ささみと、ただいまの声
ある夜、供養食堂の扉が、そっと揺れた。
静かな足音。
入ってきたのは、ひとりの老人だった。
杖をつきながら、ゆっくりとカウンターに近づき、
椅子に腰を下ろした。
「……ああ。えらく、静かでいい店だな」
穏やかな笑みと、どこかぽっかり空いたような目。
その肩に、ふわりと気配が寄り添った。
「いらっしゃいませ。今夜は、おひとりですか?」
女将・灯が声をかけると、
老人は少し首を傾け、静かに言った。
「いや、たぶん……ずっと、ひとりじゃなかった」
老人の名前は、安西 直之。
もうすぐ八十に届く年齢だった。
若いころに妻を病で亡くし、それ以来ずっと独り身。
子どももおらず、退職後は静かに暮らしていた。
ある日、家の前で震えていた子猫を拾った。
それが「しらたま」との出会いだった。
白くて小さくて、ミルクに顔を突っ込んで咳き込んだあの日。
「お前さん、なんてやつだ……でも、まぁいい」
気づけば、そこからずっと一緒だった。
季節が巡り、何十回も春が来て、
気づけば、お互いに年を取っていた。
「……猫はな、言葉をしゃべらんけど」
「そばにいるだけで、心があったかくなるんだよ」
「晩酌のときも、寝るときも。あいつはずっと、隣にいた」
灯は、黙って頷いた。
「でも、先に逝っちまってな」
「小さな体を、静かに丸めて……俺が気づいたときには、もう冷たくて」
「声も出せなかっただろうに、最期までそばにいてくれた」
「……今でも、思うんだよ」
「“ただいま”って言ったら、あいつが出迎えてくれるんじゃないかって」
灯はゆっくりと立ち上がると、奥へと下がった。
しばらくして、ふわりとした湯気とともに戻ってくる。
「お待たせしました。あなたと“あの子”の思い出の一皿です」
お盆の上には、小さな器に盛られた――やわらかく茹でた“ささみ”。
添えられたのは、お湯で温めただけのごはん。
何の飾りもない、けれど、そこには“日常”が詰まっていた。
「……ああ、そうだった。いつもこれだったな」
「俺がささみ茹でて、冷ましたあと、二人で食ってたっけな……」
安西の目が、ふいに潤んだ。
――その時だった。
カウンターの隣の席に、ふわりと白い影が現れた。
「……しらたま……?」
ちょこんと座る白猫。目を細め、ふにゃあと鳴く。
「……おかえり」
「……遅くなったな、待たせちまった」
老人はそっと、器のささみを割った。
ひとつは自分に、もうひとつは、しらたまの皿へ。
何も言わずとも、心が満たされていく。
“もう一度だけ、いっしょに食べたかった”――
その願いが、今、叶えられていた。
食べ終えたあと、老人は目を細めて、微笑んだ。
「……ありがとな。あんたがいなかったら、俺の人生は、きっと寒かった」
「でも、お前がいたから、俺はずっと、ぬくもりを知ってた」
しらたまが、にゃあと一声鳴いた。
そして、ぴょんと老人の膝に飛び乗る。
安西はそっとその体を撫でながら、立ち上がった。
「……行こうか。今度こそ、“いっしょ”に」
ふたりは肩を寄せて、光のなかへと歩いていった。
灯は、空になった器を丁寧に片付けると、静かに呟いた。
「大切な誰かと食べるごはんは――
何年たっても、心の中に生き続けるものですね」
今夜、供養食堂の窓が、ひときわ優しく揺れた。




