白いごはんと、“生きててもいい”の味
その夜、供養食堂の戸が、音もなく開いた。
風もなく、足音もなかった。
けれど確かに――誰かが入ってきた気配がした。
灯は、ゆっくりとカウンターの奥から姿を見せる。
そこには、制服姿の少女が立っていた。
髪は濡れ、肩は細く震えていた。
顔を上げたその瞳は、もう何も映していないように見えた。
「いらっしゃいませ。ようこそ――供養食堂へ」
少女は、返事をしなかった。
ただ黙って椅子に座り、スマホを見つめていた。
画面には、何度も消しては打ち直されたメッセージ。
「ごめんなさい」
「大丈夫」
「もう、限界」――
言葉にならなかった心の声が、そこににじんでいた。
「名前、ありますか?」と灯が尋ねると、
少女は、小さく、かすれるように言った。
「……あおい、です」
少女の名前は、佐倉あおい。十五歳。
中学の頃から、ずっといじめを受けていた。
机に落書き、無視、悪口、LINEでの晒し――
毎日が罰ゲームのようだった。
誰にも、言えなかった。
先生には「気にしすぎ」、
親には「あなたにも非があるのでは?」と言われた。
だから彼女は、
「何もないふり」をして笑っていた。
「わたし……頑張ってきたんです。
ずっと……“逃げたら負けだ”って、思ってたから。
でも……もう、どこにも居場所がなくて……」
震える声のまま、
あおいはカウンターに顔を伏せた。
灯は、何も言わずに奥へと下がった。
そして、やがて――静かな湯気と共に、現れた。
差し出されたのは、
白いごはんと、味噌汁、そしてふわふわの卵焼き。
何の飾りもない、ただの朝ごはん。
でもそこには、たしかに“あたたかさ”があった。
「これはね、“生きててもいい”って思える味ですよ」
あおいは、手を伸ばした。
震えながら、箸をとった。
そして――ひと口。
……あたたかい。
おなかじゃない、心の奥が、
――少しずつ、ほぐれていく。
「……こんなごはん、
……ずっと食べてなかった……」
涙が、ぽろりとこぼれた。
「ずっと……わたしが悪いんだと思ってた。
逃げたいなんて、甘えなんだと思ってた……
でも、もう……どうすればよかったのか、分からなかった……」
灯は、そっと目を細めて言った。
「逃げることは、“負け”じゃありません。
あなたが自分を守るために選んだ、大切な勇気です。
本当に壊れてしまう前に、ここに来てくれて――ありがとう」
あおいは、両手でごはんを抱きしめるようにしながら、泣いた。
「……わたし……生きてても……いいのかな……」
灯はうなずいた。
「あなたが、あなたを見捨てなかった。
その事実だけで、もう充分なんです。
逃げたあなたは、今日、生き延びたんですよ」
その夜、あおいは最後まで、全部食べきった。
食べ終わった器を見て、ぽつりとつぶやいた。
「……明日がこわい。でも、
“またごはんを食べたい”って、思えた」
灯は、そっと笑った。
「それが、“生きる”ということです」
そして、供養食堂の窓が、そっと揺れた。
ひとつの命が、
“いなくなる”ことではなく、“ここにいる”ことを選んだ夜だった。
今、あなたがいる場所は、
世界のすべてではありません。
つらいときは、そこから逃げてもいいんです。
それは「負け」じゃない。
自分の心と命を守る、立派な“勇気”です。
この物語を読んで、
「逃げてもいいんだ」と思ってくれる人がひとりでもいたら、
それが何より嬉しいです。
“食べる”ことは、“生きる”こと。
あたたかいごはんが、少しでも心に届きますように。
読んでくださって、ありがとうございました。




