刺身と、あなたを守った手
その夜、供養食堂にやわらかな風が吹いた。
暖簾が静かに揺れ、ひとりの女性が現れる。
長い髪を束ねた、若い女性。
その手には、小さな赤ちゃん用の帽子が握られていた。
目元は優しいのに、どこか遠くを見ているようだった。
「いらっしゃいませ。ようこそ、供養食堂へ」
女将・灯は、いつものように微笑む。
けれど、その微笑みには、どこか深い祈りが込められていた。
女性は、椅子に腰を下ろし、ぽつりとつぶやいた。
「……赤ちゃんは、助かったんです。
わたしじゃなくて、あの子が生き延びました」
声は震えていなかった。
でも、その言葉の奥にある“痛み”は、食堂の空気をふるわせるほどだった。
「妊娠中、いろんなものを我慢してました。
お酒も、カフェインも、生ものも。
でも……いちばん、食べたかったのは――お刺身、でした」
彼女は、少しだけ笑った。
「産んだら、一番に食べようって決めてたんです。
“がんばったごほうび”にするんだって。
……でも、その“ごほうび”をもらう前に、わたし、いなくなっちゃったんですね」
灯は何も言わず、奥へと下がった。
静かな音だけが、厨房から響く。
やがて、出された一皿。
――それは、色とりどりの刺身だった。
透き通るような鯛。
脂が乗ったまぐろ。
やわらかなサーモン。
白い皿の上に美しく並べられた命のかけらたち。
わさびは少しだけ。
炊きたての白いごはんと、出汁の香る味噌汁も添えられていた。
女性は、箸を持った手を震わせながら、ひと口、口に運ぶ。
……やさしい。
冷たいはずなのに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
「……これが、“ごほうび”なんですね」
「……わたし、生きてたら、こんな味を知ってたんだ……」
涙が、ぽろぽろとこぼれた。
「ほんとは、抱っこしたかった。
“おめでとう”って言ってほしかった。
“ありがとう”って、伝えたかった……」
「生まれてきてくれてありがとう、って――たったそれだけなのに、言えなかった……」
灯は、静かに語りかけた。
「あなたは、命をかけて“ひとつの未来”を守ったんです。
その想いは、ちゃんと伝わっていますよ。
――あの子の心の奥に、あなたのぬくもりは残っています」
女性は、涙を拭いながら、最後の一切れをゆっくり噛みしめた。
「……わたし、幸せだったんです。
たしかに痛かったし、怖かったけど……
でも、産めてよかったって――今、思えます」
そっと、赤ちゃんの帽子を椅子に置く。
「いつか……あの子に届くといいな。
“あなたは、ママの命ぜんぶで、守られたんだよ”って」
灯は、そっと帽子に手を添えてつぶやいた。
「届きますよ。きっと。
“生きてる”というその毎日の中に、
あなたの愛は、ちゃんと染みこんでいきます」
女性は、光に包まれて、ふわりと姿を消した。
その瞳には、少しだけ“報われた安堵”が宿っていた。
そして今夜も――
供養食堂の窓が、そっと揺れた。
椅子の上には、赤ちゃんの小さな帽子。
器には、ほんのひとしずく、涙のあと。
灯はそれをそっと拭いながら、心の中で祈った。
「生まれてきた命が、
たくさんの“おいしい”と“ありがとう”に包まれますように」
――それは、生きるすべての人へ。
命を懸けた母からの、最初の贈り物だった。




