グラタンと、まだ間に合う「ありがとう」
その夜、供養食堂の扉がそっと開いた。
カウンターに座ったのは、一人の青年。
目の下には深いクマ、手は乾いていて、スーツはよれよれ。
まるで――限界の、その先に立っているようだった。
「……ようこそ」
女将・灯は、そっと声をかける。
「今夜は、あなたのために、一皿だけご用意しています」
青年の名前は、優。二十四歳。
障害者雇用枠で就職し、仕事に励んでいた。
――いや、励もうとしていた。
「……メモ取れや、金もらってんだろ、学校じゃねぇんだよ」
「これ何回言わせるの?ほんっと使えないねぇ」
そんな声が、影で、時に正面からも、毎日のように飛んでくる。
優は分かっていた。
自分は少し物覚えが悪い。臨機応変も苦手だ。
でも――それでも、必死だった。
「俺なりに……毎日、全力でやってるんです。
でも、もう……限界で……
気づいたら……気づいたら、足がここに向かってて……」
灯は黙って頷き、やさしい香りとともにキッチンから戻ってきた。
白いお皿の上には、湯気の立つ、こんがり焼かれたグラタン。
ベシャメルソースはとろとろで、
表面にはきつね色のチーズが香ばしく焦げている。
「これは、あなたのお母さんが、初めて一緒に作ってくれた味です」
優の目が揺れた。
「……覚えてる。
あれ、俺が小学三年の時だ。
“これはホワイトソースって言うのよ”って、母さんが教えてくれて……
最後に、“一緒に作るとおいしいね”って……」
スプーンを口に運ぶ。
その瞬間――
「あ……これ……!」
涙が、止まらなくなった。
「俺、忘れてた……こんな味が、俺にもあったんだ……
ありがとうって、言いたかったのに……!」
灯は、そっと言った。
「あなたは、まだ生きています。
このグラタンを食べて、“もう一度だけ”前を向こうと思えたなら――
戻ることも、できますよ」
優はゆっくりと顔を上げた。
カウンターの奥、その窓の向こうに、見慣れた自分の部屋が見えた。
机にもたれかかるようにして眠る、自分の姿。
「……まだ、間に合うんですね」
「ええ。
今なら、ちゃんと“ありがとう”を伝えられます」
立ち上がった優の顔には、
来たときよりも、ほんの少しだけ光が差していた。
「じゃあ……もう一度だけ、頑張ってみます。
この味を思い出せるうちは、大丈夫な気がするから」
灯は、やさしく微笑む。
「あなたの“ありがとう”が、誰かに届くその日まで。
この食堂は、いつでも開いていますよ」
目覚まし時計のベルが鳴った。
ガバッと飛び起きた優は、机の上のレシピ帳を見つめる。
開かれたページには、母と作ったホワイトソースの記憶。
彼は、ふっと笑った。
「……今日、伝えられるかな。“ありがとう”って」
部屋のカーテンが揺れる。
その向こうに、灯の姿が見えた気がした。
障害者雇用という言葉が、ただの“制度”で終わってはいけないと思います。
誰もが自分の力を信じて、社会の一員として生きようとしているのに、
その努力や存在を“数合わせ”として扱われてしまう――
そんな現実が、まだたくさんあります。
この物語のように、限界まで頑張ってしまう人が、
静かに、苦しみの中で心を閉ざしてしまう前に。
この話が、「今、誰かが声をあげられるように」
「そばにいる誰かが気づけるように」
そんなきっかけになればと願っています。
そして、障害の有無に関係なく、
“ありがとう”と“頑張ってるね”が届く社会になりますように。




