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深津先生とお庭で別れて、部屋の中に戻ってくると墨はさっきまでと同じ綺麗な正座の姿勢で座布団の上に座りながら、ぼんやりとなにも描かれていない真っ白な紙を畳の上に置いて、それを、じっと見つめていた。(もしかしたら、墨の頭の中では、もうなにかの水墨画が紙の上に描かれているのかもしれないけど)
硯と墨の描いたそれぞれの龍の水墨画はもう深津先生の評価をいただいて大切に閉まってしまったあとだった。評価はいつものように硯が合格。墨も合格で、さらに、文句なしの評価だった。
墨は戻ってきた硯をみるとにっこりと笑って「どう? 父さんと話してみて、なにか収穫はあった?」といつものようなのんびりとした雰囲気で硯に言った。
硯は墨を見て「うん。もちろん。いっぱいあった」とにっこりと子供っぽい顔で笑ってそう言った。(それは強がりじゃなくて、本当にそうだった)
「そうなんだ。よかった」と墨は小さく笑ってそう言った。
それから硯は水墨画の絵を描くための道具を片付けて、深津先生、都さん、そして墨にいつものように「おつかれさまでした」の挨拶をしてから、深津家をあとにした。
深津家を出るときに普段はなにも気にならないのだけど、そのとき硯はふと気になって玄関のところで立ち止まって振り返ると、じっと、ずっと小さな子供のころからお世話になってきた深津家を見て、その場所で、深々とあたまを下げてお辞儀をした。それから硯は、……、あれ? なんで私、深津先生のお家にお辞儀をしようと思ったんだろう? と不思議な気持ちになってから、気を取り直して、ここから、すぐ近くにある自分の家、(どこにでもあるような普通の家の)愛しの田丸家に向かって、もうすっかりと暗くなってしまった秋の夜の月明かりの綺麗な空を見ながら、歩きなれた道の上を少し早足で歩き始めた。




