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フェスティナレンテ  作者: 基 創
3/5

第三話 秋





 1



 十一月の寒い日だった。 

 私は近くのゴミ捨て場へ紙類を縛って持っていく。そこは相変わらずおびただしい量の紙くずや発泡スチロール、段ボールや雑誌が積み重なっていた。その多さに少し辟易し、多少、いやかなり綺麗好きの本能としてここを片付けたいと思ったが、それは土台無理な話。そんなことをしてもどうせ明日にはまた別のゴミで埋もれることになる。寒くなってきた外の気温に負けぬよう、私は両手に持ち縛った新聞紙と広告類を起き、擦り合せ息を吹きかけた。寒い。しかし、この耳が痛いような、でも空気が澄んでいるような感じは嫌いではなかった。

 かけられているカラス用ネットを外し、その何とか空いているスペースに新聞紙と広告を押し込むと、少しだけ周りを整え意味の無い自己満足に浸る。本当に意味が無い。あのゲコの、私を馬鹿にしているとしか思えない散らかしっぷりで毎日腹立たされているので、もしかしたらその反動かもしれない。いつになったらあの男は整理整頓というものを覚えるのだろう。成長していくのは私の掃除能力と忍耐力だけである。彼はまた今日もゴミの中に身体を埋めているのだろうか。頭が痛い。

 よし帰ろう、とぱんぱん手を叩くと、その場から立ち去ろうとする。

 その時、ほんの数瞬、それが私の目によぎった。

 私が空けたスペースの向こう、その奥の方に突っ込まれるようにして入れられているのは赤い表紙の本。私はそれに見覚えがあった。確かなのだが、あれはついこの間、弟がいつの間にか仲良くなったゲコから借りてきて読んでいた本では無かったか。

 これを嬉しそうに読んでいる彼の姿がやけに印象的だったので、よく覚えている。ちょっと屈んで腕を伸ばし、それを引っ張りだす。やはりそうだ、これは彼が読んでいたものと同じものだ。表紙が赤く、金字でタイトルが刻印されているが、ラテン語なのか私には読めない。ただ少し新しい感じなので、おそらくゲコの持っていたものが新たに刷られ直されたのだろう。他の本と一緒に持ち込まれたらしく、それは紐が解けた他の本の下敷きになっていた。途中で緩んだのだろう、その本の周りにもいくつか私も知っているファッション雑誌があった。ベストセラーになった過去のハードカバーも。少しこの本だけ毛色が違っていて少し意外に思った。この本は、捲ってみても解るがかなり文が細かく解りにくい。本が好きな私でもきっと敬遠してしまうだろう、古いタイプの本だった。…まあ弟はこういうのが好きで苦も無く読んでしまうのだが。

 とにかく、これを持っていけば、弟もゲコに借りた本をそのまま返し、続きを自分で読むことが出来る。きっと喜ぶだろう。少し汚れてしまっているそれを叩き、綺麗にして渡そうと考えた。

 最初の一、二ページをぺらとめくってみても線が引いてあったり何か書いてあったりという事も無く、状態も良かった。これなら大丈夫そうだ。そう思い、手にし家へ戻る。閉じる時にかさ、と紙が擦れる音がしたが、多分風で新聞か何かが動いたのだろう。さほど気にせず歩いていく。

 向こうの方から、何やら驚いた顔の女性が自転車で走ってきたが、私の顔を見るか見ないかの所で恐ろしく動揺し、そのまままた走り去ってしまう。一体何だろう、と思ったが気にしてもしょうがないのでそのまま歩くのを再開する。そして、私の家の方で何やら音がしているのに気付く。

 嫌な予感がしそのまま走って家まで行く。

 動揺で倒れるかと思った。

 家の中から煙が出ている。

 私は何も考えず、その人だかりが出来ているのを押し通して進み、我が家へと突っ込んだ。

 玄関を開けた所でもわあっと煙が目と鼻を突き、その刺激にすぐに涙目になる。

 気にせずに、玄関に持ってきていた本を放り出し、私はその出所でありそうな台所へと向かう。角に腕をぶつけたがそれどころでは無い。そしてそのガスコンロの鍋の中から盛大に煙が湧き出ているのを見る。半ばパニックになりながら火元へ駆け寄り、急いでガスの元栓を閉める。しかしまだ煙が出ている鍋は熱くなりうかつに近づけない。

 どうしよう、と考えた所で、


 ――後ろから思い切り、水をぶっかけられた。


 じゅぅわッ、という音と共に鍋に水がかけられ、その熱せられた水が水蒸気となりさっきと逆の煙となって視界を覆う。

 私は冷たくなった頭から、特にその水でさえも崩すことが出来なかった両耳脇の跳ねた毛先から滴る水滴が落ちる音を聞いていた。

 ぴちょん、ぴちょんという音と共に、静かになった室内で私と私を水浸しにしした張本人の呼吸だけが聞こえる。

 その少し焦ったような彼の声で、私は現実に帰ってきた。

「大丈夫かよ、姉ちゃん?」

 発したのは我が弟。

 私よりもずっと大人びている、最近更に身長が伸びた、高い声から低くなった事にももう慣れた声で言ってくる。

「ここまで寝癖が直らないとなると、逆に笑えるわ」

 そう呟く私に、彼は呆れとも安心ともつかないようなため息を吐いた。

「犬みたいで可愛いじゃん」

「それは私にとって褒め言葉にならない」

 受験勉強で起きていたのか、振り返って彼を見ると、母さんが縫ったどてらを羽織り、私とよく似た顔立ちを緩ませて、言う。

「おはよう姉ちゃん」

「おはよう、太陽(たいよう)

 びしょぬれになりながら、朝の挨拶を交わす兄妹に次第に大きくなってくるサイレンの音。私が疑問に思って太陽に問いかける。

「父さんと母さんは……?」

「真っ先に逃げたよ。ったく母さんも自分の不始末なのにさ。ホントに困ったもんだよあの人には」

「母さんに常識と良識を求めても無駄よ。自己中心的とすら私には軽くて言えないんだから」

 深いため息を吐く。あの耳障りなドップラー効果を聴きながら、「あ、」と思い彼に訊く。

「――……朝食、どうしようか」

「――……姉ちゃんも大概、変わってるよね」

 何かを諦めたように、太陽は苦く笑ったのだった。 



 2



 そんなボヤ騒ぎがあり、暫く警察や消防の人達に事情を説明し、近所の方たちにも今回の件を謝罪すると、周りからは呆れに似たため息が聞こえてきた。が、私が家の前で深々と頭を下げると「薫ちゃんに謝られたらなぁ」「仕方ないわよねぇ」「気をつけてよ本当に」と文句を言いつつ何とか納得してくれた。私が安心して家に戻り、玄関に放っておいた例の本を持ち二階の自分の部屋の机の引き出しへしまうと、また降りて行きそこで太陽に「近所の人達が皆いい人でよかったわ」と言うと、「姉ちゃんの人徳だと思うけどね」と訳の解らない事を言った。人徳も何も無いと思う。

 ちなみに父さんと母さんは家でいない振りである。何処までも子供な人達だが、それでも親は親。諦めるしかない。…こんな大人になりたくないと切に思う。

 私は何か弟にいう事があったはずなのだが、今朝のボヤ騒ぎですっかりと頭の中から消え去っていた。思い出そうとしても思い出せない。何だったか。どうでもいいようなそうでもないような、引っかかっているのに出てこない。不思議だ。

 そんなもやもやを私が抱いていると、太陽は私の腕を見て「あ、怪我してんじゃん姉ちゃん」と言って自分の鞄を持ってくるとそこから消毒液と絆創膏を取り出し、

「ちょっと染みるけど我慢しろよ」

 と言ってスプレーをかけ、その上から絆創膏を貼る。

「いつもこんなスプレーとか持ち歩いているの?」と訊くと、「いや、この前商店街で物凄い速度で走ってきた自転車が目の前でこけてさ。幸いにも膝擦りむいただけで済んだんだけど、ちょうど薬局の前だったから、急いで買ってきたんだよ。で、その子に手当してそのまま鞄に入れっぱなしだった。一週間くらい前かな。可愛い子だったけど、俺塾あったからすぐ帰ったんだよね。…惜しい事したかな」と言ってはにかむ。弟が異性にモテる理由はこういう所にあるんだろうな、と何となく思う。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 二人で笑う。

 それを見、太陽は「変わったね姉ちゃん」と呟き、私に微笑む。何が、と思ったら、太陽が「よく笑うようになった」と言いくすぐったそうに身をよじる。

 いつの間にか仲良くなったゲコの影響を受けているのか、最近さらに読書に熱が入っているようで、私としては大人びていくのが少しだけ寂しかったりする。それも成長なのだから、と納得し、以前とは比べものにならない程男らしくなった顔を見る。遠くに行く弟を、姉はただ見送るしか出来ない。

 弟は意外と恋愛関係には慎重で、恋人を連れて来たことは無い。しかし、このままでは時間の問題だろうと思う。姉から見ても魅力的な男―密かな自慢の種である―に、周りが放っておく訳が無い。その内、家族と一緒に紹介されてしまうのだろう。「彼女の○○さんです」とか言って。

 想像して寂しくなった。当然の時間の流れ、とは解っているものの。

 心の中だけでため息を吐く。

「そういえば学校行かないと」

 太陽が慌てたように言うのを訊き、私も「そうだった」、と言って自分の部屋に行き制服を着て鞄を持ち、まだ焦げ臭さ漂う玄関を開け外に出る。

 冷たくなった風が心地よく身体を通り過ぎて行く。つんと尖ったような冷たさが肌に触れ、それも何だか好ましく思える。

 鞄を担ぎ直し、ローファーのつま先を地面に叩きながら入れる。

 前を見、いつもと同じ景色に息を一杯に吸い込み、走り出す。

 弟曰く少し変わった私は軽快に学校へと向かうのだった。



 3



 授業を受けながら、最近の自分に付いて振り返ってみる。なるほど確かに変わったと言えば変わった気もする。それは周りへの対応の仕方だとか、自分が意識しなくても自然に表情が出てくるだとか、学校行事への取組み方だとか、些細ではあるのかもしれないが総量としてまとめてみると変わった範囲は広いのかもしれない、と先生の話をノートに書きながら思った。周りの事が良く見えるようになってきた感じがするし、前は敬遠されていた同性のクラスメートとも、ぎこちないながらも話せる様になった。話してみると意外と自分も同じような所がある事が解り、大いに安心する事が出来た。人は違う様でいて似たような事で悩むのだな、と思った。恋愛話はまだ辛い話題ではあったが、その度、あのゲコの言葉が蘇って来ては心を軽くする。面と向かっては絶対言えないだろうが私は彼に救われたのだろう。付き合っていく内に、だんだんと彼を考える時間が増えている事に驚いた。何考えてるんだか、相手は()()()()だぞ有りえない。と、自分で自分を笑ってみるがそれでも消えずに何かが残る。不思議なものだ、と自分で自分に呆れた。

 そうして私は今、普通―と言うのは普通の女子高生が何か、という事が解らなければ言えないのだが、まあクラスメートと日常会話をする、勉強に体育だがスポーツをする。話して多少親しくなった相手と一緒にお昼を食べる。そしてその時の自分の何気ない言葉に場が笑いに包まれるという不思議を体験するといった、極平凡な、しかし幸せと言っていい時間が私を包んでいた。

 それが今までの私にとって、どれほど貴重で大切なかけがえの無い物なのかは、私が一番よく知っている。それを手に入れる事がどれほど大変なのかも。

 ゲコは言った。

『人は水さ。入れる絵具を変えれば誰だって変わる。要は自分に、一体どの色の絵具を入れるのか、何を選ぶのか、という事なんだよ』

 と。

 つまり、私は今まで入れていた黒っぽい絵具から温かく、そして心落ち着けるような明るい色の絵具を入れ直した、という事なのだろうか。よく解らないが、だったらいいな、そうだとしたら幸運だったな、と、思う。私は今の幸せの絵具を手放したくない。心からそう思っている。

 今日も外は風が強く、窓ガラスを振動させ、もうすぐ冬が訪れる事を告げていた。

 日は新たに進み、時間は音も無く流れる。それがいい、それでいいと、ゲコは言う。

 私も今は、そう思えている。



 4



 ボヤ事件から一週間。

 いつものように学校へ登校し、いつものように授業を受ける日が続く。

 毎日が慌ただしくも充実し過ぎていく事に胸が一杯になるような温かさを感じながら、更に冷えて来た外を一人で歩く。私の息が白くなる事はまだ無いが、それも時間の問題だろう。

 登校して喧騒渦巻く教室に入り、数人の女生徒と挨拶を交わす。こんな事も自分にとってはこれまで考えられない程の変化だ。が、それを特に意識せず自分の机へと座る。こんな風にがやがやと声が飛び交うホームルーム前の時間が、私は結構好きだ。喋り声と笑い声をバックに目を少し閉じる。何者でも無い時間。まだ学校の生徒と呼べない空白の時間。それに身を浸していると何とも言えない不思議な気持ちになる。ふ、と息を吐き、こんな事を考えるから周りから変わっていると思われるのだ気をつけよう、と目を開けた。

 私の席は中央の列の最後尾、一番集中して授業を受けられる所ではないかと思う。私はその席が好きだったし、もし席替えの時交換してくれと相手に言われたら喜んで座るだろう。それ程この席は先生の顔や黒板への距離、また音なども気にならない好ポイントの席だった。

 そこにいて、もうすぐ朝のホームルームが始まる時間、私は一限目も授業のために教材を引っ張り出して机に並べた。勉強は得意ではないが嫌いでもない。むしろ好きな授業は積極的に聴く方だと思う。それは新しい知識が増えると言う純粋な喜びと、何かを考えるネタが増えるという二つの要素のせいだと思う。老年になってから大学に入り直す人の気持ちが、私にはなんとなく理解出来た。学ぶことは喜びなのだ、それは私達人間が本来持つ、とても素晴らしい能力ではないかと思う。

 そんな風な事を考えていると、ふと、私の方に、誰かが視線を向けている事に気付く。

 ちらりとその視線の正体を知るべく、首を、そのちりりとして熱を帯びた視線の出所を探ろうと回す。――いた。窓際の真ん中の席。そこに頬杖をつきながらじっと、何かを呪うように、酷い焦燥感も含んだ視線を送ってくる人物に、気付いた。

 彼女はその綺麗に染め上げた茶髪を揺らし、何度か頬杖をつき直しながらも、じっと私に送る視線を緩める事は無かった。

 子牛(こうし)()(ゆう)、だったと思う。私とはまた違ったタイプで目立っている人物の一人だった。

 彼女を表すのに不良、という言葉ほど適切な表現を私は知らない。

 堂々と学校で煙草を吸い停学になった事もあれば、万引きして捕まったという話も聞く。

 夜な夜な暴走族と一緒に街を走り回っているというのも噂で聞いたことがあった。私のような生徒はまず眼中にない、そもそも視界にきちんと像として浮かんでいるのかさえ怪しい。そんな関係のはずである。そもそも私に注目するような人で無いのだ、彼女は。

 首を傾げざるを得ないが、私と彼女に接点自体無いのだから、対処のしようが無い。なんだろう、私がいつの間にか彼女の逆鱗にでも触れてしまったのだろうか、こういう性格なので誤解は慣れているが、それでも怖い物は怖い。自らに非があれば尚更である。どこまでも小市民だなと、自分に突っ込みをいれる。

 彼女――子牛田優さんはその視線に気付いた私に気付いたのか、ふい、と視線を外に外す。

 空はどこまでも澄み渡り、風が外の木々をこれでもかと揺らす。その風によって舞った紅葉した落ち葉が飛び、その一枚が窓に張り付き、すぐに飛んで行く。私は彼女の後頭部を見つめる。どうしたと言うのだろうか。しかしそれが私に分かる訳が無く、仕方なく授業でやるところをもう一度確認する。数学だったのだが、殆ど頭に入ることなく、ただ数式が乱舞し取り留めもない思考は片隅に追いやられていく。

 ふと、また先程のような視線を感じ、私はゆっくりと不自然にならぬよう首を回す。彼女――子牛田優はまたじっと、私を見つめ続けていた。

 私は気付かない振りをし数学の教科書にまた視線を落とす。

 彼女は見続けている。じっと、何かを確かめるように。

 それが何なのか今すぐ教えてほしいと思っても、親しくも無いのにそれは無理な話である。

 チャイムが鳴り、担任の先生が入ってくる。

 わらわらと全員が机に戻り、いつもと同じように一日が始まる。

 子牛田さんはまだ私を見続けている。それに気付きながらも何も出来ない私がいる。

 子牛田さんはその内それを止め、私が見た時はノートを広げ何やら文を書いている。手元には難しそうなハードカバーが置かれてあり、失礼だが意外だな、と感じた。真剣な目で文字を走らせている彼女の顔はとても普段のだらけた感じでは無く引き締まり、難しい顔をしていた。

 私はまた前を向き、先生が「最近自転車の事故が増えて来ているから、帰宅、通学の時には充分に気をつけるように、以上ホームルーム終わりだ」と言いまた教室から出て行く。再び教室は人の声に埋もれて行く。また彼女に視線を送る。彼女も私に視線を送っていた。目が合う。再び彼女は先程の疑り深い眼を更に深くして私を見る。何も言えず、私もそのまま彼女を見た。不思議な沈黙。二人の間に渡された細い糸。それが私達を何かで結び付けている。そんな気がする。

 チャイムが鳴り、一限目が始まる。それまで私達二人は何も伝え合う事無く、じっと互いに見つめ合うのだった。



 5



 昼休み。

 私は今日、友人(と私が言っていいのか解らないが)達と一緒に食べる事になり、自分で作った(家のコンロは壊れていたので、ほぼ冷凍食品のオンパレードだった)お弁当を持ち、自分の席で彼女達が来るのを待っていた。

 ぼうっとした時間が流れ、そのままうとうとと寝てしまいそうになる。教室の中では既に気の早い温熱ストーブが静かに音を立て動いており、昼寝には正に最適な環境だった。

 そんな感じで少し目を閉じていたら、がたり、と音がし私の前に人が立っているのが見えた。来たのかな、と思いゆっくり瞼を上げると、そこにいたのは茶髪のショートの同級生、子牛田優さんだった。

 私は驚き、その顔をただぼうっと見つめる。化粧は少し濃いが、おそらく素でも充分可愛いだろうことはすぐに解った。その顔立ちはどことなく幼く、それを無理して大人に見せようとしている、自分以上を周りに見せようとしている、そんな感じの目をしていた。

 何を話せばいいのか解らず、その場で固まっていた私に、一緒にご飯を食べようと言ってくれた子達が遠巻きに見ていた。どうするべきなのか全く見当もつかず、ただ私は彼女が話し出すのを待っている。それを見ていたクラスメート達から一瞬、音が無くなる。悪い意味で目立ってきた私達二人が、向かい合って何やら怖い顔をしているのだから、それは気になるだろう。

 しかし自分に全く接点の無かった彼女がどうして私をこんなに焦った、動揺した風に睨んでくるのか解らない今、出来る事と言えば話しかけてみるくらいだった。

「あの、どうかしたのでしょうか……」

 おずおずと訊いてみると、彼女は我に返ったようにハッとして、今自分はここにいる、用があって机の前まで来ている、という事に気付いたかのように、私に向かって「話があんだけど」と早口で言った。周りが息を飲む音が聞こえてくる。動揺した私も(周りからは何の変化も無いように見えただろうけど)戸惑いながらも「はい」と返事をし、子牛田さんを見た。彼女は少し焦ったように「見たのか…?」とだけ言ってくる。え、何が? 見た? 何を言っているんだろうかこの人は。と疑問には思ったものの、「何をでしょうか」と取りあえず聞き返す。それしか出来ないと言うのが本音だったが。

 彼女は私のその顔をじっと、何かの真贋を確かめるかのように見つめた後、

「……嘘ついてる顔じゃねえな」

 とまた訳の解らない事を言う。

 そして、私の顔をまた強く見てから、「来い」と短くはっきりと言い、歩いて行く。

 呼び出されたのだ、という事に若干の時間を有したが、すぐに教室を出て行こうとする彼女の背を追いかける。

 何があったのだろう。何が起こるというのだろう。突然のことに半分パニックになりながら、私は早足で外へ出て行く彼女を急いで追いかけ、ローファーに履き替えるのだった。



 6



 定番と言えば定番だろうか。

 人気のない体育倉庫前。地面はじめじめし、湿っぽい空気が漂う。私は目の前にいる少女、子牛田さんと向かい合い、そして彼女が話すのを待っている。空に太陽がぼんやりと灯り、その上をビロードの膜のように雲が覆っている。寒さが身体を通り、何故女子はスカートなのだろうとふと考える。考えただけで別に結論など出ない。目に前にいる子牛田さんが私に何の用があるのか、今はそれが知りたいだけである。

「お前、確か名前は――」

「木村です。木村薫」

「そっか、アタシは子牛田、子牛田優だ。…なんか悪いな、同級生の名前も憶えてなくて、アタシあんまり学校興味ねえから」

 気まずそうに頭を掻きながらそう言う子牛田さん。イメージと違い、随分普通な感じだった。緊張していたが少し拍子抜けしてしまった。

 彼女はわしゃっと自分の茶色に染まった髪を掻き上げると、大きなため息をついて私と目を合わせた。そしてきまり悪そうに「いや、別に何かしろとか金持ってこいとか、そういう事じゃねえんだ、ただ一つ、お願いがあってな……」と言ってまたわしゃと髪を掻く。癖なのかもしれない。女性らしい仕草だな、と私は感じた。

 そんなどうでもいい事を考えていると、彼女はすっと真剣な顔を作って、しかしどこか恥ずかしそうに、照れくさそうに、言った。


「アタシと友達になってくんねえか?」


 間抜けな顔だったろうとしか自分では言えない。

 遠くで誰かがサッカーのボールを追い掛ける声が聞こえてくる。

 彼女の膝に擦りむいた跡があって、私は自分の怪我した所を無意識に見る。

 太陽。確かに私は変わったのかもしれない。友達になってくださいと、話したことも無い不良の子に言われたわ。

 世の中は不思議で満ちている。

 私は言葉を失い、ただ、彼女を見るのだった。



 7



 その日、何故か私は彼女と帰り道を一緒に歩いていた。 

 子牛田さんは自分の家とほど近い所に住んでいる事も解り、自然と話題も近所の事に移る。何が何やら解らない展開に自分は一杯一杯だったのだが、それと同じくらい一杯一杯な感じを彼女から受けたので、逆に途中で冷静さを取り戻した。他の人が慌てているのを見ると妙に自分が冷静になるが、あれは人に自分自身を投影して客観的に自分を見る気分になるからかもしれない。脳科学者ならこういう時もっともらしい理屈でも教えてくれるのだろうが、そんな必要も無いので別に構わない。

 ゆっくり歩いていると、子牛田さんが紅くなりながら「さっきはいきなり悪かったな。……意味解んねえよな。突然友達になってくれだなんてよ。……迷惑だったか?」と訊いてきた。私は驚き首をぶんぶん振る。決して迷惑では無い、驚きはしたが。

「むしろ私と友達になりたいだなんて言われて嬉しかったです。……あまりそう言う事に慣れていないので、どうしていいか解らないのですが…変に気を遣わなくても、大丈夫ですよ」

 そう言い最近自然に出来る様になった笑顔を作ると、子牛田さんは驚いた顔をして、直ぐに、「良い奴だな、お前」と笑い返してきた。

 その顔は、『歳相応』と言ってはおかしいが、何処にでもいる普通の十七歳のものだったので、私は何か得体のしれない生物を相手にしているような所が完全に消えた。彼女は子牛田優。私に出来た大事な友達だ、と思えた。

 そんな感じでだんだんと空気も解けてきたところで、商店街に入る。

 近くに住んでいるのに中学ではぎりぎりで校区が別れてしまった事を知ると、お互いにもっと早くに会っていれば、という話になった。互いにこういう関係に慣れていないせいかぎこちなくはあったものの、それも何だが愛しく思える。はは、と彼女が時折見せる笑い顔と八重歯が可愛いな、と自然と私も笑顔になった。

 しかしそうやって商店街を進んでいく内に、何だが子牛田さんは辺りをきょろきょろ見始め、しきりに周囲をに目を配る様になった。私が「どうかしたのですか?」と尋ねると、露骨に「えぅッ!? い、いや? なんっ何でもねーよ!?」と声を上ずらせ言う。違和感を覚えたが、気にしない事にした。本人が何でもないと言っているならその通りなのだろう。

 右側を見れば薬局が目に入る。そういえば何かを忘れているような気がするが、…なんだっただろうか、思い出せない。

「は、早く行こうぜ!!」

 と子牛田さんに急かされるので私も思考を中断し付いていく。

 少し行った所で雑貨屋があるので、ちょうど消しゴムが切れていた事を思い出す。

「すみません子牛田さん、私、消しゴムを切らしていまして、申し訳ないのですが少し寄ってもいいでしょうか?」と訊くと、ああ、と言って、「アタシも買いたいもんあるから別にいいぜ」と笑って了承してくれる。

 がーっと自動ドアを開けて中に入ると、右手奥に普通の消しゴムに混じって動物ものの消しゴムも置いてあった。そちらの方へ行き、少し悩んだものの普通の何処にでもある一般的な消しゴムを三つ取って、レジへと持っていく。会計を済ませ子牛田さんを探すと、反対側の絵葉書きコーナーに立ち、じっと吟味するように色とりどりのそれらを見ていた。私が、「子牛田さん」と声をかけるとびくっとして慌てて振り返り、「な、何だよもう選び終わったのかよ早えな」と息を整えた。

「絵葉書きがお好きなのですか?」

 と尋ねると、「ん? ああ、いや、アタシ手紙とか好きでさ、こういうもんの柄も自然によく見るんだ。……っていうか、書くことが好きなんだ。文章ってーのかな、アタシあんまり人と話したりすんの得意じゃねーから、昔から文字で気持ち伝える方が好きだったんだよ。……で、こういうのにも自然と、な……おかしいかな?」と少し不安気に訊いてきたので、「とても素敵だと思います。私には文才の欠片も無いので、羨ましいです」と言うと、少し戸惑うように髪を掻き混ぜ(やはり癖の様だ)、嬉しそうに笑う。「似てるな、やっぱ」と少し意味が解らない事も言ったが、気にしない。子牛田さんの意外な一面が見れて、私は満足だった。

 そんでよ、と商店街を抜けて別れる時、子牛田さんは私に、

「今度家まで行っても構わねえか、駄目か?」

 と窺う様に言ってきたので、おかしくなって笑った。

「私の家でよければ、いつでもどうぞ」

 安心したように、「そっか」と子牛田さんも笑う。

 そして携帯番号を交換し、手を振って別れた。

 少し行き、ちらと振り返り道を見る。

 子牛田さんは一歩も動かず、そこに立ち続けていた。



 8



 ゲコの家。私は常備してあるエプロンを着、頭に三角巾を付けると、言った。

「――と太陽は言っていました」

「――へーえ。相変わらず太陽君は男気あるねえ。うん、全く若者らしくないというか、普通自転車がこけたくらいで手助けなんてしないものだけどね、彼はそういう所が偉いね。うん偉い、それでこそ男だ、あ、これは女性蔑視の意味じゃないよ、解ってると思うけど」

 学校帰りにゲコの所に寄り、以前太陽が転んだ女性を介抱したという話をしたのである。

「先生の言う事を真に受けてたら私の身体が持ちません」

「そうかなぁ? 僕としては普通だと思ってるけど」

「まあそれはご自身がいいように解釈すればいいのではないですか? 誰も別に責めませんし」

「最近僕に対する風当たりが強い気がするけど何でなの? 僕何かした?」

 心配そうに訊いてくるゲコに、私は腰に両手を当て「言いたくもなります」と、息を吐き、この()()を見る。

「一体どうやったら、一日でここまで汚く出来るのですか」

 そう今この状況、この環境。

 ゲコの周りでは私がせっかく整理して並べていたのをまたバラバラに引っ張りだし、散らばせた本が山となって置かれている。そろそろ私の忍耐も限界に来ている。綺麗にした後に汚される事ほど腹立たしいことは無い。そういう事を平然とやってのける神経が私には信じられなかった。

「今日の夕食は無しにします」

「え!? な、何でだい!? それはあまりにも殺生だよ、断固拒否させてもらう!!」

「いつものようにご自身でお作りになればいいじゃありませんか。レパートリーがハンバーグだけなのだとしても、腹が膨れる事に比べれば些細な事です」

「さり気なく馬鹿にしてるね!? いいじゃないハンバーグ、いいじゃない! 最高の料理の一つだよ!? だけどね、人間たまには違うものも食べたくなるじゃない、だって人間だもの!!」

「頼ってばかりいると本当に自炊出来なくなりますよ。いいんですか、それでも」

「――よくない!! けど、君の料理が美味いんだから仕方無いだろう!? 僕だってどうせなら少しでも美味い物が食べたいんだよ、これ間違ってるかい!?」

 少し赤くなる。料理を褒められる、特にゲコに褒められるのは、何故かとても照れ臭いのだ。まあ、嬉しくはあるのだが。

 ごまかすついでに咳をし、「まあいいです」と躱した。この話題を続けていると、その内変な気分になりそうだった。

 私が畳の部屋の本をまとめている横で、ゲコが私の顔を見、そして目を細め、「何かあったのかい?」と訊いてくる。相変わらず変な所で鋭い。私は苦笑し、その片づけをしながら話す事にした。

「ええと、今日実は少し変わった事が起きまして」

「ほう?」

 ゲコは興味を覚えたらしくこちら側に顔を向け手で続きを促してきた。

 少し戸惑いながら今日起こった『友達になってください事件』について話す。

 ゲコは顔を輝かせてそれを聴いていると、しきりに頷き、ほう、ふむ、ほうほう、とお前は一体どこのカウンセラーだと言いたくなるような相槌をしつつ、楽しそうな顔をする。

「と、いう訳で私は話したことも、おそらく接点も無い人にいきなり友達になってくれと言われた、という訳です」

 と結ぶと、ゲコは真剣な顔で「そうか…じゃ、最近君に変わった事とかは無かったかい? 何でもいいからさ。……いや、この言い方は語弊があるな、詳しく言えば『気にも留めないけれど、何かいつもと違った事』は無かったかな? ほら、最近君の家で火事があったろう? その時のこととか、何か無かったかね?」と身を乗り出して訊いてくる。…全く、三面記事に思いを馳せるだけあってこういう少し不思議な事に目が無い男だ。ま、平和と言えばそれまでなのだが。

「――……そうですね……」

 ああ、そう言えば。「関係は無いかもしれませんが――」「――その言葉、ミステリーなら確実に伏線だよね、いいね、いいよ、面白いよ」と茶化した。話さんぞ、からかうなら。

「子牛田さんは絵葉書きが好きだそうです。何でも、文章を書くのが趣味だとか……羨ましい事です。……あと、そうですね、ああ、そうだ、以前、先生がウチの弟に貸した本がたまたまゴミ捨て場にありまして。状態が良かったのでそれを拾って持ってきました。……何か関係がありますか?」

 と言ってゲコを見ると、ゲコはやたらと楽しそうに笑い、

「それってあれかい? 僕の持ってた赤い本かい? 太陽君に貸してある?」

 そうです、と私が虚空を見ながら今日の夕飯は何を作っていこう、と既にこの話題に興味が無くなっていた時、ゲコがはははは! といきなり笑ったので驚いて彼を見た。

 おかしいおかしい、と言わんばかりに笑うゲコをぼうっと見ていた私は、おずおずと、

「何がおかしいのですか、先生?」

 と訊くと、

「いやあ、ははは、これはいいと思ってね」とやたらと頷き、また笑う。

 何が何やら解らないので呆れ、

「どういうことなのですか先生、解ったら教えて下さい、私の問題なんですから」

 と膨れると、いやあ、ははは、とゲコは口元に溜まった唾を袖で拭い、


「青春だなぁと、思ってね」


 とまた意味不明な事を言う。

「その本は今何処にあるんだい?」とゲコが訊くので「私の部屋です」と言うと、直ぐ神妙な顔を作り「スティー君」と私に呼びかける。

「なんでしょう先生?」と訊き返すと、


「――彼女が遊びに来たとき、彼女を少し部屋に一人きりにさせなさい」


 意味が解らず、「どうしてですか?」と問い返すと、少し唇に笑みを浮かべつつ、


「きちんと自分で、言いたいだろうからね」


 とまた意味が解らない事を呟く。

 これだから遠回しが好きな男は困る、と私はため息を吐き台所へ向かう。

 掃除は後回しにし、夕食でも作ってしまおう。

 ゲコの嫌いなブロッコリーでも入れるか、と私はスーパーの袋を開きながら思ったのだった。



 9



 次の日、私が自室で本を読んでいると、珍しい事に机に乗っている携帯がぶるぶる震えた。

 本に栞を挟もうと思ったのだが近くに無かったので、適当にその辺にあった雑誌の端を破り差し込む。幸いメールのようでそこまで焦る心配は無かった。私が表示を見ると、そこには昨日番号を交換したばかりの子牛田さんからだった。私が不思議に思い文を読むと、彼女らしくない、といっては失礼なのだろうが、読む人を考えているというか、適度に段落分けされていて非常に読みやすく解りやすい文面だった。やはり才があるのではないか、と思う。

 その文章に今日の昼、そちらに行ってもいいか、という事が書かれていた。私は急だな、と少し思ったが、自宅に友人を招く、というのが久しぶりなので、少し整理してからがいいなと思い『少し部屋を掃除するので一時ごろでもよろしいですか』と書いて送信する。すぐに返信が来て、『了解』と絵文字付きで書かれていた。

 少し伸びをし、掃除にとりかかる。

 私は掃除と整理が好きなので(ゲコと一緒にしてほしくない)、あまり片付ける必要はないが、それでも床を拭いたりはした方がいいだろう。階段を降り、洗面所で雑巾に水を含ませ絞る。ちょうどそこに太陽がいて、「じゃ、俺は塾行ってくるから。昼飯はいらないって母さんに行っといて」早口で言い、そのまま玄関へと行ってしまう。私は合格を少しの間祈ったが、すぐに雑巾に思考を移し、二階へと戻る。

 そういえば昨日、子牛田さんから今日家にいるのは自分一人なのかと訊かれた事を思い出した。何故そんな事を訊くのだろうと訊き返してみたのだが、恥ずかしそうに「いや、なんかダチの家にいるの見られるの恥ずかしくてよ」と言って俯く。

 それが何かを誤魔化しているように感じたのは、私の気のせいだったろうか。

 こんな時、ゲコならすぐ解決策を弾き出すだろうが残念ながらそんな能力は有していない。

 そう思いつつ自室の掃除を開始する。ぬいぐるみが多いこの部屋を見せるのは少しだけ抵抗があったが、子牛田さんはそんなことで笑う人には思えなかったので彼らの体も丁寧に拭き、戻す。

 床は最後にさっと拭き、腰に手を当て「よし」と誰にも聞かれる事のない呟きを発して悦に浸る。自慢では無いが確実に私の掃除能力は上がっている。だてに毎日ゲコの部屋を苦々しく思いながら掃除している訳では無い。

 最後に窓を軽く拭いて完了。多少黒くなった雑巾を持ちながら、ゲコに言われた事を思い出していた。


 ――彼女を一人にさせなさい――


 どんな意味があるのか、私には皆目見当がつかないが、まあ彼の事だ、何か意味が―少なくとも子牛田さんには――あるのだろう。

 特に深く考える事も無く、私はそのまま雑巾を絞り直しに階段を降りる。

 ちらと、私はゲコに、いつの間にかそうやって深く考えもせず従っている事に気付き、足を止める。それは、なにか自分の中の大事な部分を彼に預けているような、そんな信頼に基づいているのではないか、そんな事を思う。馬鹿馬鹿しい、ゲコにそんなことする訳無い、と熱くなった頬を無意識に冷えた手で押さえる。馬鹿馬鹿しい。全く馬鹿馬鹿しい。ある訳ないじゃないか、と突然の動揺に、気付く者が誰もいないという事に、とりあえず感謝する。

 週末の天気は風が強く、そして寒い。本を拾った朝の様だ。

 子牛田さんに温かい紅茶でも用意しておこう。そう思い一階の台所を目指す。

 彼女を一人にさせるのにもいいだろうし。何の銘柄にしようか、降りながら考えたのだった。



 10



「おじゃましまーす……」

 玄関先で、まるで借りてきた猫のように大人しくしている子牛田さん。きょろきょろ視線は忙しなく、まるで何か観察しているかのようだった。靴をきちんと揃え、背中を少し丸め上がってくる。その良く動く視線を一区切りさせると、私の方を見、

「今日は誰も家にいないんだよな……?」

 とこちらまで不安になってしまうような焦りの表情を浮かべ訊いてくる。誰かがいると駄目なのだろうか、それを訊こうとも思ったが、彼女の核心に近い物を不用意に傷つけてしまうのではないかという考えが一瞬浮かび、止める。今日は色々話せたらいい。そう思い自分の部屋に迎えるため、二階へと誘う。言われるままに付いてくる子牛田さんを背中に感じつつ、私は自分の部屋のドアを開ける。その時、彼女はじっと、すぐ隣の弟の部屋のドアを凝視した。私は少し不思議に思ったが、すぐ子牛田さんがこちらに向かってきたので、気を取り直し中に入る。

 彼女はゆっくりと、かなり緊張しながら部屋に踏み入り、そしてぐるりと部屋を見渡す。「なんか、イメージ通りの所と、全くそれに逆らってる所が混在してる部屋だな」と感慨深いのか、それとも呆れの感情なのか、ほお、とため息をついた。

 私の部屋は殺風景と少女趣味が一体になっている、と弟に時々からかわれる。

 金属で出来たラックに綺麗に整理され並ぶ本やCD類のせいかもしれないし、机の上はゴミ一つなく磨かれ、教科書類が科目別に丁寧に置かれている。かと思えばベットの脇にこっそり買って来ていたぬいぐるみが散乱しており、かけてあるポスターも皆ディズニーキャラクターやクマのプーさんで、目覚まし時計も黄色のキャラクターものを使っている。

 並んでいる本も皆恋愛小説だったり少女マンガで、まあ子牛田さんが語った感想は妥当だと私も思う。


 彼女は少し大きめのバックを部屋の床に下ろすと、そのまま辺りをきょろきょろ見渡し、じっと何かを見るように、真剣な顔を作り箪笥や引出し、ラックやベッドへと視線を飛ばす。私はその態度を疑問に感じたが、まあ私も似たような感じでそわそわしているので、お互い様かもしれない、と思考を払う。

「殺風景でも無いし、ごてごてしてる訳でもない。良い部屋だな」

 と子牛田さんは褒めた。赤くなる。どうも私は照れると顔が紅くなるらしい。

 そういえば両親に一時期「りんご」とあだ名されていたから、一生治らないんだろうな、という気がする。

 座布団をベッドの前に二つ置くと、そこに座り、色々な話をする。

 子牛田さんはいつもと違い気さくで話し上手。私はそれに相槌を打ち笑う。笑えるようになったのもゲコのおかげかな、と頭にちらりと浮かぶが、恥ずかしくすぐ振り払う。その間も子牛田さんはやけに早口で喋り続け、何か焦っているようにも見えた。それが何故なのかは解らないが、ゲコが言う通り、何かあるのかもしれない。

 そしてふいに訪れた静寂に、私たち二人は少しの気まずさを覚え俯く。

 子牛田さんは、「喉が乾いちまった」とこちらを見て笑う。突然のその言葉に一瞬躊躇したが、私はゲコの言葉を思い出し、「紅茶を淹れてきます。少し時間がかかるかもしれませんので、私の漫画でも何でも読んでいて下さい」と笑ってドアを開け、そのまま階段を降り、台所で準備した。十分くらいでいいかな、と思い、タイマーをセットし、紅茶の用意をする。お湯を沸かし、十分たったらすぐに出来る様にした。お茶菓子も皿に開け、チョコレートとポテトチップスとかりんとうがあったので綺麗に盛る。

 一階にある本を適当に取り出し、読み始める。見ると後五分くらいである。

 ゲコの言葉通りにするのが癪じゃなかったと言えば嘘になる。あの、何でも見通すような瞳はムカムカさせられる。そしてそれが嫌悪とは真逆の感情であることが、私を更に戸惑わせる。何なんだろう一体これは。

 見ると、あと二分。そろそろ準備をしようと沸騰したお湯をティーバックに淹れ、琥珀色をした液体が出てくるのを見た。

 何があるのだろう、彼女に。

 答えは出ないまま、私は誰もいない台所で一人小さく呟くのだった。



 11



 部屋に戻ると、そこにはやけに晴れ晴れとした顔の子牛田さんがいた。何かを成し遂げたような表情であり、それは彼女の顔を一層魅力的に映していたが、それがどのような理由から来ているのかは解らない。しかし、彼女が一人きりの時に何かがあったのだという事は間違いなさそうだった。

 その事を訊くのは躊躇われたし、言う必要も無いだろう。私は盆に乗せたお茶菓子と紅茶を持ってきてそれを床に置く。何やらそわそわしている彼女が、私の方に少しも視線を送ることなく来た時のように彷徨わせ始める。それは何か私に対する罪悪感のようなものである気がしたのが、ますます不思議だった。

「悪い、アタシ帰るわ」

 急にそんな事を言うので、当然のごとく私は驚き彼女を見る。子牛田さんは何やら難しい顔をし、何かから逃げ出す様に、

「急に知り合いからメールが来てよ、行かなくちゃならなくなったんだ」

 と私でも解るような嘘をつき立ち上がる。

 突然のことにびっくりしたものの、何か理由があるのだろうな、という気がし、私は、

「気をつけて帰って下さいね」

 と無理に笑った。笑えるようになったのは有難い、と心から思う。

 その言葉に少し私を見つめた子牛田さんは、「最低だな、アタシ……」と呟き、泣きそうに見える程くしゃりと顔を歪める。そして何を思ったか床にある紅茶を手に取り、ぐいっと飲み干した。まだかなり熱いのにそんな事したら――と思うと同時、げほげほッとむせた子牛田さんはそれでも笑顔を作って言った。

「美味かった、サンキュ……ごめんな」

 そしてドアから出ようとしている彼女を見つめ、私はそのまま座っていた。呆然としながら。出て行く時、彼女はこちらを見ず、言った。


「友達になってくれて、ありがとう」


 そのままゆっくりドアが閉められる。

 私は何か狐につままれたかのようにその閉められた扉をじっと見る。

 携帯電話を取り出し、かける。

 何度かコール音が響き、出た。

 そのぼんやりとした声に腹立ちながらも、私はいつもと同じく平坦な口調で、詰問するように尋ねる。

「一体どういうことなのですか、先生」

 受話器の向こうで、声がした。一言、


「馬に蹴られなくて良かったねえ」


 今すぐ行って殴りたい。

 意味不明な事を喋る口を黙らせるため、私は思いきり息を吸い込んだのだった。



 12



「電話で思いっきり高音で叫ぶなんて、悪魔じゃないかと僕は思うよ」

「いいから大人しく説明なさい。全部解ってるんでしょう、この蛙が」

「君が内心僕をどう思ってるか、今のでよく解ったよ」

 ため息を電話越しでしたらしく、少し間があった。続ける。

「君が持っていった本があるだろう? ゴミ捨て場からさ」

 はいと返す。

「そして太陽君が商店街で女性を介抱した、偉いね」

 ええ、とまた返す。

「そして持ってきたその本を君は読まなかった」

 忘れてました、と返す。

「すると突然、話したことも接点も無いクラスメートが君の友達になりたがった」

 そうです、と返した。何だか探偵の助手のようだな、とどうでもいいことを思った。何の役にも立てず、主人公が推理している所で相槌を打つだけの、駄目な助手を。

「また彼女は絵手紙が好きだ。そうだね」

 ええと返す。

「ちなみに君は、本を読んで手元に栞が無い時は、どうする?」

 いきなり尋ねられたので戸惑ったが、

「何か適当なもので代用します。何でもいいのでとりあえず挟んでおきます」

「そう、そうだね、僕もよくやる」

 こほん、と咳をする音が聞こえた。続ける。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 解りません。と言いたかったが、黙って続きを待つ。どういう事か一秒でも早く知りたかった。……何だって?


「おそらく、太陽君が介抱したというのはその子牛田君なんだろう。その時、たまたま会った彼女は、太陽君に恋心でも芽生えたんじゃないかな? その時持っていた僕の貸した赤い本、それをおそらく偶然に見たんだろうね、直ぐに太陽君は去ったというから、彼の事を調べたんだろう。そしてその時持っていた本を買って読んでみた。そして、その本に、彼女が描いた太陽君の恋心をつづった絵手紙でも(しおり)がわりに差しておいたんだろうさ。だが、ここで彼女にとって予想しなかった事が起きた。その本を紙の日にゴミとして出されてしまったんだよ。そしてそれに気付いた彼女は急いで取りに行ったがちょうど君がそれを持って行ってしまった。最悪な事に、自分の好いている男の子の姉にね」

 あの時遠くで誰かが走り去っていくのを見たが、あれは子牛田さんだったのか。

「そして、気が気でない――自分の書いた恋心が挟まれた本をよりによって姉が持っている。それを、もしかしたら太陽君はもう読んでいるかもしれない、もちろんそう考えるだろうね、だから彼女は君に近づいた。そしてまだ彼に読まれていない事、君にも知られていない事を知った。チャンスだ、と思ったろうね、彼女にしてみれば」

 私は、机の引き出しに向かい、開けてみる。わずかだが、入っていた本が動いたような跡があった。携帯を耳に当てたまま、それを全部ぱらぱらとめくってみる。何も入っていない。当たり前だ、()()()()()()()()()()()()()

「彼女は今いないんだろう? 目的は果たしたからね、でもきっと、君の事は本当に友達だと思ってるんじゃないかと、僕は思うけどね」

 利用された、と私が怒るより落ち込んでいると、ゲコは優しい声で言った。「だってそうだろう?」

 何が、と尋ねる前に彼は言う。


「友達だと思ってなけりゃ謝ったりしないさ。……違うかい?」


 私の携帯を持つ手に力が戻る。

 ゲコは笑っているらしく、そのまま楽しそうに「だからね」と言って、明るい声で続ける。


「それとなく、太陽君に子牛田君の事を褒めておくんだ、そうさりげなく、ね。そうすれば太陽君もその気になるかもしれない、他ならぬ、君が言うんだから」


 意味が少し解らない。

 どうして私が言うと弟がその気になるのだろう、謎である。

 そう思い尋ねると、今度はこらえきれない、というふうに大きな声で笑い声が聞こえてきた。暫くして、彼はこう言った。

「内緒にしてくれるかい?」

 からかうような声でゲコが笑う。何です、と聞き返すと、


「タイプは姉みたいな人、なんだってさ」


 頭にハテナマークが乱舞した。その後意味が解り、また顔が紅くなる。え、え、ええ?

「シスコンだとは思わないけどね。君を知ってるからさ僕も」

 ただ頭が湯沸かし器のように沸騰し、声が出ない。そんな私に、ゲコは軽い口調で言った。

「キューピッドは大変だよ?」

 呆然としている私に、言った。


「頑張ってね」


 そこで電話が切れた。

 私はただ立ち、顔に手をやる。まだ熱い。

 弟が帰ってきたら、とりあえずしなくてはならない事が出来た。

 子牛田さんを、好意的に紹介する。

 今の私にはそれが出来る、出来るはずだと確信している。嘘ではない事を言うことなのだから容易い。私が今紅くなっているのはそこでは無い。

 本人も気付いていないようだから、何も言わなかったが、あれは、つまりあれは――


()()()()()()()()()()()


 深く考えすぎなのは、解っている。それでもその言葉が離れない。その意味は、その意味とは――

 ふらつく足で屈みこみ、すっかり温くなった紅茶を飲む。

 苦い、と思った。







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