1/32
はじまり
「忘れられないごはんは、心に一番近いところにしまってある。」
音もなく火が揺れていた。
土間の囲炉裏に置かれた鉄鍋から、ゆるやかに湯気が立ちのぼる。
味噌と出汁の香りが、まだ目覚めきっていない体の奥に、じわりと染みこんでくる。
――ここは、どこ?
そう思ったときには、すでに灯はその場に座っていた。
誰がそうしたのかもわからない。けれど、不思議と不安はなかった。
ただ静かで、あたたかくて、懐かしい台所のような場所。
「……灯さん。お目覚めですね」
背後から声がした。白い髪の青年が立っていた。
彼は微笑みながら、ゆっくりと言った。
「ここは“狭間”です。現世と来世の、ちょうど途中。
あなたは……もう、戻れないところまで来たんです」
ああ、と灯は思った。
わかっていた。
体の痛みにも、めまいにも、何年も前から気づいていた。
でも、言えなかった。
頼れなかった。
働かなきゃ、止まったら、全部こわれてしまうと思っていたから。
気づいたときには、帰り道の街灯が滲んで見えて、
気がついたら、もうここだった。