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供養食堂 灯(とも)  作者: 脇汗ベリッシマ
20/32

カレーと、“どうすればよかったのか”

その夜、供養食堂の戸がゆっくり開いた。


入ってきたのは、一人の女性。

目の下には深いくま、指には爪痕のような傷。

肩を落とし、まるで自分を消すように歩くその姿は、あまりにも静かだった。


 


「……ようこそ」


(とも)が声をかけると、女は一歩、また一歩と、足をひきずるようにカウンターへ向かった。


 


「ここって……地獄……ですか?」


灯は、かすかに首を振った。


 


「ここは“狭間”です。

一皿だけ――心の底から求めたごはんを食べる場所」


 


 


女の名前は、美砂みさ

25年間、たったひとりで、重度の発達障害をもつ息子を育ててきた。


幼いころは笑っていた。小さな指で母の髪をひっぱりながら、ケラケラと笑っていた。

けれど、成長するにつれ、その笑顔は減り、言葉は失われ、暴力が始まった。


 


「市にも相談しました。支援センターにも行きました。

 でも、順番を待って、書類を書いて、“また連絡します”って……そればかりで」


「夜中に叫ばれて、叩かれて、外に出られなくて。

 仕事も辞めて、誰にも頼れなくて……

 “母親だから”って、全部、私がやるしかなかった」


 


 


ふと、美砂は笑った。


「一度だけ、泣きながら息子に言ったんです。

 “お願い、もうやめて”って。

 そしたら……彼、止まったんですよ。泣きながら、止まったんです」


「“おかあさん、こわい?”って。

 そのとき、思いました。――彼も、限界だったんだって」


 


でも、その夜。

ひときわ大きな叫び声と、飛び散ったガラス。

自分の中で“何か”が壊れた。


 


「……気づいたら、もう……」


「朝、息子は冷たくなってて……

 わたし、そのまま、包丁を持って……」


 


灯は、ただ黙っていた。


 


「……なんで、誰も、助けてくれなかったの?」


「“虐待ですか?”って聞かれたこともある。

 “お母さんが頑張れば大丈夫ですよ”って、笑われたこともある」


「私は……

 ただ、息子と――ちゃんと、“生きたかった”だけなんです……」


 


 


そのとき、カウンターに、やさしい香りが立ちのぼった。


出されたのは――

カレーライス。


 


にんじん、じゃがいも、玉ねぎ。

崩れるほど煮込まれた野菜と、甘口のとろみ。

少し焦げた香りさえも、どこか懐かしい。


 


「……これ……わたしが、息子に初めて作ったカレー……」


美砂は、スプーンを手にした。

手が震え、涙がこぼれる。


ひとくち、口に運ぶ。


 


「おいしいって……彼、言ったんです……

 “あっまい!”って、笑ってくれて……」


「……ああ……わたし、ちゃんと、“お母さん”だったんだな……」


 


そのとき。

灯の隣に、少年の姿が現れた。


大きな体に、優しげな目。

まっすぐに母を見つめて、こう言った。


 


「ママ、ごめんね。

 ぼく、いっぱい困らせて、ごめんね。

 でもね、ずっと、大好きだったよ。ママしか、いなかったから」


「ありがとう。いっぱい、ありがとう……」


 


美砂は、もう声にならない嗚咽のなかで、彼の手を握った。


 


「……あなたのその言葉、

 もっと早く、聞きたかったよ……」


 


灯は、小さくつぶやく。


 


「でも、届きました。

 遅くない。今、この場所で、届いたんです」


 


美砂は、息子と手を取り合いながら、

やがて光のなかへと歩いていった。


 


 


カレーの香りが残る店内で、灯はふたつの器を並べる。


そして、ぽつりとつぶやいた。


 


「ひとりじゃなかった――

 そう言ってあげられる場所が、もっと早く、もっと近くにあれば」


「この悲しみは、きっと防げたかもしれないのに……」


 


窓の外、風がそっと暖簾を揺らしていた。


この物語はフィクションです。

けれど、決して“ありえない話”ではありません。


重度の障害を持つ子どもを、たったひとりで育てている人。

行政の支援が届かず、日々の限界と戦っている人。

誰にも助けを求められないまま、声をあげることすら諦めた人。


――そんな人が、今もこの世界のどこかで、現実に存在しています。


この作品は、

「決して許されることではないけれど、なぜそこまで追い詰められてしまったのか」

という、心の奥底にある叫びを、見て見ぬふりしたくなくて書きました。


 


そして、伝えたいことがもうひとつあります。


誰だって、障害のある子の親になるかもしれない。

誰だって、明日突然、障害者になるかもしれない。


それが“特別な誰か”のことではなくて、

“自分”や“大切な人”の話になる日が、あるかもしれないんです。


だからこそ、

今のうちから――「受け入れ合える未来」を、私たちは描いていかなければならない。


声をあげられない人の声に、耳を傾けられる社会であってほしい。

助けを求めたときに、「手を差し伸べてもらえる世界」であってほしい。


そう――これは、

理想かもしれない。綺麗事だって、笑われるかもしれない。


だけど、私はそれでも、願ってしまう。心から。


誰かの限界を、悲しい結末で終わらせないために。

“ひとりじゃない”と、信じられるように。


この物語が、

いま苦しんでいる誰かの、ほんのわずかな希望になりますように。


そして、あなたの心にも、小さな祈りが芽生えますように。


読んでくださって、本当にありがとうございました。

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