のり弁と、泣けなかった夏
夜の供養食堂に、土の匂いを連れて、ひとりの少年が現れた。
ユニフォームのまま、スパイクを履いたまま、
泥にまみれたまま――
その手には、もうボールはなかった。
「……ここ、どこっすか」
息を整えながら、彼は店の中を見渡した。
そして、目の前の女将と目が合う。
「ようこそ。あなたのために、一膳だけ、ご用意しています」
カウンター越しに微笑む灯ともに、少年は小さく頭を下げた。
席に着くと、ぼそりとつぶやく。
「……たぶん、俺、死んだんだと思います。
信号無視のトラックに、突っ込まれた。
あっけなくて、笑えるくらい、すぐでした」
声は平坦なのに、胸の奥に沈んだ“何か”が伝わってくる。
「甲子園、あと一歩だったんです。
“絶対行こうな”って、仲間と約束して……
それなのに、俺だけ、途中で終わっちまった」
名前は、結城 拓海。
高校三年、背番号1。
エースピッチャーだった。
「毎朝4時半に、母ちゃんが弁当作ってくれてました。
起きたら玄関に置いてあって……俺、いつも無言で持ってった」
「“ありがとう”って、言ったこと、一度もなかったです」
拳を握った手が、じわじわと震えている。
「父ちゃんにも……いつも練習見に来てくれてたのに、
“うざいから来んな”とか言って……
あれ、絶対聞こえてたよな」
苦笑しながら、目が潤む。
「……バカだよな。
“うまかった”って、たった一言……それだけでよかったのに」
灯は何も言わず、奥へと下がった。
しばらくして戻ってくると、ふわりとあたたかい匂いが広がる。
目の前に置かれたのは――のり弁。
白ごはんの上に、ぴしっと敷かれた海苔。
甘辛いきんぴら、ふわふわの卵焼き、カリッとした唐揚げ。
小さなタクアンと、赤いプチトマト。
それは、何度も何度も食べてきた、“母の味”だった。
拓海は、目を見開いた。
「……母ちゃんの、弁当……」
箸を持つ手が、震える。
ひと口、口に入れた瞬間――
彼の喉が詰まり、涙が、止まらなくなった。
「……うまい……これ、母ちゃんの……!」
涙がぼろぼろと、弁当に落ちていく。
「何で俺、もっとちゃんと食べなかったんだよ……!」
「“ありがとう”って言えたチャンス、何回もあったのに……!!」
そして、ふとつぶやいた。
「……俺、もっとできたよな。
投げたかったよ……
あと一球だけでも、マウンドに立ちたかったよ……!」
その時だった。
背中越しに、誰かの声が聞こえた。
「何泣いてんだよ、エースのくせに」
振り返ると、
ユニフォーム姿の仲間たちが立っていた。
「お前がいなかったら、準決勝まで来れなかった」
「最後の登板、マジで最高だったぞ」
笑いながら、泣きそうな顔で。
今、生きてる仲間たちの想いが、確かに届いている。
彼の胸が、熱くなる。
「……みんな……俺、ほんとは……
“また明日な”って、言いたかったよ……!」
そこへ、ひとりの男が現れた。
スーツ姿のまま、無言で立つ――父親だった。
「……よく頑張ったな」
たった一言。
それだけなのに、すべてが救われる気がした。
拓海は、泣きながら言った。
「ありがとう……みんな……親父……母ちゃん……!」
仲間のひとりが、笑って手を差し伸べた。
「さあ、行こうぜ。あの続き、俺たちでやろう」
拓海は、その手を握り返す。
そして、光の中へ、仲間とともに駆け出していった。
食堂には、空になった弁当箱と、静かな涙の跡だけが残った。
灯は、それをそっと拭いながらつぶやく。
「届けられなかった“ありがとう”が、今夜もまた、
ちゃんと誰かの胸に届いたようです」
供養食堂の窓が、ふわりと揺れた。
泣けなかった夏は――
ようやく、静かに終わった。




