもできる仕事だって、ずっと言われてきましたよ。
でもね……私は、間違えないように、丁寧に、笑顔だけは欠かさないように――
それだけは、ずっと心がけてきたんです」
信子は、少し恥ずかしそうに話しながら、
小さなため息と共に、こう続けた。
「無資格で、勉強もできなくて……誇れるような人生じゃなかったけど、
私は……毎日、レジに立ってたんです。
それが、自分なりの……“仕事”だったんです」
灯は、ゆっくりと頷き、奥へと引っ込む。
やがて、あたたかな香りと共に――一膳のごはんが、そっと運ばれてきた。
それは――じゃがいもコロッケ。
揚げたてではない。
衣は少しへたっていて、油がまわって照っている。
冷めてはいないけれど、どこか“売れ残った惣菜”のような、しょぼさがあった。
だけど、それは――信子の胸に、まっすぐ届いた。
「……これ、よく買ってたんです。
売れ残ってると、社割で安くなるから……
誰も買わなかったお惣菜を、なんか、放っておけなくて……」
彼女は箸を取り、コロッケをひと口。
「ああ……この感じ……」
衣がしっとりしていて、少し油っぽくて。
だけど中は、ちゃんとほくほくしていて――優しい甘さが広がった。
「……ほんとに、これ、好きだったんです。
贅沢じゃないけど……ほっとする味で。
“また明日も頑張ろう”って思える、そんな晩ごはんでした」
やがて信子は、静かに言葉をこぼした。
「最後の夜もね、家帰って、このコロッケ温めてたんです。
そしたら……急に、苦しくなって……
気がついたら、もう――ここに来てた」
手が、震えていた。
その指は、ずっとレジを打ち続けてきた手だった。
「誰にも褒められなかったけど……
でも、私……あのレジに立つの、好きだったんです。
ちゃんと、“自分の居場所”だったんです」
灯は、静かに微笑んだ。
「あなたの“いらっしゃいませ”で、
誰かの一日が、あたたかく締めくくられていたんですよ」
「30年、レジに立ち続けたその手は――
“誰でもできる”ものではありません。
それは、あなたにしかできなかった仕事です」
信子の瞳が、潤む。
そして、じゃがいもコロッケにそっと箸を伸ばした。
口に入れると――ほろりと崩れる甘さ。
涙が、一筋、こぼれた。
「……おいしい。やっぱり……この味が、好き……」
最後まで、丁寧に食べ終えた信子は、
深く、深く、頭を下げて言った。
「ありがとう……レジっていう仕事に、誇りを持たせてくれて……」
供養食堂の窓が、そっと揺れた。
今日もまた、“誰にも知られなかった人生”が、
しょぼくれて見えたコロッケと一緒に――ちゃんと、救われた。




