男、かく語りき(3)
眩しさに、一樹は瞼を閉じて顔の前へ手を翳した。
やがて目を開けると、椿が庇うように正面へ立っていることに気付いた。何をしているんだと慌てて押し退ける。
「人は脆くできているだろう」
「だからって、光でどうにかなったりしないよ」
「お前たちの常識で測るな」
常々言っているはずだが、と険しい顔で椿が見上げてきた。こちらの世界に関して、一樹は全くの素人だ。
「……ごめん。ううん、ありがとう」
椿にも異常がないことを確認すると、一樹は鳥居の向こうを見つめた。本殿の扉が開いている。その中に、御簾がかかっているのが確認できた。
狛犬から、入れと無機質な声がした。一樹は椿と二人、静かに神域の中へと足を踏み入れた。
「……わたくしには分からぬ」
本殿前に立って暫く、品のある女声が聞こえた。
「あれの想いなど、分からぬ」
御簾越しにぼんやりと人影が浮かび上がった。
話してよいものか。ためらいの後、一樹は口を開いた。
「葉山さんは、花姫様のことを想っていらっしゃいます。ずっと、貴女だけを見て」
「……嘘を申すな」
陰りを帯びた声は、少し間を置くと言葉を続けた。
「裕斗には女がいる」
「え……?」
「わたくしは見たのだ、あれが睦まじ気に女と話す姿を」
長い長いため息が漏れた。
「森に来るもののけに、あれが雑誌の表紙へ載ったと聞いた。何やら恥ずかしいと言って、あれはわたくしにもでるの姿を見せたがらない。だが、あれの晴れ舞台だ。こっそりと一目見てみたく思った。それで、町へ降り立ったのだ」
この近くで雑誌を売っている場所は、駅前の大型本屋と葉山の祖父の経営店の二つ。後者は葉山に遭遇する可能性が高い。花姫は、そう考えて駅の方へ向かった。
だが、あともう少しというところで、彼女は見知った人影を見つけた。
「裕斗だった。わたくしは急いで隠れた」
他の人間には見えなくとも、葉山には認識できてしまう。花姫は緊張の中で、その人を観察した。
「あれは、電話で話をしていた。相手は女だった。奈緒子と呼んでいた」
「奈緒子さん……?」
「外出の話をしていた。二人きりで出かけるのだと、他の者には秘密なのだと、そう言って照れくさそうに笑っていた」
「それは……」
「あれはよい若人になった。言い寄る女子も数多にいるだろう。それにわたくしがあれこれ言うても仕方のないことだ」
一樹は考えた。今までさっぱり縁がなかったので、色恋事は正直よく分からない。だが、葉山の気持ちが偽りのものとは思えなかった。
「お姉さんや妹さんという可能性は」
「妹はいる。だが、名が違う」
返答に詰まった一樹の耳に、独り言のような声が聞こえた。
「そもそも……わたくしが何を気にすることがある」
「花姫様、」
「済まぬ。婆の話に付き合わせてしまったな」
帰るがよい、と柔らかい声がかけられた。直に暮れる、人が歩き回るには向かぬ時間が来ると。
本殿の扉が閉まり、中は再び暗くなった。両隣の狛犬も無言だ。一樹は、また伺いますと挨拶をして椿と共に去った。
***
家に戻って数時間後、一樹は待ちかねていたメールアプリの返信音に飛びついた。急いでアプリを開き、文面に目を通す。
「『奈緒子はオレの従妹だよ』……やっぱり、勘違いしてるんだ!」
「奴の親戚か」
「そうみたいだね。でも、こっそり出かけるとか言ってたのは気になるな……」
「従妹は婚姻できるのか」
「できるよ。だけど、葉山さんが好きなのは花さんだけのはずだ」
続いて、メッセージが届いた。
「『てか、なんで奈緒子のこと知ってんの?』だって。正直に言うべきかな」
「構わんだろう。だが、付け加えておけ。会いに行くなら日が暮れる前にしろと」
「そうだね」
頷いて一樹は事の次第を送った。すぐに返信が来る。
「『今から行く』……え!?」
慌てて電話をかけた。応答があり、ひとまずほっと息をつく。
「葉山さん、あの!」
『わり、ちょっと行ってくるわ』
「待ってください、夜に出歩くのは危ないです!」
『だよな。でも、待ってられねーよ朝なんか』
「葉山さん!」
無情にも切れた通話に呆然とする一樹の隣で、椿が吠えた。
「あの阿呆が!」
「よ、よし、俺も行くっ」
「そういえば、ここにも阿呆がいたな!」
立ち上がった一樹の襟首を、椿が容赦なく掴んだ。喉を詰まらせた一樹に、般若の面が近づく。
「おい、出歩くなと言ったのはどの口だ」
「だ、だってさ、葉山さんを放ってはおけないよ」
「お前が行ったところで何になる」
「うーん……護衛?」
救いようのない阿呆だと顔に書いてある。一樹はそう思いながら言葉を続けた。
「俺には椿さまがついてるから」
「飾りだ、対した力はない」
「でも、その辺の妖怪? なら蹴散らせるって」
「小物はな。夜は神妖の力が増す。より本能に忠実になる時間だ。ましてや、己の縄張りに入って来た者に躊躇はしない」
俺は弱い、と目の前の少年は告げた。
「お前を守り切れる自信はない。危険事は神妖だけではないだろう?」
「それは、」
「お前は、お前を案じる存在がいることを自覚した方がいい」
――いつきちゃん。
だが、葉山にだって同じく思う人がいる。
「葉山さんについている加護は、人にも有効なのかな」
「どうだろうな。あの神も格段に強いとは言い難い。あの山では最上の威力を発揮するだろうが、それ以外では……むしろ悪目立ちするやもしれん」
「それなら、」
椿の顔は厳しいままだ。悲痛に満ちた一樹の頬を、開け放した窓から柔らかい風が撫でた。
「なにかお悩み?」
「……え?」
ふいに、少女の声がした。まだあどけない、小学校低学年くらいのそれだ。
「こんばんは。椿にいじめられたの? あたしがこらしめてあげよっか」
夜闇を背景に、窓縁へ幼い少女が腰かけていた。
栗色のツインテールに赤いリボン、ぱっちりとした目鼻立ちは何とも愛らしい。ランドセルが似合いそうな年頃の少女が、突如二階建ての窓に出現とはどうしたことだろう。
間違いなく、人ではなかった。
「こ、こんばんは。あ、いや、いじめられてはないです」
「それならいいけどー。ふふ、本当に見えるんだねっ、すごーい!」
「は、はあ……」
「野風。お前、何をしている」
「おつかいの帰り! そういう椿こそ、人間と喧嘩?」
違うと口を曲げた椿に、少女はくすくすと笑った。
「この子が依代なんでしょ? 可愛いね、イケメンになるといいなー」
「これ以上はそう変わらんだろ」
「そんなことないよー、人間はここからぐっと成長するんだもん。ね、あなた、お名前は?」
「一樹だ」
「あははっ。椿、そんなに警戒しなくたって」
一樹が口を開く前に、椿から紹介があった。少女はにこにこと笑って、宙に浮いた。
「あたし、取って食ったりしないよ?」
「どうだかな」
そっけなく視線を逸らした椿だったが、そのままの状態でぽつりと呟いた。
「……野風、頼みがある」
「ん? なあに?」
「俺達を、花姫が住む山まで連れていってくれないか」
「花姫? 治癒の舞姫様のこと?」
「そうだ」
少女はこてんと首を傾げた。
「いいけど、今から? 夜の山は割とデンジャラスだよ。一樹くん、食べられちゃうかも」
「もう一人、食べられそうな人がいるんです。今、その山の方に向かっていて」
「へえ、それは大変だね」
手の平を上にして唇の前に持ってくると、少女が一樹に向かってふっと息を吐いた。白い薄雲のような何かが体を包み、浮かび上がった。足元が覚束ない。慌てる一樹に、やっぱり可愛いねと少女が幼い顔で笑う。
「なんかよく分かんないけど、急いでるんでしょ? 付き合ったげる。行こっ」
「待て」
同じく浮いていた椿が、一樹の頭に手を伸ばした。小さな痛みと共に離れていく手指の先には、一本の髪が絡まっている。
「痛っ……何するのさ、いきなり」
答えぬまま、椿が少女と同じようにして息を吐いた。くるくると大気を巻き込むようにして人型が出来ていく。やがてそれは、見慣れた姿となって、勉強机の前に現れた。
「お、俺……!?」
「お前の気配だ。これで暫くは持つ」
「気配……? それって、髪の毛がいるの?」
「身体の一部が必要だ。手っ取り早かった」
「だからって抜くのはちょっと……今度は切るとかしてほしいなあ」
「こんな状況が度々あってたまるか」
祖母を心配させないためだと一樹は気づいた。それでは頼むと少女に声をかける椿に、礼を述べる。
全く、仕方のない。
なんとも不愛想な返答だったが、一樹はにっこりと笑って夜空へと飛び出した。
***
「探し人はどんな人ー?」
少女――改め野風と手を繋いだ一樹は、眼下に広がる景色に驚きつつ、問いかけに答えた。
「大学生……あ、いや、二十代の男性だよ。俺より大人の人」
「大学生かあ、若いね!」
「え、分かるの?」
「うん。あたし、そこそこは人間の世界のこと知ってるよ! あちこち吹いてるからねっ」
「吹く……」
地上から遥か高い場所を、一樹は少女に連れられ飛んでいる。薫風の時とは違い、滑るような飛行だ。名の通り、野原を駆ける風の神なのだと少女は言った。
「イケメン?」
「うん、読者モデルをしている人で整った顔だよ。女の子からとても人気みたいだ」
「読モかあ! そっかー、綺麗なのはみんな好きだから、危ないかもね。途中で見つけたら教えて?」
「分かった」
どうやら、顔のいい男が好きらしい。幼い外見で言われると妙な感じだ。
いくつなのかと聞いたところ、レディに失礼だよっと怒られたので分からない。少なくとも己よりは年上そうだと敬語を貫いていたが、やめてほしいとお願いされた。よって、今の状態になっている。
そうこうするうちに、花姫の山にたどり着いた。途中、葉山の姿は見当たらなかった。もう着いているのだろうか。電話をしてみたが応答がない。野風に頼んで、本殿の上空まで飛んでもらった。
「一樹くん! あれ!」
本殿の前に、何かが倒れている。ぼんやりと光るのはなんだろうか。寄り添うようなその影に、一樹は既視感を覚えた。神妖たる二人には、この闇の中でも鮮明に見えているようだ。椿が鋭い声を上げた。
「一樹、葉山だ! 怪我をしている!」
「え……!?」
さっと血の気が引いた。一樹の表情を見て、野風が近くの開けた場所に降り立った。
「いっておいでっ」
「野風さん、」
「あたしはここまでっ。あまり神が集うのはよくないの、気配が強くなりすぎるからね」
「わ、分かった。ありがとう」
「側にいたのはあの姫様だった。もうずっと、外には出たことなかったはずなのに」
「え……?」
でも、この前町へ。
喉元まで出かかった言葉を一樹は飲み込んだ。そういえば、口を開くことも滅多にないのだと聞いていた。しかし、一樹は話した。花姫は降り立った。
全て、葉山が関係していた。
そうだ、分かっていたはずだった。これは、間違いなく、あの女神にとって――葉山が、特別な存在であるのだと。
「かなり気が立っていた。神域の中に入っては駄目、あなたは部外者。あの男の子が特別なの」
一樹の思考を読んだように野風が話す。気を付けてねと両肩を掴まれた。
「でも、見届けたいんでしょ? 椿、一樹くんのお守を頼むねっ」
「……いざとなったら、こいつごと空へ吹き飛ばしてくれ」
「りょーかいっ」
半ば観念した様子で、椿が歩き出した。遅れて後に続く。振り返った野風の顔は、先ほどまでと違い緊張の色が浮かんでいた。