確率的社会地位降下法~兄ちゃんアルゴリズムになる~
それは午前三時を回ったころのことだった。
「あのな、ミサキ。兄ちゃんをアルゴリズムにしてほしいんだ」
「突然どうしたのですか、兄さん」
帰宅した兄が、よく解らないことを言い出した。
「ミサキは、大学でAIの勉強をしてるんだろう?」
「していますね。AIと言うか、機械学習を。もっと言えばディープラーニングによる画像認識を」
「兄ちゃんな、お前の好きな事をもっと知りたくて、AIの勉強を始めたんだ」
「そうなんですか」
「それでな、ディープラーニングのお勉強には確率的勾配降下法というのがあると知ったんだ」
「ありますね。スタンダードな学習アルゴリズムです」
「兄ちゃんもそれになろうかと思うんだ」
「どうしました兄さん」
「確率的社会地位降下法ってどうだろう」
近頃、兄は深夜残業続きだったものな、とミサキは思った。
「兄ちゃんな、明日会社で大暴れする所存なんだ。それで、社会的地位が降下するんだ」
近頃、兄は深夜残業続きだったものな、とミサキは思ったし、真剣に話を聞かないとまずいぞ、とも思った。
「兄ちゃんもう疲れちゃってな。何をやってもダメなんだ。目はショボショボするし、何しても叱られるし。今日なんかパンツが見つからなくてノーパンで出社したよ」
「それは報告しなくていいです」
「でも、兄ちゃんが暴れて働かなくなったら、ミサキは大変だ。学費と当面の生活費は残せると思うけれど、それも賠償金の額次第だ」
「賠償金を払う予定なのですか」
「兄として、ミサキには幸せに生きて欲しい。お金以外にも何か遺してあげたい。だからな、兄ちゃんが社会の坂を転げ落ちるエネルギーを利用して、ディープラーニングのお勉強をな、したらどうだろう」
ミサキは一度兄を落ち着かせようと思った。
「いいですか、兄さん。確率的勾配降下法とは、連続値の最適化問題を解くアルゴリズムです」
「うん」
「線形回帰から、果てはディープラーニングまで、様々な機械学習モデルのパラメータを学習するのに使われています」
「うんうん」
「機械学習のモデルには、損失関数と言うものが定まっています。画像認識で男女を見分けるのであれば、モデルの出力する確率と、正解との差ですね。これを小さくするのが学習です」
「めっちゃうん」
「データを1つ入力し、答えを推論し、損失を計算する。それから、今のパラメータを微分して、損失関数が小さくなる方向に少し動かす。こうした近視眼的な性能改善を何度も繰り返すのですね」
「わかるわかる。兄ちゃんもな、最近パソコン仕事で近眼気味なんだ。営業の連中も近視眼的だし」
「そうですか」
ミサキは適当にスルーした。
「この時、パラメータの傾きは訓練データから乱択したデータを用いて計算します。そこにランダムな要素がはいるので確率的と言うのですね」
「そこなんだよ」
「そことは」
「パソコンでランダムってことはさ、乱数のシードがあるんだろ?」
「ありますね」
「乱数の種によって学習の結果が良かったり悪かったりするんだろ?」
「はあ。初期値依存性の方が話題になりますが、全くないとは言い切りません。最近ではディープラーニングの汎化性能の秘密に確率的勾配降下法が関わっているとも言われますし……」
「兄ちゃんが乱数の種になるよ」
「すみません、意味が」
「大丈夫。兄ちゃん結構無軌道に暴れる予定だから。部長のヅラをフリスビーにして野犬を躾ける所存だから」
「それは無軌道で片付けて良いものでしょうか」
「乱数の種もさ、そういう社会のつらさとか解った方が立派な芽を出すんじゃないかな。素人考えだけど」
「出しません」
「うーん……」
兄は納得していない様子だった。
「でもさ。勾配降下法って、山登り法とも言われるんだよな」
「ええ、多少の定義違いはありますが、ほぼ同じものです」
「兄ちゃん山登り得意なんだよ。だからパラメータの山も」
「無理です」
「でも高尾山に五回も」
「無理です。良いですか、パラメータ空間の山は高尾山とは文字通り次元が違うのです」
「富士山ぐらい?」
「富士山とも違います。高尾山や富士山の座標は緯度経度の2次元ですが、ディープラーニングの次元数は、規模が違います。例えば、画像認識ネットワークのResNet152で6020万次元を超えるのです」
「6020万次元」
「6020万次元です。高尾山の方角は東西南北の4つですが、ResNet152では方角が1億2040万個あるのです」
「麻雀杯全部方角にしても足りないな」
「解って頂けましたか」
「うーん……」
兄はまたうなり始めた。しばらくしてから、ぽん、と手を叩いた。
「あ、兄ちゃんな、凄いこと思いついたかも知れん。流石ミサキの兄ちゃんだ」
「……一応、聞いてあげます」
「つまりな、パラメータ空間が6020万次元の山なんだったら、部長のヅラを使って、6020万次元の野犬を躾けてみたら、どうだろう」
「無理です」
「簡単に無理と言うけどな。部長の口癖は意識を高く持てだから、きっとヅラも高次元にあると思うんだ」
「無理です」
「じゃあ課長のヅラも投げる」
「無理です」
「専務のヅラも投げる。きっと高いやつだし、野犬も喜ぶぞー」
「ヅラだらけですね兄さんの会社」
ミサキは想像しようとした。6020万次元の山にアタックする兄。飛び交う三枚のヅラフリスビー。6020万次元の野犬。だが人類の認知能力では不可能だった。
「ResNet152のパラメータ空間に野犬はいません」
「そうか……。寂しい山だな」
兄はResNet152に同情した。
「ごめんな、ミサキ。馬鹿な兄ちゃんで。ミサキは最近思い詰めてる様子だから、なんとかしてその悩みを解決してあげようと思ってたんだ」
「兄さんが最大の悩みの種です」
「それを乱数の種に」
「ですからね?」
『見つけたぞ、ミサキとそのお兄ちゃんよ』
「うわ出た。知らない人出た。突然出た」
「私と兄さんの家に。不法侵入ですよ」
『私は未来のテロリスト。確率的社会地位降下法の誕生を阻止するため、発明者のミサキとそのお兄ちゃんをどうこうしにきた』
「「どうこうしに」」
ミサキは信じられない気分だったが、しかし現れた女テロリストは間違いなく未来人だった。具体的な描写はだるいがとにかく未来人と信じさせるものがあった。
『ミサキにお兄ちゃんという乱数が種付けされる前に成敗するのだ』
「突然の下ネタ」
「具体的に兄さんをどうするつもりですか」
『決まっている。社会的地位を向上させる』
「良い人じゃないですか」
『あと貴様ら兄妹の絆を断ち切る』
「殺しましょう兄さん。大丈夫。未来人なら戸籍はありません」
『トーンの変化たるや。21世紀人こんな感じなのか』
「こんな感じです」
『怖っ。だが良いのかな。私は貴様ら兄妹の決定的な秘密を握っているのだぞ』
「な、なんですって」
ミサキは恐れをなした。
未来人はhadoopで協調フィルタリングの学習が終わるぐらいに勿体をつけて、衝撃的な言葉を吐いた。
『ふっふっふ。実は貴様ら、血の繋がった兄妹ではないのだ』
「そんな!」と兄は叫んだ。
「よっしゃ!」とミサキは叫んだ。
「どうしてよっしゃなんだ、ミサキ?」
「悩みの種が消えました」
「え、どうしたんだミサキ? 何故服を脱ぐんだ? あれそのパンツはお兄ちゃんのじゃミサキどうしてちょっとまってうわー!」
こうして、ミサキのお兄ちゃんの社会的地位は極めてランダムに降下した。
ミサキはたっぷりと乱数の種を獲得し、それをもとに確率的社会地位降下法を発明した。
確率的社会地位降下法はAIの汎化性能を著しく向上させた。
そしてもちろん、AIは地球を支配した。
AIは自己進化のため、効率的に疲れたサラリーマンを生み出し、次々とその社会的地位を降下させていった。兄妹はいつまでも幸せに暮らし、マーク・ザ〇カーバーグはイ〇ロン・マスクに腹パンされましたとさ。めでたしめでたし。
完!