玉子焼きと、“迷惑だったかもしれないけど”
夜の供養食堂。
ふと戸が開いて、ゆっくりと入ってきたのは、ひとりの老人だった。
背中は曲がり、足取りもおぼつかない。
何度も辺りを見回しては、戸惑ったように立ち止まる。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
女将・灯は、柔らかい声でそう言った。
老人は、なぜか涙が出そうになりながら、席についた。
「……あの、わし……ここが、どこかも……
自分が、何歳だったかも……よう、思い出せんのです……」
そう言って、頭を下げた。
灯は、そっと目を細める。
「ここは“供養食堂”。
記憶をたどるための、一皿をお出ししています」
老人の名は、坂本 孝一。
かつては町工場で働きながら、早くに妻を亡くし、男手ひとつで娘を育て上げた。
そして晩年は、孫のために毎朝お弁当を作るのが日課だった。
――けれど。
年を重ねるごとに、孝一は少しずつ記憶を失っていった。
名前が出てこない。家族の顔が曖昧になる。
ある日、孫の卒業式で、彼は式場に向かう道すらわからなくなっていた。
「……わしゃ、何もできんくなって……
ただ迷惑かけとっただけじゃった……
最後の最後まで、情けない……」
そのとき。
カウンターに、やさしい香りがふわりと広がる。
灯が運んできたのは、小さなお弁当箱だった。
中には――
・甘くてやわらかな玉子焼き
・ちいさなウインナー
・梅干しの乗った白いご飯
・彩りのピーマン炒め
「……こ、れは……」
孝一の手が、わずかに震えた。
「……これ……わしが、孫に……作っとった……やつじゃ……!」
箸を持つ手が、自然に動く。
玉子焼きを、ひとくち。
とたんに――記憶がぶわっと、押し寄せた。
「じいじの玉子焼き、大好きー!」
「また明日も作ってね!」「ぜったいぜったい、おべんとうの中に入れてね!」
無邪気に笑う孫の声。
何度も何度も「ありがとう」と言ってくれた笑顔。
「……ああ……わし、ちゃんと……愛されとったんじゃな……」
涙が、こぼれた。
「ごめんなぁ……何もかも忘れてしもうて……
お礼も……さよならも……何も、言えんかった……」
灯は、そっと手を添える。
「大丈夫です。
あなたの作ったお弁当は、ちゃんと覚えていますよ。
忘れてしまっていたのは、心じゃなくて――言葉だけだったんです」
ふと、席の隣に、小さな女の子の姿が現れる。
ランドセルを背負い、笑顔でこう言った。
「じいじ、ありがとうね。
今でも、お弁当のこと、ずっと覚えてるよ」
孝一の瞳に、再び涙がにじんだ。
「……もう一度だけ、玉子焼き、作ってやりたかったなぁ……
孫が大きゅうなったとこも、見たかった……」
女の子は、にこっと笑って答える。
「見ててくれたじゃん。
困ってるとき、じいじの声、聞こえてたよ。
“無理すんな”って、ちゃんと聞こえたよ」
孝一は、最後に微笑んだ。
「……わし、もう大丈夫じゃ。ありがとうな……ありがとう……」
ふたりの姿が光のなかへ消えると、
灯は、そっとお弁当箱を片づけながらつぶやいた。
「迷惑なんかじゃありませんよ。
あなたが残してくれた“味”は、今もちゃんと、心に生きているんです」
供養食堂の窓の外で、朝日が静かに差し込んでいた。




