第四話 冬
1
ゲコがおかしい。
いや彼がいつでもどこでもおかしい事には変わりないのだが、最近はそういう意味で無く、おかしい。
どこがおかしいのか、それは彼とそれなりに付き合ってみないと解らないかもしれない。
まず、いつもの適当なふにゃけた態度が少し硬い。顔では柔くしているつもりなのだろうが、端から見ているとどうもぎこちない。見ると、何か別の事を考えているな、何か違うものを見ているな、と何となく感じられる。私も彼と長く付き合い始めているので、それが感触のように伝わってきた。
今日も正にそんな感じで、癖の指と指の先端を合わせ球を作り、目の前にあるそれをじっと見ている。指を合わせるのは彼が集中して考える時の癖である。今、洗濯物を干そうと台所と畳の部屋の前を横切ろうとし、ちらと彼の姿を見た時、あ、またやっていると思った。
何があったのだろうか、そう思うが、彼は人には悩み事を訊いてくるのに、(時に半強制的に)自分の悩みや迷いは殆どと言っていい程言わない。それが何か悔しいというか、信頼されてないのだろうかという思考に飛んでいき少し不愉快になる。が、考えてみればまだ十七の高校生にそんな事言わないか、と考え少し寂しくなる。
意外に交友関係が広く、様々な職種の人たちがこの学習塾にやってくるが、ゲコは彼らに完全に心を開いているという感じでは無く、あくまで大人の男として付き合っているようだった。彼の元にやってくる人々は老若男女様々だが、しかし共通しているのは皆ゲコを信頼し、また愛情を持っているという事だった。
彼はそんな人たちに最大の誠意を見せてはいるが、私に対してだけは少しそれと違う事に気付く。
なんというかラフというかざっくばらんというか、言いたいことをズバズバ言うというか、あまり構えてない。丸腰の素手で向かってきているような、悪い言い方をすれば甘えに取れるような接し方をしてくるのだ。
それに気付いた時、何だかむずがゆいような、くすぐったいような、腹が立つのに少しだけ嬉しいような、不思議な気分に陥った。何か固まりきっていない感情が次第に形を持ち始めていることへの不安と戸惑いが起こってくる。が、その度その考えを打ち消していく、まさか、そんな訳ない。ないと言ったら、無い。
ゲコは難しい顔をし、今日も指を合わせている。何か、考えている。
彼の目の前には散乱した本や切り抜きと共に、隣町の大きな地図が置かれ、細かい文字が書かれている。(英語だ)そしてその街の中をぐるりと囲むように円が赤色で数十個描かれている。それが重なり合う所だけ青で濃く塗り潰されていた。
その地図を前にし、彼は唸りながらパイプを取り出し、火をつける。――沢山の紙が散乱する上で。
私は洗濯物籠を通路に置き、近寄り、ゲコの真後ろに立つ。振り返った彼に笑みを返し、無言でパイプを奪い、思い切り振りかぶりスリッパで頭をぶっ叩く。
痛みと驚きでゲコが恐怖に染まった笑みをぎこちなく浮かべた。そのまま、すっと、何かから逃れるように視線を外して。
私は微笑みながら、ゲコに正座させる。
それから三十分、笑顔で罵倒しながら説教した。
大の大人を涙目にするのは正直、とても気持ちが良かった。
2
彼女は怒っていた。
「くそふざけてんぜ、ぶっ殺してえ」
毒づきながら、私と一緒に歩いているのは一人の少女。
吐く息が白い事にも何の感慨も無くなった一月の後半。
弟の太陽の受験が控えていたので体調を心配する日が続いていたのだが、それに関しては私より彼女の方が深刻だったろう。年上の女性は金のわらじを履いてでも――という言葉は至言かもしれない。少なくとも彼女と出会って弟は幸せ者である。
付き合うようになってから大分薄くした化粧は、本来の幼さが残る可愛い顔立ちを十二分に引出し、お世辞でなく彼女をどんどん美しくしていた。恋は女性を輝かせるというのはどうやら都市伝説ではないらしい。少なくとも彼女には。
「……どうしたらいいんだ、ちくしょう、クソ野郎が……」
苦く呟く彼女に何も言えず、私はただ黙って横で歩いていく。
子牛田優は共に下校している私に、怨嗟とも言えるような言葉をその表情で、名も素性も知らぬ相手へと吐き捨てていた。
弟は私の紹介した相手、絵葉書事件の子牛田優――あの時介抱した女性だとすぐ解ったらしい。そして私の同級生という事を知ると自然に友達のようになった。私が彼女を褒めたので、(頑張った)好感度は最初から高かったらしい。それをゲコに言ったら「姉パワーは凄いね」とからかうように言った。その日、彼の夕食はアスパラガスのスパゲティになり、彼は半泣きになりながらそれを食べていた。嫌いだから残せばいいというのは私の前では通用しない。
その内、どちらから告白したかは定かではないが、弟がある日照れくさそうに「付き合う事になった」という事を報告したときは、嬉しくもあり、寂しくもあった。それが私の弟である最大の要素を優しく消して行くように感じられたからだ。喜ばしいのだと解っていても、いつまでも弟は弟のままでいてくれないのだな、と頭を振る。……というか何故私は、こんな本来母親が感じるであろうことをしみじみ噛み締めているのか。肝心のうちの母親は「へえ~、じゃあ今度連れてきないよ」と煎餅を齧りながら言った。――弟のあの冷たい視線は、暫く忘れられそうにない。
そして二人は付き合い始めたという訳なのだが、弟は受験で忙しい時によくもまあ決意したと思う。しかも彼は近くで一番の進学校に進むという事で深夜遅くまで勉強していたのだ。
それでも、彼は色々と危ない付き合いがあった子牛田さんにその関係をきっぱりと断つように勧め、彼女の方も家庭の問題と向き合うようになり、性格もたった二か月で驚くほど変わった。弟の方も彼女に触れる事によって男らしさに磨きがかかり、増々逞しくなった印象を持つ。
一月の後半、太陽も受験が終わり、今は家で久しぶりの休息を楽しんでいる。
学校の帰り道、私たち制服の上からコートを羽織り、きつくマフラーをして口からは白くけぶる息を吐く。それが何だが物寂しく、すぐに消えていく私たちの思いのようにも思える。
「でも、誰がやったなど私達には解りようがありませんよモーちゃん」
「それでも腸が煮えくり返って仕方ねえんだって」
「気持ちは痛いほど解りますが……」
むしろ彼女より私の方が良く解るはずだ、と心の中で呟く。
「誰がやったか、かぁ……、解りゃ苦労しねえよなぁ、確かになぁ……」
子牛田さん――今はモーちゃんと呼んでいる―は悔しそうに唇を噛む。
事件は、今から三日前に遡る。
それはこの辺りでも一、二を争う大きな街である隣の市で多発している、連続女性暴行事件だった。
何でも、街で偶然声をかけられた女性がお茶に誘われ喫茶店やファーストフード店で相手と食事すると、自分でも気づかぬ内に、ミルクや砂糖、もしくはジュースに薬物を入れられ一端別れ、時間が経った所で再び連れられて事に及ばれるかなり計画的かつ悪質な犯行だった。
被害者は十代から三十代と幅広く、特徴も一致せず、犯行に及ぶ時は目隠しされる事から誘われた人間しか解らない。しかも誘うその男も毎回違い、後ろで事に及ぶ人間が現金で彼らを雇い、口説くだけというからやられる人間には全く相手が解らない。
警察も動いているらしいが、彼女達の財布が盗まれていることから強盗事件としても捜査している。その割に証拠や犯人が特定しづらく、中々進展することがない。
悪質極まりないレイプ犯、および強盗犯、ということなのだ。
そしてその被害に、モーちゃんの友人が襲われた。
彼女はその日、休日一人街で趣味の雑貨屋巡りをしていた。
ふいに話しかけられる。
振り返ると男が笑いながら立っていた。
見た目はどこにでもいる、爽やか、というのが一番適当な印象の、背が高くスポーツマンのような、優しげな二十代中頃の男性だった。
「――すみません、道を教えて頂けませんか」
というのが第一声。
それから道を詳しく教えていくうちにお茶でもどうですか、と訊かれ、「要するにナンパです」と笑われた時、OKしたらしい。なるほど、女たらしはどこもこうなのか、と深く頷かせられた。
定番のようにお洒落なカフェに連れられ、そこで注文の前に水を男がセルフで取りに行く。持ってきたそれを受け取り、飲む。
そしてそこから三十分程談笑した後、あまりにもあっけなく「あ、時間だ。それじゃこの辺で。楽しかったです、ありがとう」と帰られてしまう。何だかあっけにとられてしまう彼女だったが、その時は自分もまだ捨てたものではない、男が誘ってくるのだから、と変な自信を持てたらしい。素直に浅はかだ、と私には笑えない。自分の時を思い出して苦しいくらいだ。
店を出た時、彼女はだんだん身体が重くなってくるのが解った。雑踏の中、ふらふらしながら歩いていると、いつもならぶつかない通行人とも肩が当たり睨まれる。おかしいと感じた彼女は端に寄り、少し休もうと考えた。そして壁に向かって歩いて行き、―そこからの記憶が、すっぽり抜け落ちていた。
気付けば路地裏で仰向けになっており、カラスがやけに五月蠅く僅かに見える空に飛んでいる。さっきまで青かった空が、いつのまにか赤く、そして黒くなりかけていた。
どうなっているんだろう、と起き上がって、
自分の下半身を見、固まる。そして――
「許せませんね」
私は呟いた。モーちゃんも、強く頷き返す。
「絶対許せねぇ」
それから同時に無言になる。
寒い冬が、身体を包んでいる。
3
ゲコの左手の薬指にはプラチナのリングが光っている。
それを見つめ、彼は時折深いため息を吐く。
それを見るのが何故か不快だった。
出来る事なら外して欲しいとさえ思う。
それがある限り、私の中の何かは形を得ないという予感がある。
何の根拠も無い、ただの予感。それは私の中にある感情の中でも特に汚い物に思えたし、それを口に出してしまえばもう私は自分で自分に、一生消えないしこりを残すことになりそうでもあった。
ただの指輪。ただの過去。ただの思い出ただの感傷。――しかしそれがいかに人を縛り、動けなくし、また引きずらせるか。
ゲコは今日もため息を吐く。私もそれに似たものをそっと吐く。
ゲコの周りは今日も紙切れと地図で散乱している。最近、ここは片づけなくてもいいと言われている。なので、何をしているのか判断はつかない。一体、彼に何があったというのだろう。あ、またチャイムである。最近、女性がよくここに来てゲコと話をしていく。大抵重い空気になるので、私は茶菓子を出すとすぐに引っ込む。何やら相手の女性は時々泣きながら話しているようだ。嗚咽交じりの声が廊下に響いてくる。ゲコはあの深く落ち着いた声で(つまり私の時とは大分違う声で)ゆっくり話を聴く。一日二、三人くらいが来て、話し、帰って行く。女子高生もいれば、三十代くらいの綺麗な人もいる。皆感じがいい、しかしその顔には悲壮感、絶望感が漂っていた――そして彼女たちのその顔は、どこか(失礼なのだが)懐かしいものも感じる。それが何なのか良く解らないが、いわゆる既視感というやつだと思う。何か、どこかで見た事のある顔つき、それが伝わって来て私を動揺させる。
涙で瞼を腫らし、時折聞こえてくる声が、私の耳に届く。「誰にも言えなくて――」「殺してやりたいです、――死にたい」「警察にはけんもほろろで――」「フェスティさんならもしやと思いまして――」「弟が凄い人がいるからって聞いて――」「何日も寝てません、寝ようとすると、思い出して泣くんです、どうかどうか――」彼女たちは切実に何かゲコに訴えている。私は、彼が女性と、しかも魅力的と言っていい彼女達と話しているのがとても気に喰わなかった。例え彼女たちが悩みを持ち込んでいるのだとしても、それをわざわざ何故ゲコの所に持ってくる必要があるのだ、と、憤りながら思う。
彼女たちが帰る時に、必ず言う事がある。
「――……お願いします、先生――……」
ゲコに近づくな、と理不尽にも――全く逆恨みにも近い感情で――そう思わずにいられなかった。
彼は、また難しい顔をして指を合わせている。
ちゃぶ台の上の地図を、じっと見つめながら。
4
それから二日後の下校時、モーちゃんが私と一緒に歩いて帰っていると、校門を出てから暫く黙りこくっていた彼女が、真剣な顔をして言った。
「囮になる事にした」
何のことだろう、と思い、その顔を見返した私に、その決意を秘めた瞳は揺らぐことなく、真っ直ぐ私に視線は向かってきた。
何をです? と訊く前に、
「アタシが隣町へ行って、その男どもを捕まえるための囮になるって言ったんだ」
その言葉が身体に染み込んでいく内に、私は自分でも驚くくらいの――自分にしては最大級に珍しい――大声で叫んだ。
「何言ってるんですかモーちゃん、馬鹿だ馬鹿だと思ってましたけどそこまでとは思いませんでした!!」
「一応心配してるみてぇだから、殴るのは勘弁しといてやる……」
物凄く怒った顔をしているモーちゃんだが、私もそれに気づきつつも続ける。―何を言っているんだ、この人は――
「隣町って、囮って、一体何ですか、よく自分のしようとしている事を考えて下さい!! 危険すぎます!!」
「心配してくれてあんがと、でも、アタシ一人じゃねえから安心してくれよ」
「……一人じゃないって……まさか、まだあの『暴走族グループ』と付き合ってるんですか!?」
「ああいや、正確には〝今〟だけさ。アタシ一人じゃどうにもならんから、人数貸してもらう事にしたんだって」
「でも、それでも危険です! 結局今まで警察が介入しても全くの不成果だったのに、それをモーちゃんたちが捕まえる事なんて出来る訳ないじゃないですか! やってる事は最低でも、足を残さないことから見て、相当頭が切れるヤツなのは疑いようがありません!! 絶対ダメです!!」
「何だかんだでお前も甘いよな、感心するよ、……ま、大丈夫さ、危なくなったら後ろから尾行している仲間がすぐ飛んで来る、心配すんな」
「――太陽が許しません、間違いなく!」
その言葉に一瞬たじろいだモーちゃんだったが、直ぐに切り替えたらしく、
「タイちゃんには黙っててくれ頼む。……心配かけたくねえんだ。やっと、落ち着いたのにさ……」
「でも……」
「頼む」
「で、でもぉ……」
「このとおり、だ」
少し頭を下げて私に言ってくるモーちゃん。
短い付き合いながら、こうなった彼女は何を言っても無駄な事は重々承知している。このまま行けばまず間違いなく彼女はやるだろう、その成否に関わらず。
私は考えたが、結論が出るまではほんの数十秒だった。
「――解りました」
その言葉にやっと頭を上げるモーちゃん。その顔には安堵とも、罪悪感とも呼べない様な感情が浮かんでいた。その顔に、告げる。
「――私も、行きます」
今度はモーちゃんが驚く番だった。
何か言おうとする所で、覆い被すように続ける。
「一人では絶対させません」
そうだ。怒っているのは、彼女だけでは無い。
似たような被害を受けている私だって、いや、私だからこそ許せなかった。
人の心を抉るように傷つけて逃げる男に、言いようの無い怒りが、腹の中心から燃え上がる様にし声を上げる。――許すな、絶対に許すな――と。
驚きで口を大きく開けるモーちゃんに、私はなるべく不敵に見えるよう顔を作り、言った。
「やってみたかったんですよ」
彼女の顔に向け、再度、言う。
「――仕返し、というものを」
空は澄み、決意を後押しするようにどこまでも晴れ渡っている。
いつか受けた傷跡を、ゆっくりと剥がす。
痛い、と感じる。同時に血が出、顔を歪める。
しかしそれが妙に心地良くもある。
自分の運命と向き合い対決する。もしかしたらそんな気持ちだったのかもしれない。
小さな決意が固まるほんの数瞬、ゲコの顔が浮かぶ。
ごめんなさい――と心の中で、謝りながら。
5
畳の部屋に行くと、そこは最早暴風雨が通りすぎたかのような惨状が広がっている。
その中心地にいる男は今日も難しい顔をし地図や写真を見ていた。
「死角が五個……彼女たちの行動半径から、またその薬が効き始める時間を考慮すると、おそらくこことここに来る。……――張るにはどちらかに絞った方がいいだろう……しかし、この円を全て含む地点はここしか無い……つまり、ここで大体が声をかけられる訳だ……そして彼女たちが倒れる時、自然に近寄り、介抱するように見せるためには間違いなくその近くにいなければならない……間隔は四日おき……となると次は――いや、もう彼らもその事が知られているのを知っている……次は間隔を狭めてくるだろう……となると次は……」
ゲコはぶつぶつ呟いきながら、向かいの壁に刺さっているカレンダーを見、「二日後、だね……」と一人小さく頷いた。
何をしているかよく解らないが果たすべき使命は一つ。食材が入ったスーパーの袋を持ち部屋に入り、台所の流しの前に置き、ゲコに近寄り、全く気付かずぶつぶつ言っているゲコの横に座り、「わっ!!」と、叫ぶ。
「――ッぃぎゃあッッ!?」
と彼は飛び上がり、そのまま勢いよく後頭部を畳にぶつけ、暫くそのまま動かなくなる。少しやりすぎた。
そのまま周りの紙だとか写真だとか集める。……やはり資料は隣町のもののようだ。細かい資料に何か英語で書かれている。流れるような文字なので自分には何が書いてあるか解らない。そして写真はどれもこの前来ていた人たちのものばかり。少し腹が立つ。みんな綺麗だ、と思うと同時にぎゅっと拳を握った。何なのだろうか、この気持ちは。
「いきなり何をするんだいスティー君。驚くじゃないか、こういう時はね、息を吹きかけるとかもっとソフトにするべきだ、いや、そうだ、そうそうそんな感じだよ、そうっと優しく、労わる様にだね――……ふうっーと」「――うわッ!!!」「――だから痛いんだって鼓膜がさぁ!!」
再度大声で叫ぶと、ゲコは耳を押さえ呻く。何か言いようのない苛立ちを胸に、「さっさと片付けたいのでどいて下さい」と冷たく言う。それを聞いたゲコが「……何かあったの?」と訊いてくるが無視。自分ですら解らない気持ちを他人が理解出来るはずが無い。
「特に何もありませんから。お気になさらず」
と言って資料をまとめようとする。そこにゲコが、「ああ、いつもみたいにそれはそのままにしておいていいよスティーさん」と優しく言う。
首を傾げ、それを不思議そうに見た。「……いいのですか?」と確かめるように訊くと、ゲコは、「ああいいんだ、それでもう少ししたい事があるからね」と笑って返す。
その表情が少し硬いのが気になったが、あまりゲコを心配しても取り越し苦労な事が多いのですぐ思考を切り替える。
立ち上がり、台所まで行くとスーパーの袋を取り出し、
「今日は豚肉のしょうが焼きにしようと思いますが、構いませんか?」
と尋ねると、
「いいねえ、美味しいよねあれ」
と子どものように笑う。彼が時折出すこういう表情が嫌いで無い私は、「では少し待って下さい」と微笑む。「うん!」とゲコが返してまた可笑しくなった。
そしてふと、本当にふと、という感じに、ゲコが言った。
「スティーさん、近く隣街に行く用事はあるかい?」
腕が止まる。一瞬で速くなった鼓動をなんとか落ち着かせ、喉に溜まった唾を飲み干す。ぎこちなくならぬよう、おかしくならぬよう背中越しに、「特にありませんが」と返す。そして、また豚肉を下ごしらえしていく。ゲコは、「最近ぶっそうだからさ、あまり行かない方がいいかな、と思ってね」と静かに、表面ではおどけ、しかし内心は恐らく真剣そのものに、告げる。
「そうですね気を付けます」とだけ言い、止める。あまり多くを話さない方がいい。彼のあの鋭い勘に、悟られる前に。
少し考えているようなゲコだったが、直ぐに「お腹減ったねぇ~」と笑う。私も少し安心し、夕食作りを続ける。
モーちゃんに協力すると言ったら間違いなく反対される事を、知りながらも。
6
「囮は私だけでいい。薫、お前はそいつらと一緒にアタシを見ててくれ。何か異常があった時は頼む。……無茶だけはすんなよな」
「そのセリフ、そのまま返しますよ」
「……ごめんな、つき合わせちまって」
「……自分の意志です。お互い様ですよ」
「……じゃ行くぞ。何日かかるか解んねーし、最初から当たりって事はまず無いだろうけど。……でも、今日は仕掛けるのに最適な日だし、油断は出来ねえ。締めていくぞ……お前らも、頼んだぞ」
「解ってるって」
「ちゃんと見とくさ」
「他の奴らは人気のない路地裏に散ってる。半グレとかいう奴らもいるみたいだからな、気を付けるよ」
「行って来い」
「じゃ、行ってくる、終わりは夕方の四時までだ。…それ以降は被害が起きてないらしいからな、……よし、行くぞ」
「「「「ああ」」」」
そう言いモーちゃんは人混みで溢れ返った街に飛び出していく。その後五メートルくらい離れ、私たちは無言で付いていく。
彼女の元仲間という彼らはどこをどう見ても普通に学校に行ってます、という者がまるで無く、その格好は多少大人し眼なものの革ジャンやブーツを履いていて、胸元にはアクセサリーがじゃらじゃらと付いていた。彼らと共に行動するのは少し怖いが、これも犯人を捕まえるため。我慢しなければ。
――それにしても……
「まるで別人ですね、モーちゃん…」
今日の彼女の恰好はまるでお嬢様のような柔らかそうで白いふりふりの服。防寒にも気を使っているが、それより自分が女性だと強く主張するようなもので、包容力のある優しい雰囲気を纏っていた。ふと思ったのだが、弟とデートする時、いつもこんな格好をしているのではないだろうか、という全くの想像が浮かぶ。いくら〝変装〟と言っても、着慣れているようにしか見えない。私は誰も聞いていないのに、「可愛いですね……」と思わず呟いてしまう。
私たちの前方五メートル先をまるで今日の混雑ぶりに圧倒されているような雰囲気で見回し、おどおどした態度で、だが興味深々といった顔つきで店を見る。
周りを見れば今日はとても人が多い。この時間帯に彼女の背中を追っていくのは中々難しかった。それでも何でも無いような振りをし、彼女が連れて来た暴走族人達と何気ない談笑をしながら歩いて行く。今日も私はなるべく自分にとって派手目な服装をしているが、彼らに混ざるにはそれくらいしないとと思い冒険したものの、やはり彼らの出す独特の反社会的オーラには敵わない。少し肩をいからせながら歩いてみたが、どうにも滑稽だ。それは後ろで私を見ている四人の男にしても同様だったらしく、「薫ちゃん、それじゃチンピラだって」と言って笑われた。
恥ずかしくなり、直ぐに止める。
私達はすぐに前にいるモーちゃんに視線を飛ばす。
捕まえてやる、絶対に。
そんな執念にも似た何かが私を動かす。過去の痛みを引き剥がすために。
今日は年に一度の祭りの日。
確かに狙うなら、最適の日だった。
7
しかし、真面目にやっている私とは違い、彼らの話題の殆どは私だった。
前を行っているモーちゃんの事などお構い無しに私の好きな芸能人や漫画やテレビ番組などを訊いてくるのだが、底の浅い質問に辟易すると共に、あなた達はモーちゃんが本気で心配ではないのか、と思わず怒鳴ってしまいそうになる。最近私は何かどんどん素が出始めている。その事に自分で驚いた。変わった、という事なのかとふと思う。
彼らへ静かに『モーちゃんに気を配る様に』と言っているのだが、それもあまり効果無く、よく彼女はこんな人たちと付き合っていたな、と感じざるをえない。不快だ。彼らは何故こんなに笑っていられるのだろう。謎だ。
――こんなならゲコの方が数千倍マシ―そう思い苦々しくモーちゃんの背中を見つつ内心叫び、そして浮かんだ感情に少し、立ち止まる。
男達は私の足が止まった事で怪訝そうに少し立ち止まり、「どしたの? 薫ちゃん」「具合でも悪い?」「何か飲む?」「飯買ってこようか」などと訊いていたが、それをあっさり無視。私は、自分で自分の心で言った事で固まる。――私はゲコを、どう思っているのだろうか――考え、重く蓋をしていたものが自力で持ち上げ、ゆっくりとその顔を出し始めているような、そんな気がした。
まさか。そんな訳、ない。
第一、私とどれだけ歳が離れているというんだ馬鹿馬鹿しい。
そう思った瞬間、私は自分がそう思っているのだという事に衝撃を受ける。頭が空白になり、瞬間、私は止まっていた足を無理矢理踏み出す。
男達が慌ててそれについて行く。
馬鹿馬鹿しい。本当に、馬鹿馬鹿しい。熱い顔を冷えた空気で冷まそうと小走りでモーちゃんへと近づいていく。
何考えてるんだと、自分に言って。
そしてそれはもう、否定できない所まで来ているのではないかという予感に縛られた。
ゲコの笑い顔が浮かび、
私の頬は更に、熱くなるのだった。
8
近年まれに見る観光客の量らしい。
何処を見ても人、人、人、だった。何だか、あまりの人の多さと待ち続ける事の緊張、そして退屈さに、思考がどうでもいい事ばかり考え始める。
今の状況が何となく、波にさらわれた一枚の木の葉のように思えた。
流れ流され何処に行くのか解らない、非力で力を持たない小さな木の葉。
考える。私達の人生の終点には、一体何があるだろう。それは、死だ。
抗いようのない真実。誰にでも平等に降りかかり、躱すことも、逃げる事も、泣き叫んで謝罪する事も出来ない、決して変わる事無い、真実。
人が向こうから、後ろから、肩がぶつからない最低限の動きで躱し、進む。
最中、私達の意志とは無関係な力がこの世にあるように感じた。
誰かのレールに無意識に沿い歩いている自分。逃れようのない運命、人間の人生に意味など無いという、漠然とした虚無感。誰か、――陰も形も見えない誰か――に動かされ、生きる孤独。その大きな流れの中で少しだけ自己を認め、人と比べる中優位に立つ。逆に、自死を選びたい程の哀しみや絶望も感じる。人生に意味は無い。それは抗いがたい事実で、運の無い人間はどう頑張っても運の無い人間だ。
だがゆっくりでもいい、しかし自分に出来る速度できちんと歩いていく。
何も変わらないかもしれない。
でも、最初で最後のカードを捨てる事も、きっと無い。
生き続けるかどうか、また足を前に踏み出す事が出来るかどうか、それが私たちがレールの上で忘れてはならない、微かに光と感じられるものではないか。
ゆっくり。
でも、速く。
それが私たち人間が生きるのに必要な、そう無力な木の葉に出来る最大の抵抗なのではないだろうか。
流れ流され生きる、その中で上手く流れるように、岩にぶつかりつつもまた前に進めるように―そう私は思って――いや、ゲコと出会って――思えるようになった。
あの不思議な男と私は、他に何の接点も無い、ただのアルバイトと主人の関係である。
だけど、違う。私にとって、違う。
彼はどうか知らないが、少なくとも私にとっては、違うのだ。
こんな事は絶対にゲコには言えない。言うつもりも無い。このまま私の中で終わる気持ち、そう思っている。
だけど私は知っている。自分の気持ちが何であれ、これは本物だと。認めたくは無いけれど娯楽の時とは絶対違う、違うと確信できる。それだけは自信を持って言える。
彼は今日もあの畳の部屋で新聞を切ったり、地図を見ていたりするのだろうか。あの、何もかもを見透かすような、青い瞳で。
隣にいたい。いつの間にかそう思っている自分がいる。可笑しくて少し笑った。――私が、ゲコの隣に――か。
そんなまさに何の意味も無い事を、延々人混みにもまれながら考える。
モーちゃんはまだ歩いている。今日は何の収穫も無しだろうか。
祭りの街中を行ったり来たりして三度目。流石にそろそろ疲れてくる。
後ろで完璧にやる気を失った四人が口々に文句を言っていたが、不快なので無視。
近づいて行きモーちゃんに止めようと声をかける事にする。
誰かに、後ろから口を塞がれた。
そのままその手袋の内側に持っていた布のようなものを嗅がされる。
次第にぼやける視界の中で、後ろにいる男達に声をかけようとしたが、彼らは全く違う方向を見て、笑い合っている。目の先でモーちゃんの背中が遠ざかる。私は手を伸ばそうとしそれすら出来ない事に気付く。薄暗くなる目の奥で、私は誰かを見た。
見た事ある、と思った所で、
次第に意識が、遠のくのだった。
9
ぼんやりとしている所で、視界が徐々に鮮明になっていく。
カメラのピントが合うように、それはだんだんと像になり、ここがどこか違う場である事を知る。首を回して辺りを見る。何が起きたのだろう。モーちゃんは? あの男達は? そう考えた所で、自分の最後の記憶に辿りつく。確かあの時変なものを嗅がされて――と思い出した瞬間、飛び起きようとした所でぎしッ、と手首が固定されていて身体だけ浮き上がり、手首に尋常では無い痛みが襲った。痛い、と感じた時には声を上げている。絶叫だった。しかしそれも結局声にならずくぐもった音になり消える。口はタオルで縛られており、上手く出なかった。手首は引っ越しの時に使うような結束具で縛られており、自分が適当に作られたベッド――しかし大きさはキングサイズ――に寝かされている事が解った。
自分の身に何が起きているのか解った所と解らない所があったが、何故自分がまだ襲われていないのか、という事であり本来なら――というのはおかしいが――今頃どこかの路地裏で寝転んでいるはずだった。
そして、ジーという何かの機械音に気付き、その音がした方向を見る。――身体と心が、凍った。
自分に向き合っている――真正面に構えている――その機械は先程から全く揺れることなく、私をずっと映し続けている。そう、小さなビデオカメラ、が。
これから何が行われるのか気付いた私は思いきり暴れる。口からくぐもった音しか漏れないが、それでも叫ぶ。手首はきつく縛られているので動く度擦れ血が出たが無視。とにかく暴れて暴れまくる。幸い足は自由にされていたので足の裏で思いきりベッドを叩きつけ、壊そうともがく。そんな所までご丁寧にカメラは映している。この行為ももしかしたらこのビデオを買うような人間を興奮させるのかもしれないが、そんな事になったら間違いなく私はその人間を殺す。例えどんな罪になろうとも、私はその人間を殺す。それは自分の中に一度同じことをされた時のあの行き場の無い怒りからかもしれないし、それ以外かもしれない。とにかく何が何でもここから逃げてやる、ここから逃げ出す方法を徹底的に考える。
それが無意味であろうとなかろうととにかく考える。考えていなければおかしくなりそうだった。
全身全霊で身体を動かし、周りを見る。どこかの廃ビルのようだ。
窓はガムテープで塞がれ、しかし所々から隙間風のようなものが吹く。
そこから漏れた冷気を暖めるため簡素な石油ストーブが置かれ、静かに赤く熱を出している。
天井に割れた蛍光灯の残骸があり、両脇から小さなスタンドが私の身体を照らしていた。眩しいとは思ったが、それどころでは無い。
ここを使っている人間がすぐにでも逃げられるようにしているのは、間違いない。とにかく動き、それ以外に何かないか探す。
視界の左隅にドアがある。その向こうで微かに明かりが漏れている。
そしてその先に確実に誰かいる。それが解った瞬間、身体中から刺し貫くような冷たい汗が流れた。
どうか、どうにかしなければ。
考えているのか思考で絶叫しているのかも解らない。だがもうすべきことはここから一刻も早く逃げる事、それだけだ。
私はとにかく此処を誰かに伝えなくてはならないと思った。だが携帯も財布も何もかも取られていて、私にあるのはこの身体と、いつの間にか脱がされた上着のGジャン(それを考えた時吐き気がした)以外の衣服だった。
どうする、と思いながら私は既に挫けそうだった。瞳からは涙が滲み、溜まり、そして流れる。どうしようも無くただ流れる。とにかく悔しい。こんな所でこんな場所で以前の過ちを、しかも今度は自分から犯しているのだから当然だった。
いくら考えても悔しさしか出て来ない。自分が情けなくて仕方ない。何だこの体たらくは。何故自分はまだこんな所で馬鹿やって、しかも取り返しのつかない事になっているのか。本当に何も進歩していないじゃないか馬鹿じゃないかお前は、と涙と共に感情を垂れ流して行く。
外は今何時だろうか。腕に着けていたお気に入りの時計すらも無いので詳しい事は解らないが、暗くなるのが早い季節とはいえとっぷりと暮れているから六、七時という所だろう。最後に時計を見た時は四時頃だったから、あれから二時間以上経った事になる。
祭りのあった場所からそう遠くないらしく、喧騒がここまで伝わってきた。これからそれが熱を帯びていく事を考えれば、こんな所でこんな風にされている事など誰にも解らない。
唯一の頼みはモーちゃんだが、あれから探してくれていたとしてもここはまだ見つからないはずだ。見るからに寂れた廃ビルなど誰も見向きしない。それに祭りの喧騒に遮られ警察もまだ近づく事が出来ないだろう。正に八方塞がり、打つ手が無い。
そう考えた時、何故かゲコの顔が浮かぶ。その顔が次第にくっきり感じられるようになった時、違う涙が頬に流れ耳に入った。水に浸かった時のように片耳が塞がれた感じになり、まるで世界に膜がかかったようだった。
ゲコに見られたくない。ゲコにこんな風になった私を見られたくない、と思う。
彼には自分の一番いい所を見られたい。自分の、自信が持てる、一番いい身体や顔を見てほしい、そう思う。
どんな時も、彼に自分の一番綺麗な時を見て欲しい。見ていて欲しいと思う。こんな薄暗くて悲しい場所では無く、自分が輝いている所で傍にいて欲しい。我儘と言われてもいい、そう思った。
こんな時に何を思っているんだろうか、私は。
思わず笑ってしまう。本当に何考えているんだろうな、私は。
彼のそんな笑顔を思い浮かべながら暫く。
ふと、足音が聞こえてくるのが解る。一人では無い。三人でも無いだろう。それならもっと足音が大きく重なって聞こえるはずだ。今は規則正しく、コツコツという音が二重になって聞こえるだけ。つまり相手は二人? ――
そう思った時、ドアの向こうに影が映った。間違いない、少なくとも今は二人だ。
ドアが開く。廊下のその光と共に、入ってくる人間達。彼らは――
目を見開く。そこにいるのは――
「諭吉が財布に二枚とは、意外にリッチだな、薫さん」
「今日び、貧乏な俺達より裕福な女子高生は腐る程いるって純ちゃん」
「そうか? 俺が貧乏なだけか、佐久間?」
「そうだって、純ちゃん」
「寂しい世の中だな」
「だから温もり求めてこうしてちゃんとヤッてんじゃないのよ、全く」
「それもそうだな」
「そうだって、はは」
「はは」「ははは」
「「あっはははははははははははは!!」」
気が、狂うかと思った。そこにいたのは、そこにいたのは――
「お久しぶり、薫ちゃん」
「前は世話になったな。――さて、」
近寄り、笑う。
「「仕返しだ」よーん!!」
偽名かどうかなどどうでもいい。
「覚えてるかな、俺達のことー」
「どうでもいいけどな」
あの日が、フラッシュバックする。
あの日、あの時、あの瞬間。
私を襲ってきた二人組。
佐久間敦と、斉藤淳、だった。
10
私達が関わるといっても、そこまで期待していた訳では無い。
ただ犯人の事を捕まえる、という気持ちが先行し、私とモーちゃんで前のめりに走っていただけだというのも解っていた。それでも、やらずにいられなかった。それが、例えどんなに無意味だとしても。街には何人という暴走族の仲間が見張っていても、彼らに理由は無い。理由が無い事で人は本気になれるものでは無い。それは解っている。そんなお遊びみたいな刑事ごっこをして何になるのか、それよりもゲコのアドバイスを素直に聞いていれば良かったのではないか、そう思う。しかし、私は自分でこの犯人と対決してみたかったのだ。
私に流れているこの嫌な塊ともう一度向き合い、倒せなくとも戦いたい、そう思ったのだ。
今にして思えば明らかに不用意だった。私のミスから生まれたもの、そう思っても、目の前の事に視界が真っ赤になる。どろっとした怒りが次々に湧いてくる。病院の天井、学校で男子に話しかけられる度震えた事、家を出る事が出来なかった事、一人で部屋で泣いた事。心配する家族の視線も、何もかもが苦痛で仕方なかった事。それが一気に吹き上げるように飛び出す。許さない、許さない、許さない、許さ、ないッ、許さないッ!!
口から出る呻きが部屋を満たす中で、絶叫にもならない絶叫が響く。それは虚しくかすり、彼らを素通りし、散る。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「おおこわ。可愛い顔が台無しだよー薫ちゃん」
「言ってやるな、不憫だろ」
「そうだなー」
「「あはは!」」
どうでもいい、と言わんばかりに笑い合う。私のおそらく血走った目を見ても逆に興奮するだけ。許さない、絶対に許さない。私は、この二人を、絶対に。
暫く笑っていた二人は、面白そうに私を見、言う。
「俺達は、娯楽が嫌いじゃなかったよ」
その言葉で固まる。気にせず、
「いい女も捕まえてくれたし、それからの金づるも作ってくれた。遊べば楽しい奴だし、セックス相手も紹介してくれた。互いの事を殆ど知らないながらもな」
「アンタに会って、アイツやけに興奮しててさー。珍しく入れ込んでると思ったら、アンタだもんなー、そりゃ、俺だってブチ込みてーもん確かによー」
ひゃは! と気持ち悪く笑う佐久間。それを聞きどこか愉快そうに斉藤が笑む。私はその不快でしかない彼らの動きをじっと見詰める。見つめ見つめて、叫ぶ。「消えろ」、と。
斉藤と佐久間はまたひとしきり笑った後、すっとその笑みを引き、
「――あれは、確かに俺達のミスだ。それは認める。アンタが俺達から逃げれたのも、単なる偶然だ。だが俺達のミスには変わりない。娯楽は今も塀の中だ。アンタのせいでな」
「俺達も仲間達から外されて、今の今まで適当にバイトをして食い繋いできたけどよー、そろそろ頃合いと思ってここから離れる事にしたんだよなー」
「その時、どうせならゲームしようという話になってな。どれだけの女を襲えるか、という極シンプルなゲームだ。それをしたからどうなるって訳じゃない。むしろ捕まる確率の方が何倍も大きかった。だけど、だからこそゲームだ。そうじゃなくちゃいけない、そうだろ? 薫さん?」
「誰にも知られずにヤルのは楽しいぜー、まるで透明人間にでもなった気分さー。そして俺達は見事ゲームに勝った。娯楽の奴もきっと喜んでくれるよ、俺達の活躍をさー、へぇはッ」
「今日が最後と思ってたら、随分幼稚な探偵ごっこしてる奴がいるじゃないか。そして良く顔を見たら――アンタだった。即決したよ、最後はコイツで決まりだ、ってな」
「顔を見せたのは、どうか俺達の顔を忘れないで欲しいからだよ。ずっと忘れず俺達を覚えてほしいからだよ。ずっと覚えていて、時々うなされる位がいい。俺達が失ったものを少しでも共有したいんだ、いいだろ? 薫さん」
「俺は金しか興味が無い。だから、ヤルのは佐久間だけだ。俺は口封じと利益も込めて、アンタ達の合体シーンを丁寧に録画する。売るかどうかはアンタの姿勢次第だよ。忘れるのは困るが、ばらされても困る。俺達の事を喋らない代わりに、俺達もこれを売らない。そういう条件さ、いいだろう?」
「やぁあべぇえええー! めっちゃ興奮してきたー。薫ちゃん、その泣き顔、マジ最高だよ、うう、たまんねー!!」
「佐久間も元気になった事だし、やる事やって行くか、おい、ちゃんと見えるように、カメラが綺麗に撮れるようにしろよ」
「わあってるって、じゃ、――いっただきまーす!!」
「――……やれやれ」
佐久間が近寄ってくる。抵抗しようと足をばたつかせる。そして、何とか距離を置こうと後ずさる。それが逆に佐久間を興奮づけるのか、荒い息を吐きながら上着を破られる。
拒否する方法が無い。無くて、誰も来ない。私はここで死ぬ。死んでから、再び自分で生命活動を停止させるだろう。二回死ぬ。ここで終わる。先ほどの自分の思考が泣き叫ぶ。生き続ける事、それ自体が大切なのではないか、そう思っていたのに。今は自分が死ぬことしか考えていない。勝手なものだ、と呆れながらまた涙が零れる。止めようと思っても流れていく。
一枚の木の葉が、濁流に流され見えなくなる。私は天井を眺めている。ゲコの家の茶色い木材の天井を思い出している。あの色がもう一度見たい。そう思う。
奴がズボンのベルトに手をかけた――その瞬間。
「感心しないねえ。ゴムも着けずやる気かい、それはいただけない、それは実に――いただけないねぇ」
音も無く、匂いも無く、足音すら響かず、男は私達の所へやって来た。ドアの向こうからの逆光でよく見えない。しかし、これは、何故、何で、彼が、ここにいるのだ。
気付いた斉藤が瞬時にポケットから折り畳みナイフを取り出し躊躇なくそれを彼に突き出す。彼はその動きを流れる水のように緩やかに自然に躱し、そのまま持っていた黒光りするステッキで身体全体を鞭のようにしならせ胴へ叩きこむ。斉藤の息が喉の奥から絞り出されるように吐き出され、ゆっくりと倒れる。倒れた瞬間、その身体が酸素を欲してぱくぱくと金魚のように口を開閉すると、痛みからか身体を海老のように丸め小刻みに痙攣した。彼はそれを、私が見た事もない程冷たい、凍えるような視線で一瞥し、直ぐにもう一人の男、佐久間に向かい歩いて行く。
膝を黴臭い即席ベッドの上に乗せていた佐久間は同じく折り畳み式のナイフを二本取り出し、構える。初心者ではなさそうだ。訓練されたという感じでは無いので、自己流だとは思うが。
そんな佐久間に、彼――逆光から離れ、その顔がようやく見えた――は、驚く程澄んだ、しかし言いようの無いプレッシャーで押し潰すかのように佐久間を見る。
フェスティ・フロッグバーグ――ゲコは鋭い鷹のような顔でふむ、と息を吐き、何でもない事の様に話す。あくまで独り言、もしくは世間話でもするかのように彼を見、呟く。「僕がこんなにまで不愉快で、面白くなくて、体中が熱くなるのは実に珍しい事だ、うん、実に珍しい事ね。確率で言えば百分の一、千分の一くらいじゃないかな、よく解らないけど、ここまで腹が立つのも珍しい、逆に笑えてくるよね、うん――」
そして瞳を細め、
「いいかい、そこのクズ君」
と笑う。
ゲコが、今まで見た事も無いような目で、表情で、告げる。「僕は今とても怒っているんだ」と口元に笑みをたたえながら、
「君たちが二人組だというのは何となく想像がついた。一人で気を失った女性を運んだりごまかしたりするのは大変だし、三人では目立つ。二人なら一緒に遊んでいた友達を介抱していても別におかしくは見えない。ただ、今回で終わるとか言っていたのは廊下で聞こえたから、それも賢い判断だろうとは思ったよ、一応日本の警察は世界でもトップクラスの組織だからね、何度もやればその内ボロが出る。まあそれに、明らかにおかしいと思ったのは狙われた女性たちが強姦された上で現金まで奪われている事だ。明らかに性欲目的の人間だけとは思えない。金に慎重だし、執着している。一方強姦のほうは荒っぽく、適当だ。『頭』と『身体』がいるんだろうな、とすぐ思ったよ」
ステッキを何でも無いようにぶうんと回すゲコ。しかしそれだけでも、彼が何かの熟達者だという事が解る。手首が柔らかく、肩の付け根もぐにゃりと緩い。身体が柔いと思うと同時に全身から発せられる雰囲気がそこだけ違う。場違いにそんな事を思いながら、私はゲコから目を離さない。何故ここに? という疑問が羽を出して飛んでいきそうだった。続ける。
「そして、襲われた女性たちの行動半径を適当に、大まかに円で囲ってみた。そしてその線が重なり合う所がこの犯人たちの癖だろう、行動の習性だろうと思ったんだよ。だけど警察も警備を強化している今日は絶好の狩場と同時に危険な場所でもある。そして路地裏で事を起こすほどの馬鹿じゃない事はもう明白だし、ならばこの中心街以外の所、近くで誰も使っていない、女性を運んでもすぐに隠せるような場所を割り出した。一つがここで、もう一つが少し距離のある川を挟んで向かいだ。どちらを張るか考えたけど、まず最初はあっちにした。人気も無いし、隠れるには絶好の場所だったからね。だが、ふと思った。それはどちらが警察に見つかる可能性が高いか、という事だね。僕は考え、そして決断した。物事はね、あまり近すぎるとかえって気付かないものなんだ――灯台下暗しって奴だね――そうじゃないか、と。そしてこちらまで急いで歩いてきたという訳なんだよ、全く年寄りは大事にしてほしいものだね。ま、でも見事正解だったのだから、そんなに悪くは無いと思うんだけどね、どうかな、解ったかな――クズ君?」
それを聞き終るかならないかの辺りで雄たけびを上げ、何か振り払うように両手のナイフを交互に突き出す佐久間。
ゲコはそれを緩やかな手首の返しで順に払い飛ばすと、そのまま初めからそこに当たるのが確定しているとでも言うように相手の右肩に躊躇なくステッキを振り落す。
割れるような音を響かせながら佐久間が絶叫する。ゲコは構わずもう一度脛に足払いのような低い一撃を放ち、太めの枝を折るような音を続けた。
痛みで倒れ、泣き叫びながら自分の肩と足を押さえ転がる佐久間。
涙と鼻水でべとべとになった顔に苦痛の表情を浮かべながら、佐久間は鳴き続ける。何かを恐れ敬う古代の人間のように。歌が無かった頃の原始の音のように。
寝転び叫んでいる佐久間の耳元にしゃがみ込むと、ゲコは穏やかとも言えるような優しい声で、言う。
「僕のこと、忘れないでほしい」
謳うように流れる水の音の様にゆっくり、沁み通っていくような心地のよい声で言う。
「――ずっと忘れず、覚えておいてほしい。そうだね、時折思い出してうなされると嬉しいね。君たちの心に僕は残り続ける。――一生、ね」
ゲコは立ち上がり、呟く。
「悲劇あれ。悪夢あれ。絶望あれ。――いい人生を。この痛みと共に」
恐ろしく冷たいその瞳に私でさえも思わず寒気がした。
佐久間はゲコがこの世のものでは無いような目をし、ただ震える。
構わずゲコは、佐久間が落としたナイフを持ち私の所に近づき、タオルを取り、結束具を切り取り、手首を自由にする。
そしてそのまま私の頬を、強く張った。
力を込めた一発、だった。
ゲコはその後、今度は壊れ物でも扱うようにそっと私を抱きしめた。
ゲコは何も言わない。
私も何も言わない。
沈黙が落ち、そのままただ馬鹿のように抱き合う。
ぽつりとゲコが、「君の給金は暫く半分だよ」と言うと思わず笑み、「じゃあもう料理作ってあげませんから」「それとこれとは話が別だ」「そうですか。じゃあ自炊頑張ってください」「今度君に、僕の特製のハンバーグ山ほど作ってあげるよ」「楽しみです」「……スティー君」「……何です先生?」「強く、なったね」
その言葉に触れた時、涙で滲む目を割れた蛍光灯に向けた。理由は無い。ただ、この目から何かが零れない様にするため。それだけだ。
「――……帰ろうか、スティー君」
「――……はい、先生」
遠くでサイレンが鳴っている。
ここまで来るのにそう時間はかからないだろう。
私たちは抱き合っている。
外を見る。
ゆっくり空が雪を、落とし続けていた。
ゲコが言う。
「そういえばさ」
「何ですか?」
「これ、ずっと撮られてるんだよね、確か」
カメラは何も考えずじーっという音を響かせる。
思いきりゲコを突き飛ばす。ベットからゲコが転がり落ちる。
蛙が潰れるような声がしたが無視。
このカメラを破壊するかどうするか、真剣に私は悩んだのだった。