花束を君に
私の大好きだった赤、白、黄色。
全部無くなって私の目の前は真っ暗の世界になったんだよ。
もう一度「綺麗」って思いたい
花が人を笑顔にする時代なんて過ぎたと思っている。
一昔前なら、花を贈ることが素敵だと言われていたし、男性から女性にバラの花束なんてロマンチックだと言われていた。ドラマや映画でも良く見かけるシーンだ。だけど、今は令和。時代は変わる。
今の時代に花を貰って心から喜べる人なんて居るのだろうか。
手入れが大変だとか、花束をもらってもどう処理していいか分からなくて結局枯らしてしまう人がほとんどなんじゃないかな。花より団子、その通りで、同じ金額をかけるなら高級スイーツや化粧品を貰った方が喜ぶ女性の方が多数だと思う。
そんな事を腹の底で思いながら、今日も私は花屋の店頭に立っている。
「いらっしゃいませ、贈り物ですか?」満面の営業スマイルで私、中島のぞみはそう言った。
相手は四十代くらいのマダム、ブランドのバッグを片手に先ほどからずっと店内をウロウロしていたのでこちらから声をかけてみた。
「そうなのよ!ご近所で良くして下さる奥様のお嬢さんがお誕生日でね、7歳になるの!最近の子どもが喜んでくれものが分からないから無難にお花をと思って」
マダムは声をかけられるのを待ってましたと言わんばかりに勢い良く言った。7歳の子どもに花を贈り、本当に喜んでくれるのだろうか、きっとこのマダムは子どもにではなく、「奥様」に喜んで貰いたいのだろう。
「素敵ですね。そうですね…では、女の子でしたらピンク色のお花をメインに、可愛らしい雰囲気の丸いアレンジメントを、キラキラのリボンでラッピングしてみるのは如何ですか?季節のお花を取り入れたらきっと喜ばれるのではないしょうか」
そう言って私はピンク色のふんわりと丸々した花を手に取りマダムの方に向けて見せた。「わあ素敵…なんてお花?」マダムはうっとりとした表情でその花を見た。
「ラナンキュラスと言う季節のお花ですね、花言葉にも「可愛らしい」という意味もあるので、ぴったりかと」
マダムは何度も「素敵!」と言い、私がアレンジメントを作る間ずっと作業台の向こうから私の作業を見守ってくれていた。
「ありがとう!」そう言ってマダムは私の作ったアレンジメントを大切そうに抱き、店を後にした。
「どうせ一週間後には枯れてるのに」
そんな汚い感情が私の中をぐるぐると回っていた。
昔は花が好きだった。
赤色に燃えるカーネーションも、白色に微笑むガーベラも、黄色に輝くチューリップも全部が輝いていて、その全てが自分の家の庭にあった。私の家の庭はお花畑だった。
私が生まれてすぐに離婚をした母は、女手一つで私を育ててくれた。そんな母は狭いマンションのベランダでいつも花の手入れをしていた。
「いつか大きいおうちを買って、大きいお庭でお花をたくさん育てようね」それが母の口癖で、私は今でも充分なのにな、なんて思いながらもそんな母を見るのが好きだった。母と私だけの小さなお花畑が大好きだった。
私が小学2年生の時、母と乗っている車によそ見運転をしていたトラックが突っ込んで来た。
私が目覚めたとき、知らない部屋に寝かされていて、そこが病院のベッドだと理解するまで数分を要した。周りにいたたくさんの大人は私の事を可哀想だという目で見ていた。小学2年生の私には何が起きたのかを察知するには充分過ぎるくらいの反応だった。私は一人になったんだな、そう悟った。
数週間入院をしていた期間は親戚のおばさんと名乗る大人が世話をしてくれた。今まで見たことのない、知らないおばさんだったが、とても優しくお世話をしてくれた。
おばさんは「退院したらうちに来ない?のぞみちゃんには言ってなかったけど…実は」と言ったところで、私はその申し出を最後まで聞かず、おばさんを遮り、施設に入ると言った。
離婚をした父はいまどこで何をしているのだろう。母が死に、一人残された私を迎えに来るのは普通父なのだはないのか。子どもながらにそんなイライラを募らせた私はおばさんと名乗る大人に精一杯の反抗をした。
今は何も聞きたくない。そんな気持ちでおばさんの申し出を遮断した。おばさんはそのあと何度か同じ事を申し出てくれたが、やはり私は頑なに施設に入ると言った。
退院してから施設に入る難しい手続きは全ていつの間にか済まされていて、私は施設の人と一緒に数週間ぶりに自宅マンションへ帰った。
私の大好きだったお花畑は見るも無残な姿になっていた。水を与えられなかった花たちはカラカラに枯れ、茶色くなり弱々しく首を垂れ、異臭を放っていた。大好きだった母ももう居ない。枯れ果てた花畑を目の前にして、ようやく全て失ったのだと頭が現実を受け入れた。
それから私は施設に入り、そこで育った。悲しくなるから花は見たくなかった。太陽に向かって元気に咲いている花を見ると自分が情けなく、なんとも言えない気持ちになった。
高校を卒業して、やりたいことも見つからなかった私はフリーターになり一人暮らしを始め、アルバイトを探した。花屋のバイトばかりが目に留まる。時給はそんなに良くない。体力仕事なのも知っている。何より自分がまだ眩しすぎる花を見るのが辛かった。それなのに気がつけば私はフラワーショップへ履歴書を送っていた。
そこから間もなくショップから採用を知らせる電話が来た。
このフラワーショップで働いてもうすぐ4年、もうすぐ私は二十二歳になる。少しは花に対するトラウマも薄くなって来たかもしれない。
「あ…すみません」昔の思い出に完全に浸っていた私を突然現実に引き戻す声が聞こえた。そこに立っていたのはスラっと背の高い金髪の男だった。
「お花、欲しいんですけど…全然分からなくて…アドバイス貰えますか?」
派手な見た目とは裏腹に、とても腰の低い話し方で驚いた。
「贈り物ですか?」いつもの営業スマイルで対応する。
「そうです、年配の女性に渡したくて。花に詳しい女性です。もうすぐ誕生日です」そう言って金髪の男は優しく微笑んだ。
なんて優しい笑い方をする人なんだろう、そう思った。年配の女性…母親かな?素敵な親子なんだろうな…いや、年上の彼女か?と、色んな推測をしていると男は不思議そうにこちらを見る。
「あの…?」
「あ、すみません。考えていました」嘘ではない。
「そうですね、大人の女性ということなので、落ち着いた淡い紫と白をベースにした花束など、どうでしょうか?トルコキキョウと言う淡い紫の花は見た目がバラに似ていますがバラより柔らかい雰囲気です。あとは小花とカスミソウでふんわりボリュームを出し、シックなラッピングで仕上げたら綺麗にまとまると思います」
金髪の男は黙ってこちらを見ている。ダメだっただろうか。
「すごい、花の事全然分かんないけど綺麗なのは分かります!それでお願いします!」男は笑った。笑顔が綺麗な人だな、そう思った。
私が花束を作っている間、男は先ほどのマダム同様、ずっと作業台の向こうからずっと私の作業を見守ってくれていた。
私の作った花束を大絶賛してくれ、クレジットカードで支払いを済ませると、「これからこのお店、通っちゃいそう!」と笑い、花束を大切そうに抱き帰って行った。
「イノウエ…ショウ…かあ」クレジットカードを通したときに知った彼の名前をぼんやり呟き、何故か母の事を思い出して胸が苦しくなった。
「いらっしゃ…あ」大事そうに花束を抱えて帰った後ろ姿を見送ってから二日後、イノウエショウは相変わらず眩しい笑顔で私の前に立っていた。
「今日は、自分用の花を買いに来ました」彼は笑う。
「自分用?お誕生日なんですか?」
「いや、普通に部屋に飾りたいなって」
思わず吹き出してしまった。花屋で働き出して4年、自分の為に花を買う若い男に私は今まで出会った事がなかった。
「んー、サボテンとか、どうですか?」
「花じゃないじゃん!」
「立派な花ですよ!お手入れが簡単なので男性にぴったりかと」
「あ、そうなの?お気遣いありがとう、でも毎日水替えしなきゃいけない手のかかる花でも全然余裕、俺頑張りますから」そう頑なに訴えてくるものだから私も彼の要望に応えようと思い考えてみる。
「んー、だったら…カーネーションとか、どうでしょう。大輪のものだと1輪でも凄く存在感があって、長持ちするし匂いもそこまできつくないです」
「うん、それで」
「お兄さんそんな即決で本当にいいんですか?」
「お兄さんじゃないです、翔って言います。はい、それでいいです」
バケツの中から水色の大輪カーネーションを一本選んだ彼は支払いを済ませながら「よかったら花瓶、一緒に買いに行ってくれませんか?」と言った。彼の顔を見た。笑っていなかった。真剣に言ってるのだと汲み取った私は時計を確認した。
「あと1時間で仕事終わります」自然にそう発していた。
私の仕事が終わるまで、2軒隣のカフェで待っていると言っていた。定時になりいつも通り仕事が終わる。いつもと違うのはこの後私を待っている人がいるという事。
連絡先も交換していなかったので半ば半信半疑でカフェを覗いてみると、本当に彼が待っていた。私に気づかず先ほど購入した水色のカーネーションを見つめながら座っている。
「お待たせしました」そう言ってカフェに入っていき、彼の前に腰をおろした。すると彼は嬉しそうに「水色だけど、薄い部分があったり、濃い部分があったり、1本の花なのに色んな顔があるんですね」と、喜んだ。
自分の為に花を買ったり、花に対してこんなに興味を示す男性に出会ったのは初めてだったのでびっくりしたけど、悪い気はしない。
「かわいいです」彼はカーネーションに向かってそう言う。
かわいい。母も花に対してそう言っていた。私も昔は母と同じように花にかわいいと言っていた。母が死んで以来、頭をよぎるのは枯れ果てた赤白黄色。その辛い記憶が思い出を支配する。母が死んでから私は花をかわいいと言えなくなっていた。
カフェで軽く食事を済ませてから彼の要望通り花瓶を買うべく、お洒落な家具屋に向かい、彼はシンプルだけど存在感のある縦長の花瓶を選んで買った。
「かなり良い買い物をしました…本当にありがとうございます」
お礼がしたいから、という理由で夕ご飯に誘ってもらい、入ったレストランで色んな話をした。翔くんは私の二つ年上で二十四歳だということ、先日の花束は母へのプレゼントだったということ、しかし本当の母ではなく父親の再婚相手だということ、だけど本当に優しくて大好きだということ。私も気づけば自分の話を翔くんに聞かせていた。
母子家庭だったが幸せだったこと、母が死んでしまったこと、何故花屋で働いているか自分でも分からないこと。翔くんは真剣に聞いてくれていた。
「天国のお母さんが、花屋で働きなさいって言ったのかもね。で、俺と出会わせてくれたのかも」あまりに真剣に言うもんだから恥ずかしくなって笑いそうになった私の手を翔くんは取った。
「本気だよ。初めて見たときから惹かれてた」
私たちが付き合うまで時間はかからなかった。
翔くんはとても誠実で優しくて、仕事にも真面目だった。金髪だからチャラチャラしているのかと思ったけど、アパレルの店で店長をしていたから、ファッションには人一倍気をかける。そんなところも好きだった。
気付けば翔くんと付き合って1年が経とうとしていた。この一年で私は少しづつだけど、花をかわいいと言えるようになったし、かつての母と私だけの枯れ果てた悲しい花畑の光景も思い出さなくなったきていた。
翔くんはこの一年でかなり花に詳しくなり、公園で遊んでいる小さな女の子たちに「それはパンジーって言うんだよ。で、あっちのがビオラだよ」なんて言っては「お花のお兄ちゃん」なんて呼ばれたりするようになっていた。
「のぞみ」翔くんが、ベッドに寝ころび携帯ゲームをしている私に話しかけた。
「両親に、のぞみを紹介したいんだけど…会ってくれないかな」
びっくりして携帯を落とした私を見て笑いながら翔くんが続けた。
「いや、そろそろ紹介したいな、って。彼女が居ることは前々から伝えてあるんだけど。大丈夫、心配しないで。のぞみの家庭の事とかは会う前にちゃんと伝えておくよ、色々聞かれるの辛いでしょ?」
翔くんの優しさが染み渡る。
「うん…でも、両親が居なくて施設育ちの私なんか受け入れて貰えるのかな」不安が素直に口に出る。
「大丈夫だよ、うちの親はそんなこと全く気にしないよ」
その一言ですべてが救われた。そうだよね、大丈夫だよね、こんなに優しくて素敵な翔くんのご両親だから、大丈夫、きっと受け入れて貰える。そう自分に言い聞かせた。
「うん、わかった。」そう言って翔くんの両親に挨拶をする日が決まったら連絡をしてもらう約束をして、美容院に行かなきゃな、なんて考えていた。
それが翔くんとの最後の会話になった。
あの日以来翔くんから連絡がない。こちらから電話をかけても出ない、向こうからの応答も無し。家に行っても会えない。翔くんは一人暮らしだけど、合鍵は貰っていなかった。突然突き放されてどうしたらいいか全く分からない。
思い当たるとしたらただ一つ、両親から施設育ちの女なんてやめておけと言われたのだろう。だけどそれなら一言そう言ってくれてもいいじゃないか。何も言わず居なくなってしまうような人だったのかと考えても考えても絶望しか生まれない。もしかしたら事故にでもあって…と、別の方向で不安が募る。迷惑なのも分かっている、ストーカーと思われたらどうしようかとも思ったが、気づけば私は翔くんの職場に向かっていた。
お洒落な服屋さんの中で、私の知っているいつもの笑顔で接客をしている翔くんを見つけた。なんだ、よかった。事故したわけじゃなかった。私が避けられていただけだ。それが分かっただけでも充分じゃないか。
帰ろう。もういい。翔くんには私が必要なくなっただけだ。そう言い聞かせて震える体をどうにか支えながら私は自分の家に帰った。
あの日から数か月が経ち、季節は春、もうすぐ母の日が来ようとしていた。私は突然の失恋からご飯が食べられなくなり、体重がかなり落ちたが友人や店長に支えられながらどうにか踏ん張っていた。
母の日が近くなり、カーネーションが大量に入荷されてきた。その中に水色のカーネーションを見つけ、胸が苦しくなる。
「なんでみんなさよならもありがとうも言わせてくれないんだろう」
母も翔くんもそうだ。せめて最後のお別れが綺麗に出来ていたら、こんなに苦しい思いも少しはなかったのかもしれない。翔くんは今どこで何しているんだろう。新しい彼女に花でも贈っているのだろうか。
涙を必死に堪えながら花の検品をしていると店のドアが開き、お客さんが入ってきた。
「あ…すみません」ドアの方から聞こえる声にハッとした。聞き慣れた声。
「翔くん…」間違いない。そこに立っていたのは数か月ぶりに見た翔くんだった。数か月見ないうちにとても痩せた気がした。
「のぞみ、痩せた?」
「…いきなり居なくなった人の数か月ぶりの第一声が、それ?」
違う。そんな事が言いたいわけじゃない。攻めたいんじゃない。今までどこにいたの、何をしてたの、何を考えていたの?聞きたい事も言いたいこともたくさんあった。だけど感情がついていかなかった。
「今日は…母の日に贈る花を、買いに来たんだけど…」何も答えになっていない。色んな感情が入り交じり、だけど今は仕事中、泣くことなんて出来ないし、縋る事も出来ない。もちろん怒る事だって不可能だ。
「母の日…あ、うん、そうだね。また、紫でいい?違う色にする?」精一杯だった。
「いや、のぞみオリジナルでお願い。のぞみが自分のお母さんに渡すつもりで花束を」真剣な目をして翔くんは言った。
私が自分のお母さんに渡すつもりで母の日の花束?もうこの世には居ないことを知っているくせに、なんて心無いオーダーをしてくるんだろうと、翔くんの事がどんどん分からなくなる。
私は黙って花を組みだした。自分には関係のない母の日、今まで辛くて避けて来たが、母との思い出を引き出し、花を選ぶ。
赤色に燃えるカーネーション、白色に微笑むガーベラ、黄色に輝くチューリップ、花言葉も考えず、ただただ母の思い出に浸りながら記憶の中の母と私だけのお花畑を再現した。それはもう枯れ果てた花畑ではなかった。翔くんは何も言わずずっと見ていた。
「出来た」そう言って花束を見せると翔くんは少し潤んだ瞳で「最高」と言った。相変わらずクレジットカードで支払いを済ませ、帰ろうとする翔くんに仕事を忘れて叫んだ。
「母の日、思い出させてくれてありがとう。これでさよならなんだね?」
翔くんは何も言わず、花束を抱きしめて帰っていった。
これで本当に終わったんだな、そう思った。
定時で仕事が終わり、いつも通り帰ろうとする。大丈夫、ずっと一人だったんだ。失くしたのではない、戻っただけ。一人に戻っただけ。
そうだ、今日はたくさんお母さんを思い出したから、少し寄り道をして帰ろう。
「店長、少しお花、貰って帰っていいですか?」
「あら中島さん、珍しいね」
「あ、母の日が近いので、今日はお墓参りにでも行こうかなって。家の仏壇にしか最近手を合わせていなかったので」
お人好しの店長はそれならばとたくさんの花を包んでくれた。両手いっぱいの花を抱き、通い慣れた霊園へと足を運ぶ。
最近来れてなかったな、雑草だらけになってたらどうしよう、と不安になりながら母の待つ墓石へ向かう。
我が目を疑った。息が上手く出来ない。どういうこと?
母の墓には、今日私が母を思い作った色鮮やかな花束が供えられていた。
翔くんが来た?何故?まって、おかしい。私は翔くんに母の墓の場所なんて言った事ないし、一緒に来た事もない。
ハッとした。嘘だ。そんな事があるものか。私は携帯を取り出し、唯一の親戚であるおばさんに電話をかけた。1コールがすごく長く感じられる。「もしもし?のぞみちゃん?」十数年ぶりに聞いたおばさんの声は記憶の中の声より少し違っていた。
「ごめん、おばさん…私、あの頃、全てがいっぱいいっぱいで…何も知らないの。教えて。おばさんは私とどういう繋がりの関係なの?あの時、うちに来ていいのよって言ってくれた時、言おうとしてた「実は」の続きは、なに?」一気に話したので息が苦しくなった。
おばさんが電話の向こうで泣き出したのが分かった。すすり泣くおばさんが小さく「ごめんなさい」と言ったのが聞こえた。
「翔はね、のぞみちゃんのお兄さんなんだよ」
母の墓の前でおばさんから全てを聞いた。
父と母が結婚して、長男が産まれた。名前は翔。とても可愛くて二人とも溺愛したそう。
翔が2歳の時、母が二人目を妊娠した。その頃から夫婦のすれ違いが出来始め、マタニティ鬱になってしまった母を支えきれず、夫婦の溝は深まるばかり。二人目は女の子だった。名前はのぞみ。二人とも子どもへの愛はあったが夫婦としての関係は冷めきっていた。
離婚の話が出るまでに時間はかからなかったし、周りが驚くほどにスムーズに離婚は進んだ。兄の翔は父に引き取られ、妹ののぞみは母が引き取った。
のぞみが小学2年生の時、事故にあった母はこの世を去った。この事を知り、のぞみに全てを話し、家族に迎え入れようと提案したのは父の再婚相手の女性だった。父も「お前がそれでいいなら」と遠慮がちに言った。再婚相手の女性は、まだ入院中ののぞみに、親戚のおばさんだと名乗り、入院中のお世話をし、タイミングを計って「うちに来ないか」と誘った。だけどのぞみは拒絶し、施設に行くことを望んだ。
「ずっと黙っててごめんね」泣きながら全てを教えてくれたおばさんはぽつりと言った。おばさんが謝る理由なんて何一つない。血の繋がりのない私なんかを迎え入れようとしてくれたおばさんには感謝しかないのに。あの頃の私は何も受け入れられずに全てを否定し、拒絶した結果だ。
「そんな事があったんだね…」全てを聞いて、私から出てきたのはそんな空っぽな一言だった。
「翔くんは…いつから知ってたの?」
「翔も、ずっと何も知らなかったよ。妹がいるなんて言ってなかった。花屋で働く素敵な女性と付き合っていて、今度紹介したいからって、のぞみちゃんの写真を見せられて、お母さんの事を聞いて、それで…」
おばさんはそこまで言って、また言葉を詰まらせた。驚いただろう。血の繋がりが無いにせよ、2歳から大切に育ててきた息子が会わせたい彼女がいると紹介したのが私だったのだから。
「おばさんは、全部翔くんに話したの?」
「話したよ」
おばさんのその一言で翔くんが離れて行った全てを理解した。
だから翔くんは離れて行ったのか。何も言わず。いや、どう言っていいかわかんなかったんだね。好きになって、繋がった女性が自分の実の妹だったなんて、そりゃあなんて言えば分からなかっただろう。
自分を産んでくれたお母さんはもう既に死んでいたなんて。
「おばさん、ごめんね。もう翔くんには近づかないし、おばさん達が心配するような事なんて何もないから。顔も知らないけど、お父さんにもよろしく。じゃあね」涙が落ちるのを必死に我慢して早口でそう告げて電話を切った。最後におばさんが「のぞみちゃんさえよければ」と言ったのが聞こえた気がしたけど、もうなんでもよかった。どうでもよかった。
気が付けば辺りが暗くなっていた。目の前に置かれている自分が作った花束と、墓石に刻まれた母の名前をぼんやり眺めていた。
「お母さん、上手くいかないよ。お母さんがいきなり居なくなっちゃって、私はあの時おばさんの申し出を受け入れて新しい家族を作ればよかったのかな?お父さんが居て、おばさんが居て、お兄ちゃんが…居て…」涙が流れてくる。「私が産まれた時、お兄ちゃんは喜んでくれた?お兄ちゃんもお花が好きなのは、お母さん譲りなのかな?初めてお店に来た時なんかね、花束を作ってる私の手元、ずっと口をぽっかり開けて見てたんだよ。二回目来た時はね、自分用のお花がほしいって言うから、気を使ってサボテンを勧めたらサボテンは花じゃないとか言い出してね…笑っちゃうね…」
涙がどんどん溢れてくる。
「私がいつまでもお花をまたかわいいと思えなくて、それが悲しいからお母さんが私とお兄ちゃんを会わせてくれたの?それならもっと違うやり方にしてよお母さんの意地悪!お兄ちゃんの事…好きになっちゃったじゃんか」
お母さんからの返事はもちろん返ってこない。でもどうしてだろう、お墓の前でこうして自分の気持ちを吐き出すだけで気持ちが楽になった。
帰ろう。明日も仕事だし、帰ってご飯を食べてお風呂に入って、録画していたドラマを見て、眠ろう。翔くんの事は忘れよう。これからも私は一人で生きていくし、おばさんにも頼らない。お父さんとおばさんと翔くんの家族を、私は壊したくない。
少し軽くなった腰を上げ、お母さんにもう一度「じゃあね、また来るね」と言い、振り返った私はハッとした。
目の前に翔くんと、年配の女性が立っていた。その女性が「おばさん」だと言うことはすぐに分かった。小学2年生の私の記憶より随分と年を重ねた姿に一瞬驚いたが、それが当たり前ということもすぐに理解できた。
「どうして二人がここにいるの?」
どうしても冷たい言い方になってしまった自分が本当に憎い。
「いきなり目の前から消えてごめんのぞみ。俺も訳がわからなくて、どうしていいか分からなくて何も説明出来ずに逃げてしまった。」
「うん、そうだね、でも私が翔くんでも同じだったと思う。何も出来なかった。謝る事ないよ、おばさんもね。翔くんの事は好きだけど、兄妹となると一緒には居られないから、ばいばい」
そう言って二人の目を見ずに去ろうとした。私には翔くんとおばさんは眩しすぎる。私はずっと寂しかった。お母さんと二人で、小さなマンションの小さなベランダのお花畑を二人でずっと眺めていたかった。
春にはチューリップを、夏にはひまわりを育てたけれど、プランターで育てたものだから全然成長しなくて悲しかったっけ。秋にはリンドウを、冬にはポインセチアを食卓に飾り、クリスマスのムードを作ってはしゃいだ。お母さんと笑った記憶のそばには必ず花があった。
「のぞみちゃんがもし良かったら、家族にならない?」
おばさんが言った。
「確かに、翔とのぞみちゃんは血の繋がった兄妹だから、この先夫婦としての家族の形は作れないけど、のぞみちゃんがうちの家族になれば、翔とは兄弟として、一生死ぬまで家族で居られるんだよ」
翔くんも少し悲しそうだけど、優しく頷いた。
「これからも形は違えど、一緒に居ようよずっと。支え合っていこう。俺も実家に帰る。だからのぞみも少しづつうちに慣れて、いつか今の部屋を引き払って、家族四人で暮らそうよ。一緒にお花畑を育てよう。もう絶対枯らせない」
もう絶対枯らせない。あの日施設の人と見た枯れ果てた花畑をもう二度と見なくていいのだろうか。
「お父さんは…なんて言ってるの?私、お父さんの顔なんて覚えてないし…」そうだ、お父さんの存在なんて知らずに生きてきた私だ、お父さんは私の事嫌っているかもしれない。
「翔と二人でのぞみちゃんを迎えに行ってくるって言ったら、いきなり部屋着からシャツに着替えて、変じゃないか?散髪に行った方がいいか?なんて聞くのよ、おかしいでしょ。今頃四人分のお寿司でも出前で注文してる頃じゃないかしら」おばさんが可笑しそうに笑う。
風が吹いた。
とても優しくて温かい追い風が。甘くてくすぐったい、ふんわりと優しい花の匂いがした。それは懐かしくて、少し切なくて。
お母さんが背中を押してくれたのだと、すぐに分かった。
「花の水やりは、毎日交代制だからね、お兄ちゃん」
終
ここまで読んで下さりありがとうございます。
処女作小説になりますので至らない点は多々あったと思いますが、
精一杯書いたので少しでも誰かの心に響くものとなれば嬉しいです。