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だけど黒猫の子猫はその代わり、ぼくの顔をずっと、ずっとその緑色の二つの目で見つめていた。(猫じゃないぼくにはわからなかったけど、もしかしたら、ぼくになにかを言おうとしてくれていたのかもしれない)
ぼくは心の中で「さようなら」と、その生意気な黒猫の子猫に言った。
静かな開閉音がして、大きな青色のバスのドアが閉じられた。ぼくが上を見ると、風も、お医者さんの年老いた太っちょな先生も、(大きな青色のバスに乗り込むのがちょっとだけ大変そうだった)双子の綺麗な看護婦さんも、みんながぼくに笑顔を向けてくれていた。それからゆっくりと大きな青色のバスが移動を始めた。お客さんが全員乗り込んだことで、大きな青色のバスの出発する時刻がやってきたのだ。みんなは高いところにある大きな青色のバスの窓を開けて、そこから身を乗り出して、ぼくに大きく手を振ってくれた。ぼくも自由になる右手だけで、みんなに手を振り返した。その光景の中に黒猫の子猫の姿は見えなかった。きっとあの黒猫の子猫は今頃、風の膝の上にでもいて、そこで丸くなって気持ちよく居眠りでもしているのだろう、とぼくは予想した。(そんな風景が、ありありと想像できた。眠たそうにあくびをしていたし)
大きな青色のバスが土煙をあげながらゆっくりと出発した。ぼくはみんなを乗せた大きな青色のバスが見えなくなるまで、大きな青色のバスの白い待合小屋の前に立って、その場でずっと、ずっと、大きな青色のバスに乗って走り去っていくみんなのことを見送った。
風は最後まで、ぼくのことをずっと見てくれていた。
(遠くに見える小さな風は、泣いているみたいに見えた。……、今のぼくと同じように)
大きな青色のバスはそれからすぐにぼくの視界の中から消えていった。
……、それと同時に世界から音が消えた。