カツ丼と、名前を呼ばれなかった父
「……ここが、“供養食堂”……か」
店に入ってきたのは、背中の丸い中年の男だった。
無精ひげに、ちょっとくたびれた作業着。
ついさっきまで厨房に立っていたかのような油の香りが、体にしみついている。
カウンターに座ると、男はぼそりとつぶやいた。
「……俺みたいなもんでも、来てよかったのかね」
「ようこそ。お待ちしていましたよ」
静かに現れた女将・灯が、穏やかに笑った。
「今夜は、あなたのために、一皿ご用意しています」
男の名前は、誰にも思い出されていない。
生前、町の小さな定食屋を一人で切り盛りしていた。
料理は丁寧だったが、口下手で、愛想もなかった。
家ではなおさら無口だった。
毎週末、決まってカツ丼を作った。
それが唯一、家族のそろう食卓だった。
でも、返ってくる言葉はいつも同じ。
「えー、またカツ丼?」
「たまには違うのがいいー」
「文句言うな。食え」
ぶっきらぼうにそう言って、台所に戻る背中。
――それしか、できなかった。
「……おれのこと、もう誰も覚えてねえよ。
定食屋も潰れたし、カツ丼も飽きられてた。
名前なんて呼ばれたこと、ねぇよ。
“とうちゃん”も、“あなた”も、もう何年も聞いてねぇ……」
ポツリポツリとこぼれる言葉は、重く、湿っていた。
「“カツ丼かよ、また”って、笑われてたよ。
それでも毎週作ったのは、なんでだったんだろうな……」
灯は、黙ってカウンターの奥へ下がった。
しばらくして出されたのは――
湯気の立つ、分厚いロースカツが乗った丼ぶり。
卵はふんわり、玉ねぎは甘く煮えて、
タレの香りが、鼻の奥にじんわりしみる。
「おまたせしました。
こちらが、あなたの“カツ丼”です」
男は箸を持ち、そっと一口、口に運ぶ。
噛んだ瞬間、鼻の奥がつんとした。
味は――自分の味だった。
誰も何も言ってくれなかったけど、
子どもたちは、ちゃんと全部食べてた。
妻は、文句を言いながらも毎回テーブルに丼を並べてくれていた。
「……そっか。食ってたんだな……
“またカツ丼かよ”って言いながら……残さずに」
箸が止まり、ふと灯を見る。
「なぁ、俺……
あいつらに、何か残せてたのか?」
灯は静かにうなずいた。
そして、たった一言だけを返す。
「“おいしかった”って、ちゃんと伝わってますよ」
男の目に、涙が一粒だけこぼれた。
「……それだけで、十分だったんだよな……」
食べ終えた男は、立ち上がりながら、少しだけ背筋を伸ばす。
「また“カツ丼かよ”って言ってんだろうな、あいつら……
でも、また食わせてやるよ。次は、もうちょい上手くなってな」
灯は静かに笑った。
「きっとその日、誰よりも早く食卓に座って、待ってますよ」
男の背中は、もううつむいていなかった。
すこしだけ誇らしげに、光の中へと消えていった。
そのあとに残ったカツ丼の香りだけが、やさしく、食堂に残っていた。




