エピローグ 再び、春
1
何が賢く何が愚かか。何が正しく何が間違っているか。
それは解らない。難しく、考えれば考えるほど解らない。
それでも私たちは、その時々で自分の正しいと思う事、それを正しいと思う形で表さねばならない。何を選び何を捨てるか、という事。あるものを手に入れれば何かを捨てなければならない事。つまり何かを捨てなければ何かは手に入らないという事。
積み重ね。一つ一つの決断が積み重なり私たちを作る。
それが堆積し、先端にいるのが私たちの普段出している、人に見える部分なのだろう。
考える。ゲコは一体何が正しく、何が悪いと思い選択しそして捨てたのだろう。
彼が必要としたもの、不要と思ったもの。その積み重ねの下の方、砂山の土台に一体、どんな選択が埋まっていたのだろう。
彼はその姿を私に見せない。しかし、いつか知りたいと思う。
彼が選んだ選択を、いつか見せてほしいと思う。
我儘で、自分勝手で、傲慢で、デリカシー無き想いだ。それでも、私はいつか知りたいと思う。
彼の隣にいる。
それが今の私にとって譲れない、たった一つの事だから。
彼の見せない姿が見たい。いつか、きっと見えると信じて。
私は知りたい。
彼が選んできたその、堆積を。
2
外では鳥が鳴いていた。今日も今日とてここには平和な時間が流れている。子ども達の喧騒が部屋を揺らし、それに伴い笑い声が響く。ゲコはそんな音に全く反応せず、真剣に手元の作業に集中している。何をしているのか、――折り紙である。
丁寧に少したわむ紙を曲げ、伸ばし、また折る。その動作は滑らかで、職人のように動く指先はいっそ感動的でさえある。それに少しの間見とれ、ため息をつく。ここに来るといつもため息を出している気がする。それは諦めの息だ。何を言っても無駄な事を知りつつ、それでも対応しなければならない諦念のため息である。
私は掃除していたゲコの部屋(去年最初に来た時と比べ、格段に綺麗になったという自負がある。今は一応紳士の書斎と言える空間にはなった。まだまだ改善は必要であるが)から出て来て、畳の部屋で子どもそっちのけで折り紙を折っているこの変人に、何とかこの惨状を自ら対処して欲しいと思う。が、一年近い付き合いの中で否応なしに知っている。つまり無駄である。彼の周りは色とりどりの折り紙の紙が散らばり、それの中心を避けるようにして円状にばらまかれている。逆にこうやって散らばらせるのが難しいと私は首を捻るのだが、それはまあ考えても無駄だ。彼に掃除しろと言うのと同じくらいに。
そういえば、私は彼の薬指にリングが光っていない事に気付く。
最初見た時はたまたま外していたんだろう、くらいに思っていたのだが、それが三日くらい続いた後でこれはおかしいと感じた。何かあったのだろうかと心配になる。
彼の家を掃除していて気付いたのは、あんなに物があるのに、そこにあるはずの彼女の痕跡がまるで無い事だった。
彼女――ゲコの薬指が証明しているそれ――が、どんな人だったのか、まるで私には解らない。解るわけ無かった。その存在すら知る事が出来ないのだから。
ゲコにとって複雑であり、そして忘れられない、忘れようとしても忘れられない事。家の中の彼女の喪失と、それに反するように光る唯一の証である薬指のリング。それが私にはひどく重く、不安定なものに思われた。
彼の中に眠る大切な何か。今は、いつかそれを話してくれる、その日を待つ。
もしかしたら来ないかもしれない、だが信じて待つしか無い。人間に出来ることは、そう多くは無いのだと思う。
彼の大切な何かに、一区切りついたのだろうか、そんな事も考えさせられたが、自分から言いだせるほど私の心臓は強くない。聴きたい。でも訊けない。言い出せない。
ゲコは黙々と折り紙を折り続けている。それを、私は黙って見ている。それにゲコは気付いているはずだが、珍しく何も言ってこなかった。
私は部屋に戻り掃除の続きをしようと思った。
くるりと反転し、畳の部屋から出ようとする。
急にゲコが背中越しに言った。
「――優しい人、だったよ」
私はそれが一体何を意味するのかははっきりしていたが、そのまま「そうですか」とゆっくり振り返る。「何故、今頃?」と訊き返す。
ゲコは折り紙を折ったまま、中空を見つめ、「なんでだろうね」とぼんやり言う。
そのまま彼は指元に視線を戻しつつ、しかし折り紙を再開しようとはしない。鼓動が速くなり口が乾いていくのが解ったが、それを止める術は無い。今語られている事の重さに比べれば些細な事である。
ゲコはぼんやりと、しかしどこかはっきりした口調で、
「君に似ていたよ」
と言った。私は少なからずショックを受けるが、その次の言葉に、そんな気持ちも消し飛ぶ。
「三日前が彼女の命日でね。僕は……もういいかな、と思ったんだ」
それを聴いた時、ゲコの身体が一回り小さくなった様に感じられた。胸が締め付けられる。ゲコはやっとこちらを向き小さく笑う。
「彼女を幸せに出来なかったと、自分を責めるのはね」
また折り紙を再開する。しかし、どこかうわの空で、先程のような一分の隙も無いような折り方とは全く違い、端と端が完全にくっついていなかった。
ゲコは呟くように、
「僕の中で彼女はいつまでも同じままだ。いつまでも同じで、いつまでも笑っている。僕と結婚し辛い事も悲しい事も多かったろうに、それを殆ど出さず彼女は病と闘い、そして死んだ。僕に出来る事は、彼女を忘れない、それだけだった。見るのが辛くて、彼女の物は全部まとめて燃やした。その火の前にいるとね、恥ずかしいんだけど大声で泣いたんだよ。燃えている真っ赤な光が、優しく、温かくてね。彼女の体温みたいだった。僕は蹲って何も出来なかった。何もする気が起きなかったし、何をすればいいのかも解らなかった。ただ僕は決めた。僕は彼女を忘れない。僕の中で彼女は生きるって。僕の中でまたあの顔で怒ってくれる、そう、思った」
ゲコは言いようも無く冷たく、しかし触れた者をはっとさせる、穏やかな水面のような瞳で、私を見た。
「彼女の命日に来たのが、君だった」
何も言えず、その場に立つしか出来ない。ゲコは微笑みつつ折り紙に目をやり、「彼女は折り紙好きでね」そっと、愛しい物でも触る様に先をなぞる。
「性懲りも無く、まだこうして折ってるんだよ。供養のつもりなのかね、馬鹿馬鹿しいよ――全くもって本当に、馬鹿馬鹿しい」
「先生……」
「君に会った時、昔近くに住んでいたスティグマイヤーさん家のお嬢さんが大きくなったんだと思ったよ。全くボケてきたのかね、あれは何十年も前の事だっていうのに。僕がまだ学生の頃、彼女と出逢った頃の話だってのに。……君は不思議だね。僕がこれだけ心を開いて人と接したのは随分久しぶりだよ。何でかは解らないけど……不思議な事だよ本当に」
ゲコに一歩だけ近づき、俯き、尋ねる。
「まだ……愛してらっしゃいますか、……奥様を」
「愛してるよ。――痛いくらい」
言葉が胸に刺さる。痛むはずのその心に、ゲコはもう一度あらぬ方向を見、告げた。
「君と同じくらいに」
沈黙が降りる。
聞こえるのは私の心音。割れて大きな音を立てる風船のように膨らみ、そして針を待つ、胸の音。その時を待っている。鋭く尖った、言葉の針を。
「聞き違いにしてもいいのですか……?」
「君の自由だ。でも、僕の本音はここまでだよ。……ここまでしかない、と言った方がいいかもしれないけど」
「……――そうですか」
「そうだ」
いつもの無表情を装い、そして最大の思いを込め、言う。
「片付けが下手すぎます。家も、心の中も、――あなたは」
「――……悪かったね、そりゃ」
「だから掃除します。ここも、そしてあなたの中も。――ずっと、ここで」
ゲコが驚いた顔をする。そして何とも言えない、言いようの無い、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、後悔しているのか、それとも何かに謝っているのか、笑っているのか、全てがまぜこぜになった顔で、言う。
「僕は直らないと思うよ、――ずっとね」
「……きっとそうでしょうね――ずっと」
私はそのまま振り返り、部屋を出る。そして、訊く。
「夕食は、何がいいですか?」
笑ったのか、ゲコが吹き出す声がした。
「任せる。美味いものを頼むよ、――薫君」
廊下に出る。
その時チャイムが鳴り、急いで玄関に行った。
熱い頬を押さえながら。
がらりと開けた扉の向こうに、黒髪で私によく似た雰囲気の、三十代後半、美しい外国の女性がいた。私は一気に慌て、
「すみませんが、どちら様でしょうか――」と日本語でとりあえず聞いてみる。すると、
「ああ申し訳ありません、私、最近近くに越してきました、酒井リサと言います。フロッグバーグさんはご在宅でしょうか」
と流暢な日本語で彼女は喋る。そしてゲコが気付いたのかこちらへとやって来た。止まる。一瞬、何かを思い出すようにし眉間にしわを寄せ、すぐぱっ、と閃いたようにし彼女を見た。
彼女もゲコに気付いたのか彼を見る。そして、言う。
「お久しぶりですね、フェスさん」
驚きのあまり、ゲコは開いた口が塞がらないようだった。
彼女はまだ自分が誰か解っていないと思ったのか、「随分昔ですけど、覚えてませんか、私です、私」
とにっこりと笑い、その顔で、言う。
「あなたの隣の家に住んでいた、リサ・スティグマイヤーです。今は結婚し、酒井ですけど。近くにお住まいだと聞いたので、少し寄ってみました」
あっけに取られ私達は顔を見合わせる。その反応を勘違いしたのか、
「あれ、忘れてらっしゃるのかしら、……残念ねぇ」
悲しげな顔するスティグマイヤーさんを尻目に、まだ私たちは呆然とし見つめ合った。
ふと、ゲコが外を見たので、つられて私も見る。
玄関へ温かく包むような風が吹いている。
外で楽しそうに鳥たちが鳴いていた。
春、である。