思い出の味噌汁
ここは、あの世とこの世の狭間にある、不思議な食堂。
看板にはこう書かれている――「供養食堂 灯」。
目が覚めた時、男はその食堂の前に立っていた。
季節も、時間も分からない。だけど、懐かしい匂いが鼻先をかすめた。
「……味噌汁の、匂い……?」
暖簾をくぐると、小さな食堂には湯気が立ちこめていた。
カウンターに座ると、女性がにこやかに現れる。和装に割烹着。どこか懐かしさを感じさせるその顔に、男は見覚えがあった。
「いらっしゃいませ。お客様のために、一杯だけご用意しています」
「誰だ、お前……」
「私は灯。火を灯すように、心にごはんを届けたいんです。
ここでは、供養のごはんをお出ししています」
「……供養?」
灯は静かにうなずいた。彼女の目には、澄んだ湖のような深さがあった。
「お客様は、今……亡くなったばかりです。だからこの場所に来られたんですよ」
男はふっと笑った。
「ふざけた冗談を。俺が死んだ? ……そんなわけ……」
だが思い出そうとしても、何も浮かんでこない。名前も、歳も、仕事も、全部がぼやけている。けれど、ひとつだけ――手に染みついた味噌の香りと、夕暮れの台所の記憶だけが、残っていた。
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――父の背中を思い出す。
無口で厳しく、料理人だった父。
家ではほとんど笑わなかったが、毎晩欠かさず作っていたのは、味噌汁だった。
「味噌汁はな、帰ってくるやつのためにあるんだ」
そう言っていた――いや、あの背中が、そう語っていた気がした。
だが、反抗期に入るとその背を拒絶した。
料理人になれという期待を押しつけられるのが嫌だった。
「俺は料理なんかやらない!」
そう叫んだまま、家を出た。そして――父の葬式にも、顔を出さなかった。
「……最低な息子だったよ、俺は」
男の目に、はじめて涙が浮かんだ。
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「では、召し上がってください。最後の一杯です」
灯が出したのは、ただの味噌汁だった。具は豆腐とワカメ、少しのネギだけ。
だが、湯気の向こうに、父の背中が見える気がした。
一口すすると――胸の奥が、熱くなった。涙が止まらなかった。
ああ、これは――父の味だ。
「……ずっと、言えなかった。親父、ごめんな……」
味噌汁をすすりながら、男は静かに泣いた。
灯は黙って見守っていた。
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「……あんた、誰なんだ。なんでこんなこと、してくれる?」
男の問いに、灯は微笑んだ。
「私はただ、食べ物で心をほぐしたいだけです。
それが、私にできる“供養”だから」
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気づけば、男の姿は消えていた。
彼はもう、次へと歩き出したのだろう。
灯は、空になった味噌汁の椀をそっと片付ける。
供養されるのは、亡くなった人だけじゃない。
残された誰かの、心だって――。
「また、誰かの“ごはん”を、作りましょうか」
その言葉とともに、供養食堂の暖簾が、ふわりと揺れた。