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緩やかな浮遊感。……落ちている、というよりは沈んでいるという感じだ。
それからぼくの脳裏に浮かんだ顔は、見慣れた風の寝顔だった。ぼくの思い出の中で、風の顔は相変わらず死体のような顔をしていたけど、でも、きっともう大丈夫だ。実際の別れ際の風は、生きた人間のような顔をしていたし、それに風はああ見えて、とても強い女の子だし、大麦先生や秋子さん、冬子さんという、心強い頼りになる大人たちが、ずっと風のそばにいてくれる。だからぼくは、もう会うこともない風の心配なんてちっともしていなかった。
闇は深く、ぼくの体はその冷たい緩さの中をゆっくりと下降していく。
その途中で、ぼくは『自分に人間の手足がある』ことに気がついた。闇を下降していく間に、ぼくはいつの間にか、『一匹の黒猫から一人の人間に戻っていた』。すると、今度は不思議なことが起こり始めた。
人間のころのぼくの記憶がだんだんとしっかりし始めて、それに反比例するようにして、猫だったころのぼくの記憶が曖昧になっていった。……ぼくの中から、強制的に、真夜中の病院での記憶が、……大麦先生の記憶が、……秋子さんや、冬子さんたちの記憶が、……そして、風の記憶が消えていく。
僕の中から失われていく。
なくなっていく。
……、ぼくはそのことを、このとき、……素直に悲しいと思った。




