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檸檬

作者: 有屋ロール

彼は凜とした人だ。堂々としているが、決して多くは語らない。けれど、時々発する言葉には重みがあり、影響力がある。

例えるなら、檸檬。単体で食べると舌が痛くなるほど酸っぱいが、一度その酸っぱい液を垂らすと、味が深まり、影響力がある。

そんな人だ。


そんな彼が、私は大好きだ。



出会ったのは、冬の寒い日。

その日は雪が降っていた。

凍った地面に足を滑らせて転んでしまったところに手を伸ばしてくれた―――みたいな漫画のような出会いではなく。

満員電車とまではいかなくとも、人の多い電車の中。

釣り革を握っていた女性に、彼は声をかけた。

女性は安堵したように席に座り、彼にお礼を言った。

彼はにこりと微笑んだ。

女性は、顔色が悪く、具合が悪いようだった。


彼の動作は、スマートだった。一つ一つの仕草が自然で、きっと人を気遣うことに慣れているのだろうと思った。そんな彼に、私は心を動かされた。興味が湧いた。ドキドキした。とても心が温かい人なのだろうと思った。

彼が電車を降りる際、私も慌てて追い掛け、声をかけた。彼は無表情だったけど、決して冷たくあしらわずに、「逆ナンなんて初めてされた」と少しからかうように言った。


彼と一緒に過ごす時間は、とても心地が良かった。何も言葉を発しなくとも、ただ隣にいるだけで愛を感じられる気がした。


初めてのデートの時も、ただ公園の周りを歩いて一日を過ごした。鳥のさえずり、子供のはしゃぐ声も、気持ちのいい音楽のように聞こえた。私の気持ちが彼に伝わったり、彼の感じていることを感じ取ることができたりできた。静かにお互いの顔を見ながら歩くと、こんなにも気持ちの共有ができるんだと思った。私がそう言うと、彼は優しく微笑んでくれた。木漏れ日に当たった彼の顔が、とても彼の雰囲気に似合っていると思った。


この前のデートの時は、水族館に行った。水族館には独特の空気や雰囲気がある。厳かなような、優雅なような、そんな不思議な場所。神秘的で、穢れを一切持たない場所。魚を見つけては、その様子を見て感じたことを話す。余計なことは一切話さない。けれど、それを退屈に思うことはなかった。これが私たちなんだと、素直に感じることができた。


彼は、少し照れ屋だ。手を繋ぐときは、いつも私から。彼の顔を見ると、その顔はいつも真っ赤だ。真っ赤な顔をからかうと、彼は更に顔を赤くさせて顔を背けてしまう。手を離すことはしなかった。たまに彼から手を繋いでくれる時は、「手」とだけ言って、私の顔も見ずに手を差し出す。いつも私も何も言わずにその手を取るけど、意地悪をして「手がなに?」と聞き返したことがあった。そうすると彼は珍しく強い口調で「手!!」ともう一度言って私の手を取った。彼の手は汗ばんでいて、耳まで赤かった。


私はそんな彼の様子がおかしくて、彼にばれないように俯いてクスリと笑ってしまった。そんな私に気付いたのか彼はその後帰り際まで私の顔を見てくれなかった。

私は真面目な彼の反応を見ることが楽しくなってきて、よく突然腕を組んだり、彼の顔を見つめたりした。その時の彼の反応は決まって、顔を赤くさせて、そっぽを向く。意地悪しすぎて、頭を軽く叩かれたこともあった。


彼は、いつもは自分の思っていることを言わないのに、私が友達と仲違いしてしまって落ち込んでいた時、「人間は本当に伝えたいことを素直に伝えられない生き物だから、君も相手も一度素直に真正面からぶつかってみるといい」と頭を優しく撫でてくれた。

電車で酔っ払いのおじさん同士が喧嘩していた時も、冷静に対処していて、私はそんな彼を見て、こんなに大人な人の素顔を私は知っているんだと少し嬉しくなって、電車に乗っているすべての人に自慢したいくらいだった。


初めてのキスは、彼の家に初めて遊びに行った時だった。その前までは映画を見て、あの場面はあの登場人物の気持ちがよく表れているとか、隣り合って感想を話し合っていた。でも、突然会話が途切れて、静かな空気になった。私は、その空気に堪えられなくなって、机の上にある飲み物を取ろうとした。元の位置に戻るのはなんだか気恥ずかしくて、少し彼から離れた位置に座った。彼もそれに気付いたようで、飲み物を取り、彼も少し離れた位置に座った。何か話すことがないかと考える。多分、彼も同じだったと思う。


私は、「他の映画を見よう」と提案した。彼もそれに承諾した。そして、彼が立ち上がろうとした瞬間、私の左手と彼の右手が微かに触れ合った。ただそれだけのことなのに、いつも手を繋いでいるのに、とてもドキドキした。「ごめん」といつものように顔を赤くさせて顔を背けると彼の反応を予想して、彼の顔を見た。確かに顔は赤くなっていたけれど、彼の顔は真っ直ぐに私を見つめていた。私は心臓が壊れてしまいそうで彼の顔を見れなかった。私が目を背けていると、彼は優しく私の頬を撫でてくれた。優しい手に、私の緊張は徐々にほぐれていって、彼の顔を真っ直ぐに見ることができた。そして、私たちはキスをした。緊張したけれど、とても幸せだった。


ピリリ、と音がした。瞬間に世界が変わった気がした。私は薄暗い部屋にいた。カーテンから一筋の光が射し、部屋を照らしている。私は重い体を起こし、棚にある携帯を手に取った。携帯を開くと、彼からの電話表示。表示されている時間は12時34分。今は12時54分。今より20分前だ。

私は飛び起きた。今日は彼とデートの約束をしていたのだ。これから彼と会うというのに、彼の夢を見ていたなんて。しかも、初めのキスの時のことまで。恥ずかしい。恥ずかしくて彼の顔を見れないかもしれない。

急いで服を着替え、荷物を鞄に詰め込む。髪の毛をセットしている暇はない。もう行こう。私は強引に手で髪の毛をとかしながら家の鍵を閉め、出かけた。


彼はもう待ちくたびれているかもしれない。電話をするよりも急いで彼の元に向かって弁解をしよう。今日のデートが楽しみすぎて眠れなかったのだと言おう。そしたら、彼はきっと私の頭を叩きながらも許してくれる。笑ってくれる。急ごう。彼に会いに。早く。早く。



その時。誰かの叫び声が聞こえた。その叫び声は誰がどこで発しているものかのかはわからなかったが、何を意味しているのか。それだけはわかった。私は死ぬのかもしれない。私に迫る車を見て、そう思った。死ぬ間際に彼の顔が浮かんだ。ああ、もう会えないのかもしれない。もう照れた顔を見れないのかもしれない。拗ねた顔も、私の話を真剣に聞いてくれる顔も、優しく微笑んでくれた大好きなあなたの顔も。もう、見れないんだ。


私は涙を流し、目を閉じた。死を、受け入れた。



次に目が覚めた時、私は道に倒れていた。周りに人だかりができていた。腕が痛い。頭が重い。私はどうしてこんな所にいるんだろう。近くにいた女の人に尋ねてみた。どうやら不注意運転のトラックが私に突っ込んできたらしい。ならなぜ私は無事なのか。気絶する寸前まで、トラックが私にめがけて来ていたのは覚えている。なのになぜ腕の怪我だけで済んだのか。こんなところで倒れていたのか。そう聞くと、女の人は言葉を濁した。

頭が段々とはっきりしてきて、人だかりの向こうからたくさんの人の声が聞こえてきた。ざわりと、胸騒ぎがした。嘘だ、嘘だ。そんな、まさか。


人だかりをかきわける。その人たちの顔は青ざめていた。

嘘だ。嫌だ。待って。

彼は血まみれになって倒れていた。私は一目散に彼に駆け寄った。どうして、どうして、と言葉を繰り返す。どうしてなの。頬を触る。まだ暖かい。

私の名前を呼ぶ声が聞こえた。それは本当に微かな声だったけど、いつも私を優しく呼んで、「好き」だと言ってくれた声と同じだった。まだ生きている。助かるかもしれない。期待を抱いて、私も彼の名前を呼ぶ。彼は私の頭を優しく撫でて、微笑んだ。私も微笑み返そうとした。けれど。彼の私を撫でる手は、ぱたりと、力なく落ちた。


そして、一言「幸せに」と言い残して、彼は亡くなった。

最期まで、彼は優しい人だった。


そこで私は目が覚めた。涙が溢れていて、枕が濡れていた。

私はため息をついて、ベットから降りた。

なにか、懐かしい夢を見ていた気がする。なんだっただろう。今はもう思い出せない。あまり、思い出したくない気もする。けど、少しだけ温かい何かを感じた。大切な、なにか。

とりあえず会社に行かなくては。

涙でぐしゃぐしゃになった顔を洗い、服を脱ぎ、スーツに着替える。髪を一つにまとめて、机に置いてある腕時計をつける。軽く朝食を摂り、扉に鍵をかけた。




彼は凛とした人だった。



表情や感情の変化がわかりにくく、冷たく思えるけど、笑うときはくしゃっと笑う、可愛い人。温かくて、素敵な人。優しく私の頭を撫でてくれる人。真面目で、真剣に私の話を聞いて、自分の考えを伝えてくれる人。照れ屋で、私が触るとすぐに顔が赤くなる人。自分のことよりも、私のことを考えてくれていた人。私の幸せを願ってくれていた人。そんな人だった。





そんな彼が、私は大好きだった。

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