カレーと、“どうすればよかったのか”
その夜、供養食堂の戸がゆっくり開いた。
入ってきたのは、一人の女性。
目の下には深いくま、指には爪痕のような傷。
肩を落とし、まるで自分を消すように歩くその姿は、あまりにも静かだった。
「……ようこそ」
灯が声をかけると、女は一歩、また一歩と、足をひきずるようにカウンターへ向かった。
「ここって……地獄……ですか?」
灯は、かすかに首を振った。
「ここは“狭間”です。
一皿だけ――心の底から求めたごはんを食べる場所」
女の名前は、美砂。
25年間、たったひとりで、重度の発達障害をもつ息子を育ててきた。
幼いころは笑っていた。小さな指で母の髪をひっぱりながら、ケラケラと笑っていた。
けれど、成長するにつれ、その笑顔は減り、言葉は失われ、暴力が始まった。
「市にも相談しました。支援センターにも行きました。
でも、順番を待って、書類を書いて、“また連絡します”って……そればかりで」
「夜中に叫ばれて、叩かれて、外に出られなくて。
仕事も辞めて、誰にも頼れなくて……
“母親だから”って、全部、私がやるしかなかった」
ふと、美砂は笑った。
「一度だけ、泣きながら息子に言ったんです。
“お願い、もうやめて”って。
そしたら……彼、止まったんですよ。泣きながら、止まったんです」
「“おかあさん、こわい?”って。
そのとき、思いました。――彼も、限界だったんだって」
でも、その夜。
ひときわ大きな叫び声と、飛び散ったガラス。
自分の中で“何か”が壊れた。
「……気づいたら、もう……」
「朝、息子は冷たくなってて……
わたし、そのまま、包丁を持って……」
灯は、ただ黙っていた。
「……なんで、誰も、助けてくれなかったの?」
「“虐待ですか?”って聞かれたこともある。
“お母さんが頑張れば大丈夫ですよ”って、笑われたこともある」
「私は……
ただ、息子と――ちゃんと、“生きたかった”だけなんです……」
そのとき、カウンターに、やさしい香りが立ちのぼった。
出されたのは――
カレーライス。
にんじん、じゃがいも、玉ねぎ。
崩れるほど煮込まれた野菜と、甘口のとろみ。
少し焦げた香りさえも、どこか懐かしい。
「……これ……わたしが、息子に初めて作ったカレー……」
美砂は、スプーンを手にした。
手が震え、涙がこぼれる。
ひとくち、口に運ぶ。
「おいしいって……彼、言ったんです……
“あっまい!”って、笑ってくれて……」
「……ああ……わたし、ちゃんと、“お母さん”だったんだな……」
そのとき。
灯の隣に、少年の姿が現れた。
大きな体に、優しげな目。
まっすぐに母を見つめて、こう言った。
「ママ、ごめんね。
ぼく、いっぱい困らせて、ごめんね。
でもね、ずっと、大好きだったよ。ママしか、いなかったから」
「ありがとう。いっぱい、ありがとう……」
美砂は、もう声にならない嗚咽のなかで、彼の手を握った。
「……あなたのその言葉、
もっと早く、聞きたかったよ……」
灯は、小さくつぶやく。
「でも、届きました。
遅くない。今、この場所で、届いたんです」
美砂は、息子と手を取り合いながら、
やがて光のなかへと歩いていった。
カレーの香りが残る店内で、灯はふたつの器を並べる。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「ひとりじゃなかった――
そう言ってあげられる場所が、もっと早く、もっと近くにあれば」
「この悲しみは、きっと防げたかもしれないのに……」
窓の外、風がそっと暖簾を揺らしていた。
この物語はフィクションです。
けれど、決して“ありえない話”ではありません。
重度の障害を持つ子どもを、たったひとりで育てている人。
行政の支援が届かず、日々の限界と戦っている人。
誰にも助けを求められないまま、声をあげることすら諦めた人。
――そんな人が、今もこの世界のどこかで、現実に存在しています。
この作品は、
「決して許されることではないけれど、なぜそこまで追い詰められてしまったのか」
という、心の奥底にある叫びを、見て見ぬふりしたくなくて書きました。
そして、伝えたいことがもうひとつあります。
誰だって、障害のある子の親になるかもしれない。
誰だって、明日突然、障害者になるかもしれない。
それが“特別な誰か”のことではなくて、
“自分”や“大切な人”の話になる日が、あるかもしれないんです。
だからこそ、
今のうちから――「受け入れ合える未来」を、私たちは描いていかなければならない。
声をあげられない人の声に、耳を傾けられる社会であってほしい。
助けを求めたときに、「手を差し伸べてもらえる世界」であってほしい。
そう――これは、
理想かもしれない。綺麗事だって、笑われるかもしれない。
だけど、私はそれでも、願ってしまう。心から。
誰かの限界を、悲しい結末で終わらせないために。
“ひとりじゃない”と、信じられるように。
この物語が、
いま苦しんでいる誰かの、ほんのわずかな希望になりますように。
そして、あなたの心にも、小さな祈りが芽生えますように。
読んでくださって、本当にありがとうございました。




