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供養食堂 灯(とも)  作者: 脇汗ベリッシマ
17/32

たまごかけご飯と、最後の“お父さん”

その夜、供養食堂の暖簾がゆっくり揺れた。


重たい足取りで現れたのは、無精髭を生やした中年の男だった。

背広はくたびれ、目の下には深い影。

彼は、店内をぐるりと見渡すと、ぽつりとつぶやいた。


 


「……娘が、死にました」


 


女将・(とも)は、静かにうなずいた。


「ようこそ。今夜は、あなたのために一膳だけご用意しています」


男は、椅子に腰を下ろした。


 


「俺は……あの子と、もう何年も口をきいてません。

 最後に会ったのは……菜月が家を飛び出した日。

 言い合いになって、“勝手にしろ”って……突き放して、それっきりです」


 


手をぎゅっと握りしめながら、男は唇をかみしめる。


「でも、俺はあの子に――

 一度くらい、“飯でも食うか”って言えばよかった……

 たった一言でも、“元気か”って……」


 


灯は、黙って奥へと下がる。

やがて戻ってきたその手に、湯気の立つ茶碗があった。


 


「おまたせしました。

 あなたの娘さんの、大好きだった朝ごはんです」


 


それは――白いごはんに、真ん中に落とされた生たまご。

少し甘めの醤油がかけられた、たまごかけご飯だった。


 


「……これ」


男が、目を細めた。


 


「……まだ菜月が小さかった頃、

 毎朝、俺が作ってやってたんです。

 卵の黄身をぐちゃぐちゃに混ぜて、

 “ほら、たんぽぽごはんだぞ”って……」


 


小さな頃の、娘の笑顔がよみがえる。


 


“お父さん、明日もこれにしてね!”

“たんぽぽごはん、だいすき!”


 


「……あの頃は、よかったなぁ……」


男の手が震えている。

箸を握ったまま、声をふるわせて、こうつぶやいた。


 


「もう一度だけ、“お父さん”って呼んでくれねえかな……」


 


そのとき――


 


背中から、あたたかな声が届いた。


 


「……お父さん」


 


振り返ると、そこには――

あの頃のままの菜月が立っていた。


学生服のまま、髪を結んで、あのころと変わらない笑顔で。


 


「ごはん、食べて? それ、私の大好きだったやつだよ」


 


男は、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、一口、口に運んだ。


 


「……うまい……やっぱり、うまいな……」


 


箸が止まらない。

ひとくちごとに、込み上げる涙が止まらなかった。


 


「ごめんな……あのとき、ちゃんと話してやれなくて……」

「大人ぶって、正論ばっか言って……バカな親だった……」


 


菜月は、やさしく首を振る。


 


「私ね、ずっとお父さんのこと、嫌いになんかなれなかったよ」


「ただ、ちゃんと伝えたかっただけなの。

 “もっと私の話を聞いて”って、“私の人生を信じて”って」


「でもね……

 お父さんが作ってくれたこのごはん、

 ずーっと、いちばん好きだったよ」


 


菜月は、にこっと笑って言った。


 


「――お父さん、大好きだよ」


 


男は、声を殺して泣いた。

もう、言葉は何もいらなかった。


 


菜月がそっと近づいて、父の背中に手を添える。


 


「ありがとう、お父さん」


 


そして、娘の姿は、朝焼けのような光の中に、すっと溶けていった。


 


 


灯は、空になった茶碗をそっと手に取り、言った。


 


「たまごかけご飯。

 それは、“ただいま”と“おかえり”が込められた、一番やさしい味――」


 


 


気づけば、男はベンチに腰かけていた。

夜明け前の街角。

ポケットの中には、小さな包みがあった。


中には――

まだ温かい“たまごかけご飯”の香り。


 


頬を伝う涙をぬぐいながら、男はゆっくりと立ち上がる。


 


「……行くよ、菜月。

 ちゃんと生きる。今度こそ――お前に、胸を張れるように」


 


その背中に、遠くで暖簾がふわりと揺れる音が、微かに届いた。


 


 


供養食堂の夜が明ける――

今日もまた一人、“生き直す”人が、歩き出していく。


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