たまごかけご飯と、最後の“お父さん”
その夜、供養食堂の暖簾がゆっくり揺れた。
重たい足取りで現れたのは、無精髭を生やした中年の男だった。
背広はくたびれ、目の下には深い影。
彼は、店内をぐるりと見渡すと、ぽつりとつぶやいた。
「……娘が、死にました」
女将・灯は、静かにうなずいた。
「ようこそ。今夜は、あなたのために一膳だけご用意しています」
男は、椅子に腰を下ろした。
「俺は……あの子と、もう何年も口をきいてません。
最後に会ったのは……菜月が家を飛び出した日。
言い合いになって、“勝手にしろ”って……突き放して、それっきりです」
手をぎゅっと握りしめながら、男は唇をかみしめる。
「でも、俺はあの子に――
一度くらい、“飯でも食うか”って言えばよかった……
たった一言でも、“元気か”って……」
灯は、黙って奥へと下がる。
やがて戻ってきたその手に、湯気の立つ茶碗があった。
「おまたせしました。
あなたの娘さんの、大好きだった朝ごはんです」
それは――白いごはんに、真ん中に落とされた生たまご。
少し甘めの醤油がかけられた、たまごかけご飯だった。
「……これ」
男が、目を細めた。
「……まだ菜月が小さかった頃、
毎朝、俺が作ってやってたんです。
卵の黄身をぐちゃぐちゃに混ぜて、
“ほら、たんぽぽごはんだぞ”って……」
小さな頃の、娘の笑顔がよみがえる。
“お父さん、明日もこれにしてね!”
“たんぽぽごはん、だいすき!”
「……あの頃は、よかったなぁ……」
男の手が震えている。
箸を握ったまま、声をふるわせて、こうつぶやいた。
「もう一度だけ、“お父さん”って呼んでくれねえかな……」
そのとき――
背中から、あたたかな声が届いた。
「……お父さん」
振り返ると、そこには――
あの頃のままの菜月が立っていた。
学生服のまま、髪を結んで、あのころと変わらない笑顔で。
「ごはん、食べて? それ、私の大好きだったやつだよ」
男は、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、一口、口に運んだ。
「……うまい……やっぱり、うまいな……」
箸が止まらない。
ひとくちごとに、込み上げる涙が止まらなかった。
「ごめんな……あのとき、ちゃんと話してやれなくて……」
「大人ぶって、正論ばっか言って……バカな親だった……」
菜月は、やさしく首を振る。
「私ね、ずっとお父さんのこと、嫌いになんかなれなかったよ」
「ただ、ちゃんと伝えたかっただけなの。
“もっと私の話を聞いて”って、“私の人生を信じて”って」
「でもね……
お父さんが作ってくれたこのごはん、
ずーっと、いちばん好きだったよ」
菜月は、にこっと笑って言った。
「――お父さん、大好きだよ」
男は、声を殺して泣いた。
もう、言葉は何もいらなかった。
菜月がそっと近づいて、父の背中に手を添える。
「ありがとう、お父さん」
そして、娘の姿は、朝焼けのような光の中に、すっと溶けていった。
灯は、空になった茶碗をそっと手に取り、言った。
「たまごかけご飯。
それは、“ただいま”と“おかえり”が込められた、一番やさしい味――」
気づけば、男はベンチに腰かけていた。
夜明け前の街角。
ポケットの中には、小さな包みがあった。
中には――
まだ温かい“たまごかけご飯”の香り。
頬を伝う涙をぬぐいながら、男はゆっくりと立ち上がる。
「……行くよ、菜月。
ちゃんと生きる。今度こそ――お前に、胸を張れるように」
その背中に、遠くで暖簾がふわりと揺れる音が、微かに届いた。
供養食堂の夜が明ける――
今日もまた一人、“生き直す”人が、歩き出していく。




