第二話 夏
1
「姉ちゃんは誤解されやすい人間だけど、誤解されない人間よりましだと思うよ」
と弟が言った。私が、
「人間という動物は、普通誰かにきちんと理解してもらうのが幸せなんじゃないの?」
と、訊き返すと、
「善人と悪人がいたとする。そのどちらも正しく、そのどちらも間違っている時がある。本当に正しい事なんて後々、ずっと後になってから解るんだ。人は多かれ少なかれ誤解されるものだし、どちらが正しいなんて容易には決められない。だから自分で自分であろうとする人は必ず誤解されるし間違われる。だから人として何も誤解や偏見を持たれないっていうのは、その人がその人らしく生きていない証拠なんじゃないかと思うよ。ゲーテは言った。『その人の癖が無くなってしまったら、私は大いに悲しむ事だろう』ってね。時に誤解すらされない人間が常識を振りかざして誰かを糾弾するけど、そう単純な事に走ってしまうこと自体、その人の何かが欠けている証拠だと思うね。俺はその『普通』の人から見えにくくて誤解されやすい所に、その人の人としての大事な資質が隠れているんだと思うよ」
難しくてよく解らないが、慰められている事だけは解った。
外では蝉が喧しく泣き叫び、私たちのいる居間までその声を届かせた。私はその音を聴きながら、即席で作った冷やし中華を弟と一緒に食べている。
母も父も不在な朝。
私と弟は向かい合い、いつものように弟と世間話なのか講義なのか解らない話をする。冷やし中華は作るのが楽だし得意だ。あまり麺を掻き混ぜてぐちゃぐちゃにするのが好きでは無いので、綺麗に盛られた色とりどりの卵やキュウリやアラスカを丁寧に分け食べる。弟はすぐに混ぜ合わせそれは本当に冷やし中華? と呼びたくなるようなものを、美味しそうに頬張っていた。
「誤解されるのは慣れてるけど」
と癖の抑揚のない喋り方をすると、「そう言えるだけ、姉ちゃんは強いんだって」と言い弟は笑う。兄弟でここまで性格が違うのは、一体どういう事なのだろうか。性別の問題ではない。これは遺伝子に関する、もっと素朴な疑問である。
「これ食べ終わったらバイトに行くから」
「例の面白オジサンんとこ? 毎日飽きずよく行くねえ。感心するよホント」
「仕事だから」
私はそう言い冷やし中華を頬張り、時計を見る。
彼と初めて会ってから三ヶ月。七月の空には雲が数筋かかっていて、あれは飛行機の跡だ、とどうでもいい感想を持った。
初夏の今、湿度の高い空気において、あの学習塾は今日も変わらず子供たちに勉強を教えているのだろう。目線を空から外し、夏休み前の浮かれた気分を引きずりながら食器を手早く洗う。
「俺も一回会ってみたいもんだよ。先生には」
なんとなくなのだが、彼とゲコは気が合うんじゃないか、と私は思った。波長が合いそう、というのか。
「夕食までには戻るから」
「ゆっくりしてきなー、渋いおじ様は嫌いじゃないんでしょ?」
私は大きくため息をつき、準備しようと着けっぱなしのエプロンを脱ぐ。
「あんな奴、忘れなよ」
こちらを見ず、弟はそう言い冷やし中華を食べる。
今でもしこりとして残っているそれを聴き、少し立ち止まる。すぐに歩き出す。
――「それでも忘れられないのよ」――
言葉に出さず、靴を履ぎ玄関を出て、汚れてもいい恰好で外に出るのだった。
2
昔から、何を考えているのか解らない子供だ、と言われてきた。
直そうと努力したものの、いざ人と話をしようとすると平板な口調になり、無表情。滅多な事では泣かないし、怒りもしない。
そんな生徒を担任は自身の教育力の見せ所とばかりに積極的に話しかけ、行事に参加させ、あろうことか劇の重要な役までやらせようとした。これはいじめではないのか、と本気で悩んだものだった。そんな私のような獲物を前にしてクラスメートが何もしないはずが無かった。いつもどつかれ、叩かれ、蹴られた。ノートも破られたし、教科書も捨てられた。内心怒りの炎が上がっていたことは言うまでも無い。しかし、私はそれでも、上手く笑ったり、怒ったりといった表現が苦手だった。
その頃から、私は相手に自分を表現することを諦めた。
自分を知ってもらおうと思わなくなり、どんなことをされてもただ何も無かったように過ごした。
そんな私に次第に同級生も飽き始め、いじめとも呼べない様な暴力は終わった。未だにその頃の事を思い出すと苦しくなるが、過ぎた事を今更何だかんだ言っても始まらない。私にはただ、そういう事実があった、というだけだ。
中学になると私は誰とも喋らず、誰とも交わらず、ただ毎日を学校と家との往復に費やした。時々本を買い、読み、買った。読書は私にとって唯一の逃げ場であり、楽園だった。
その頃、周りで思春期というものが飛び交っており、クラスの中でも何人か異性と付き合い始めるものが出た。私は両親と弟との連絡のために使いもしない携帯を買ったが、幾人かの同級生が私のアドレスを異常に訊きたがった。男子ばかりだったが、その顔がやたらとギラついているので怖くて教えなかった。その内その人数は増え始め、怖くなった私は更に教えるのを躊躇う。
同性の同級生の見る目も次第に変わっていき、私は過去の思い出が呼び覚まされる恐怖を味わった。あの時流れ始めた空気と同じ物が漂い始めたのだ。
空気になる事を望んだ。
そしてそれは幸福にも絶望にも似た形を取り、実現されたのだった。
3
高校は近くの偏差値が高くも低くも無いどこにでもあるような学校に進学した。
私はまたそこで空気になれるよう努力する。
事実、それは途中まで上手くいっていた。私は何も考えず、何も動じず、何も行動しない、生きた幽霊になる事が出来た。それは一つの快楽にも似ていて、心地いいと感じる程に私の中で日常と化していた。それは確かに私と地続きの世界であり、現実だった。
そんな毎日を過ごしている時、転機が訪れる。
一年生で迎えた寒さが日に日に増す十二月。
幸いにも雪はまだ降ってはいなかったが、予報では今週末には初雪が来ることを告げている。予報なので、どこまで信じていいか解らないが。
いつもと同じ道同じ時間。私は特に急ぎもせず、遅れもせず、ただ一歩一歩歩く。吐く息が白く濁る。
右左右左右左。何も考えず何も思わずただ交互に足を出す。
母親がいないので、私と弟の夕食を作らねばならない。ぼんやりとその事は考えてはいたかもしれない。しかしそれは献立という形を作る事も無くすぐに消えていく。脳が何も考えないと消化不良になるのでそういったものが浮かぶのだ。そう思う。
いきなり声をかけられる。いきなりすぎて、私はそれが本当に声かどうかも解らず、ただ声の発生源に顔を向けた。そして私に彼が、映った。
「こんにちはー」
そのまま通り過ぎた。
声をかけられる事には慣れていた。対処に慣れる事は無かったが。
そんな私に男は慌てたように走り来て、「あれれ、気付かなかった? おーい、君だよ君、ねー聞こえてるー?」と隣に追いつく。
私は苦手な会話をしなければいけない事に、表情を作らねばならない事に内心不満を爆発させながら、それでもおそらく顔に出なかったのだろう。動揺する事も無く、気軽に彼は私に話しかけてきた。
「こんにちはー、どもどもー。いいねー、君、可愛いって言われない? 特に俺みたいな軽い男に」
少し可笑しかった。
自身を軽いと言ってのける人間は珍しかったし、それを隠そうともしない事に好感のようなものを持ったのかもしれない。薄く笑った、のだろうか、私は少し歩く速度を落とした。その顔を見、
「……――いいねぇ、いや、本当にいいね、いや本当に可愛いよマジで」
一瞬虚を突かれたような顔をしたその男は、何やら意味深とも取れるような笑みを顔に浮かべると、私に再度語りかける。
「今暇? 偶然出会った可愛いクール・ビューティー」
また笑う。そんな冗談のような言葉をよく吐けるものだ。
立ち止まり彼を見る。吐く息がゆら、と陽炎のように上がった。
その人は私の通う高校、流丘高校――生徒はリュウガクと呼んでいる――の制服では無く、おそらく隣町の進学校である学生服、空色のブレザーを着ていた。
顔立ちは女性のように柔らかで、目鼻立ちがはっきりとし、瞳が大きく、髪は流れるように細い。だがその中にも体つきは細見ながらしなやかな筋肉が覆っているのが解ったし、何処かの芸能事務所に所属してますと言われても特に驚きはしなかっただろう。女性ならば誰もが好感を持つ整った容姿をしていた。
制服も特に乱れた所が無い。言葉づかいも荒れているようには感じなかった。それが全体の雰囲気と軽めの口調のアンバランスさで妙に人の、特に女性の反応を引き出した。いや、それは『私にとっては』という事なので、『女性』とまとめていいかは解らない。
家族以外―特に同年代と私は、誰と話しても敬語がズレたような話し方が直らなかった。子どもはまだ大丈夫なのだが、年上はもちろん、近い歳でも駄目だった。心理学で言うならば(といっても私は専門的な事は全く解らないが)それは小学校や中学校での心的外傷というものかもしれない。誰かに心を開くという事自体、私にとって難しい事は無かった。誰のせいでも無く、私自身の問題である、誰にも渡すことは出来ない、私が解決するしかない類の問題だった。
「歩いていること以外、今私にすることはありません」
きょとん、というのが一番解りやすい擬音であると、その時彼を見て思った。少し俯き、数秒あったかと思うと、大きく笑い出す。
同時に私も何が起きたのか解らずきょとんとする。何故笑われているのだろう。よく理由が解らずその場に立ちつくす。
彼は顔を上げ、真っ直ぐ私を見て言った。
「本当に欲しくなってきた」
意味が解らず、その言葉通り私は首を傾げるのだった。
4
彼は帰り道にある公園に私を誘った。
特に断る理由も見出せなかったので素直にそのまま付いて行く。今考えると、その時既に私は彼に心を許していたのかもしれない。その事を後日弟に告げたら、目を剥いて驚かれた。それ程私にとっては珍しい事だったのだろう。愚かにもそれに気付いたのはずっと後の事だったが。
二人並びベンチに座る。
自分の名前を娯楽恭平と彼は名乗った。私が珍しい名字ですねと返すとよく言われると無邪気に笑う。それから私たちは話し始める。といっても彼の方が一方的に喋り、私はそれに相づちを打つという一方方向のものではあったが。(これは私の会話スキルの低さに由来するので彼のせいでは無い)
私はそんな会話とも言えない様なものを続ける中で、心の奥の方、今まで眠っていた何かがゆっくりと起き上がってくるのを漠然と感じた。
それはおそらく他人との交わりの楽しさであり、誰かと話題を共有する喜びだったのだろう。自分自身その事に大いに戸惑うが、それでもその高揚感は消えずずっとふわっと胸の中を暖めた。らしくない、いやらしさというものが解っていない自分にそんな事を言う権利は無いと、どこかで冷静にそう思ってもいたが。
彼の突然のナンパ(?)に驚いた私だったが、話し方も上手で話題も豊富、上手く笑えない、会話がぎこちない私にも丁寧に話題を振ってくれたし、私が今の女子高生とかけ離れた存在である事に気付くとそこには触れないようにしてくれた。細やかな配慮が出来る人だと思った。
何故突然私などに話しかけてきたのか謎だったし(可愛かったからと言われた時は柄にもなく紅くなった)、腑に落ちない所もあった。
道を歩いていて声をかけられるというのは大きな街では時々あることだが、こんな普通の住宅街の中でそれが行われるというのは少し意外だった。つまり待ち構えているように感じたし、時々彼の瞳が強く細められるのにも違和感を覚えた。
しかしそういう所を除けばとても楽しい時間だったし、私も少しではあるが無意識に微笑んでいる事が多かった。その度に彼は嬉しそうに声を大きくし話す。私も楽しくなりまた笑う。そんな普通の女子高生のような似合わない喜びに浸っていると、辺りは暗くなり始め、次第に厚い雲が覆って行った。
私は彼に「すみませんがもう行かねなりません。とても楽しかったです。どうもありがとう」と平板な声で言うと、ベンチから立ち上がり、そのまま出口へ向かう。内心、名残惜しくなかったかと言えば嘘になる。このまま楽しい時間を過ごしていたい、そう思っている自分がいた。
その事に気付いた途端、何故かその場に蹲りたい程の感情の波が襲い、私を一気に押し流す。私は強い感情というものに慣れていない。それは私の中の防衛反応の一つであったのだろうし、心の負荷の予防でもあった。
しかし当然そんなことはせず淡々と(端から見れば)歩いて行き、出口へと向かう。後ろは振り返らない。それをしてしまったら、私では無くなる。そんな恐怖に似た何かがあった。
「忘れてる事があるよー? 木村さーん」
後ろでそう言ってから、小走りに正面に回り込み、彼は黒い携帯を取り出し、笑う。
「アドレス交換してないよ、まだ」
その態度が少し強引というか、逃がさないとでも言うように迫力のあるものだったので一瞬躊躇したが、気付けば――そう本当に気付けば――自分の薄ピンクの携帯を取り出していた。
自分のその行動に自分で驚いていると、彼はそんな私の内面など知る由も無く、「やった、教えてくれんの!?」と無邪気に喜び携帯を操作し、赤外線を使った。慌てながら私も操作すると、そのデータが私の方へと流れて来る。まるで私の中に彼が入り込んでくるような、そんな錯覚を覚えた。
照れ臭いような、恥ずかしいような、そして何だか嬉しいような、形容しがたい気持ちでその番号と彼の名前とを見比べる。
彼の方にも番号とアドレスが行ったらしく、ぽつりと言った。
「――一休さん好きなんだ……」
「彼ほどの天才は二度と現れません」
また笑った彼は私に何か妖艶な笑みを浮かべ、こう言った。
「また連絡するね」
私はその携帯を胸に押し付け、そしてつっかえそうになる口を懸命に押し出し、言う。
「携帯の使い方はよく解らないので、返信が遅れるかもしれません」
――ふはっ、と彼は再び息を漏らし、
「遠回しに断ってるんじゃないのが逆に凄いな」
言っている意味が解らず、「はあ」と生返事を返す。
外は寒く、息も冷え、けぶりながら真白く空へと消えて行く。
それから私たちは付き合うようになった。
変わらない日常が変化していく中で私は思い出す。彼の言葉と、笑顔と、ぬくもりを。
そして、裏切りを。
5
私の所に彼からのメールがこまめに送られるようになった。
最初は戸惑ったものの、慣れてくるとこれほどメールというのは楽しいものなのか、これほどまで相手の返信を焦がれるものなのかと思い、おかしくなる。
何の変哲もない、ただの日常の呟きにもならない言葉の断片を私たちは交わす。
心躍らせ、胸高鳴らせ、私は彼からのメールを待つ。それを見られた弟から「どんな奴なの?」と前置きも何も無く訊かれたので、驚き「にゃにが」と噛んでしまったほどだった。弟は鋭い。私などよりよっぽど人間というものを知っている。実は私と彼は産まれてくる順番を神様が間違えたのではないかと思える程、私にとって賢い人間だった。
「姉ちゃんがそんな嬉しそうな顔してるの初めて見たかも」
そういう弟の声もどことなく弾んでいる。彼は優しい。それは私にとっても救いであったし、彼自身にとっても救いだろう。
メールが届く。それを見る。私を見る弟が笑う。それに気付き私が赤くなる。娯楽さんの文面が光る。
単純な文章が単純な私を慰める。
彼からのメールが楽しみになり、私の風景は変わった。色が付いたとでも言うのだろうか、視界がはっきり見え、学校に行ってもそれまであまり解らなかった人間関係の機微みたいなものが何となく解る様になった。私は活字の世界ではない世界に、徐々に慣れていったのかもしれない。
彼は、少しずつ私を変えていくようだった。
メールが頻繁に交われる合間合間に私たちは約束し場所を決め会った。
大抵近くの街の駅前だったが、その後食事をしたりゲームセンターに行ったりカラオケしたり、非常に疲れるがそれはとても楽しいものだった。
彼が笑って私にくれたぬいぐるみ。彼が歌う姿。そのどれもが新鮮で珍しく、私の世界は確実に変わった。
キスは頻繁にした。
しかしセックスまでは不安で、「もう少ししてから」という言い訳が常套句になっている自分がいた。嫌なのではない。自分がちゃんと感じられるか、相手に気持ちよくなってもらえるか、そして何より私は自分自身が相手に認めてもらえるかが、非常に不安だったのだ。
彼は笑って許してくれた。
しかしその顔が全く笑っていない事に気付いたのは、いつからだったろう。
私が鈍感なのは今に始まった事では無い。そしてそれは後になってみればよかった事なのかもしれなかった。
私は彼と肉体的な幸せを得る事が出来なかった。
それでもいいと思えるには私は幼すぎた。
結果だけ見ればそれは不幸中の幸い、というものだったかもしれないのだが。
6
その頃私たち生徒の間では、こんな噂が流れていた。
暴力団が新手の手口として若い男女を雇い、それから親しくなった相手に麻薬(合成麻薬)を服用させ顧客にするというもので、恐ろしい事をする人間もいるものだ、と私は聞こえてきた噂に驚きを隠せなかった。何でも、正に徐々に、じわじわと身体に染み込ませていくようにその相手を薬漬けにしてしまい、中毒にしてしまうのだ、と。
一時期、私の通う学校の近くでも中毒者が出たのではないか、と噂になった事があった。
大体が女性であり、急に教室で奇声を上げたかと思ったらそのまま二階の窓から飛び降り足を骨折したり、学校に来なくなったりしたらしい。
警察が調べて回った所、確かに合成麻薬の疑いが持たれ、すぐに調査が入ったのだが誰がそれを売ったのかそれすら解らない、という事だった。
買った者は皆ネットを通じて知り合い、街中の雑踏の中で入った袋と金を交換していたらしく、相手の詳しい人相までは気が回らなかったらしい。
怖い事だな、と思ったものの、私はそれをどこか非日常の世界として受け止めていた。少なくとも自分には関係ない、対岸の火事とはよく言ったもので、そんな事実があったことすら私は忘れてしまった。
私に降りかかったその出来事を知るまで、私はただ夢中で、娯楽さんの事ばかり考えていた。
自分に不幸は訪れない、そう心の中では皆思っていることだが、実際の危険はすぐ間近に迫っているものである。あの時の自分はなんと愚かだったのだろう、と思わずにはいられない。
私にとってその幸せは大きすぎたという事なのだろう。身に余る幸せは甘い物を食べ続けてなる虫歯のように、身体と心を静かに蝕んでいく。
そのメールは、年が開けた一月三日、冬休みの真っ只中の日に届いた。
嬉しく思いながらそれを開くと、彼から『会いたい』という短いメールが届いた。いよいよかな。そんな怖さと柔く身体を覆う緊張感と興奮、それらがミックスされ私に降りかかってくる。
私は、自分が彼と付き合うようになってから買い始めた洋服の一番良い物を着込んで出かけて行った。
それが私と彼の繋がりを断ち切る日になろうとは、正に夢にも思わなかったが。
7
雪が降っていた。それは瞬く間に地面を白く化粧し、アスファルトを見えなくしていく。
重そうな、しかし心落ち着かせる綿のような雪がゆっくりと舞いつつ落ちる。
私はマフラーに首を埋めて、吐く息が白くなっているのをただ漫然と眺めた。身体は少しの緊張と興奮とで包まれており、今日は特別な日になるだろう、と想像し頬が紅くなった。
駅前のハンバーガショップの前。待ち合わせ場所によく使う場所だった。
人が沢山いて、普段あまり地元から出ない私は来るたび新鮮な感覚を覚える。
行き交う人々が誰もが他の人に無関心なことに、大きな安心感を感じつつ雑踏を眺め、見ている光景に少しセンチメンタルな気持ちが混ざる。
あとどのくらいで来るだろう――そう思いつつ、何故か来ないでくれ、と思いと今すぐ抱きしめてくれという甘えに似た気持ちに揺り動かされ、白い息を吐く。空に昇った煙はどこにいくのだろう。ふわ、と。ゆら、と。揺らめいては消えていく。
約束の時間から十分過ぎていた。私は携帯を取り出し、彼の番号を呼び出す。――おかけになった番号は、只今使われていないか電波の届かない所に――という機械音が鳴るだけ。
何かあったのだろうか?
そう思い少しずつ不安が胸の奥に溜まっていく。その場から少し離れ、また通りを見てみる。
雑踏が遠くまで無関心な人々の吐く息で濁っている。
もう一度かけてみた。―駄目だ、変わり無い。少しまたショップの前に戻り、彼を待つ。すると、気がついたら私の前に知らない男が二人立っているのが見えた。首を傾げ、会った事がある人だろうかと少し記憶を探る。
それを見た二人は、
「へぇ、娯楽の奴、今度も滅茶苦茶レベル高いの捕まえたな」
「顔面偏差値で言えば東大に入れるからな。ちょろいもんだろ」
「うらやましいねぇ」
「別に興味無いけどな」
「アンタが好きなものは諭吉さんだもんな」
「野口も樋口も大好きだぞ」
「平等院鳳凰堂も?」
「安いけどな」
二人でくすくす笑う。その顔が私には獰猛な肉食獣に見えた。
無意識に遠ざかろうとする私に、二人は「娯楽の彼女だよな?」と言い、
「今娯楽は別のカラオケボックスで待ってる。急に俺達も一緒に遊ぶことになってな。構わないだろ?」
と金が好きだと公言しているニット帽と黒サングラスをかけた男が言った。顔は良く見えない。そしてその隣の長い髪を茶色に染めた男が「大丈夫、心配すんなって。娯楽のダチは俺のダチ、な、そうだろ?」とサングラス男に笑いかける。サングラスは笑い「ああそうだな」と口元を歪めた。言いようのない不快感が私を襲う。それは直観的なものだとしか言えないが、普通の人間ではないと思った。普通というのに語弊があれば、間違いなく堅気では無いという事である。纏う空気が違う。発散させるものが周りを歪ませているようにすら私には感じられた。
彼らの言う事は信じなかった。
ただし、彼らに付いていく事を止めようとも思わなかった。
もしかしたら、という言葉が私の中で乱舞する。言葉が羽を付け、私の目の前で飛び回っている。もしかしたら。考えたく無いけどもしかしたら。
「どこのカラオケですか?」
私は声が震えない様必死でいつもの平板な声を意識し言った。
二人は少し目を開き驚いたような顔を作った後、
「付いてきな」
と言って背を向ける。
私はその後を、腰から下が無くなってしまったかのような錯覚を覚えつつ付いていく。
彼に、何かあったのかもしれない。
愚かにもそう思ってしまったのだ。
非情に幼稚で短慮で浅薄に、
愚かにも。
8
私達三人は駅前からそう遠くない、しかし確実に流行っていないだろう古ぼけたカラオケボックスに入った。全身を緊張させながら、私は殆ど耳に残らない、気の無いやる気も無い店員が事務的に伝えてくる言葉を素通りさせながら、心臓の音だけをやけに響かせる。
お部屋は三階になります。どうぞごゆっくり、という愛想笑いすらない店員に見送られ、私達はその予約されていた部屋に行く。私は娯楽さんの身に何があったかだけを知りたくて、こうして見るからに危なげな人たちにくっ付いてきた。実は私は物事に首を突っ込むタイプだったのかもしれない、と今になり思い始める。
その部屋の前まで行くと、私は胸の音がやけに耳に残り、血液が身体を流れる音すら解るようになった。頭が沸騰し、足がやたらと冷たい。ニットでサングラスの男が何の躊躇も無く、その扉を開ける。私は意を決して中に入る。どうか何もありませんように――と一瞬目を瞑り、すぐ前を向く。
その時最初に私の耳に入ったのは、時々彼が私と一緒に行くと歌う流行歌だった。
部屋の中にあるソファに立ちながら、画面を見て熱唱している彼。私はただ呆然としてそれを見る。
――ふと。
彼が私たちが来たことに気付いたのか、こちらを振り向く。
その顔が見える。
その顔が、笑った。私に今まで見せた事の無い表情を浮かべて。
「やあ調子はどうだい? 可愛い俺のクールビューティー」
その言葉に安心する前に、私は思った。
空気が、今日の彼の纏うその空気が。
後ろで黙ってドアを閉めている男達と、一緒の事に。
十二月という季節の中、冷たい汗を背中に流しながら気付く。
私は彼を見る。彼も面白いオモチャをようやく手に入れたような笑みを浮かべ私を見る。
蜘蛛の巣に捕らわれた、蝶や蛾を思い出す。
ねばねばと絡みつくその糸に、
私はこれから動けなくさせられるのだと、ようやくその時、理解出来たのだった。
9
「よく来たねぇ、ま、上がりなよ、そっちの汗臭い男どもは気にしなくていいから」
「それは、いいのですが……」
私は何と言っていいか解らなくなった。彼がいつもと同じように見えて実は違う人間が中に入っているんじゃないか、という気を起こさせたのもあるし、その彼がいきなり後ろの二人のような、あまり柄の良くない人間と知り合いだという事が、中々イメージ出来なかったからでもある。
「俺達の事は気にしなくてもいいぜ」
「そーそー、いつもみたいに二人仲良く乳くりあってればいいさー、見せつけてれよー」
「ごめんね、柄悪いけど頭も悪いんだ。許してあげて」
「「どういう意味だ」よ!」
あはははは、と三人が笑う。私はとてもじゃないが、そんな気分にはなれなかった。
私が銅像のように固まっていると、娯楽さんが私の手を引っ張り、目の前にあるカラオケ画面に近いソファに座らせる。嫌な予感がその手の体温ごしに伝わってきて、思わず振り払いそうになってしまう所を必死で我慢する。
そして、カラオケが始まった。よく考えてみればこれは可笑しな事では無い。
ただ、恋人と遊びに行ったらその友人達とも一緒に遊ぶことになっただけである。いや、遊ぶ経験自体あまり無い私には、想像でしかないのだけど。
最初の内は特に変な事は無かった。長髪の運んでいたジュースを渡され、恐々とそれを受け取り飲むと、喉に湿り気が帯び、少し楽になる。
それから私も、男達も何曲か順番で歌い、そして盛り上げ上手ではあるらしいニットと長髪はタンバリンやマラカスで曲に合わせ騒いだ。「時間どのくらいだっけ」「三十分で効き始めるはずだ」と私が歌っている最中に二人組は顔を寄せ話していた。いつの間にか私も最初の頃に感じていた不安は薄らぎ、次第に楽しくなってきていた。先ほどの恐怖感や言い様の無い不気味な感じは気のせいだったのだ、と自分に言い聞かせるように。
しばらくして、どうも身体がだるくなってきた事に気付いた。私は隣で歌っていた娯楽さんにもたれかかるようにして、身体を預ける。自分でも思うように身体が動かせなくなっていることに、遅まきながら知る。
その様子を見ていた娯楽さんとその二人の男は顔を見せ合い笑っている。私は働かない頭を精一杯働かせてその理由を探る。気付いた時はもう遅かった。彼らは、ソファに横にされた私に近づくと、情欲を顔中に漲らせ私の身体に触り始める。
胸を触られ、お尻を撫でられ、頬を舐められる。恐ろしい程の嫌悪感、不快感が襲う。身体が動くならば今すぐシャワーを浴び、念入りに身体を洗い尽くす事だろう。
しかし動くのはかろうじて指先だけ。私は悟る。今日、ここで人生は終わる。この行為が終わったら自分で自分の命を絶つだろう。そう確信する。
上着がまくり上げられ、今日のために新調した薄ピンクのブラジャーが露わになる。スカートも外され、一番見られたくないブラとセットのパンツが三人の視界に映る。ぼんやりとした思考の中、私は意識を別の所に移そうとした。天井辺りに視線を彷徨わせ、どうしてこうなったのか、と考えても詮無い事を考える。
その時、ニットの男が注射器のようなものを持っていた黒いショルダーバックから出し、ぴゅっと少しだけ出してから、私の腕に刺そうとした。最近噂になっている、あの事件の事を思い出す。
――人を薬漬けにして金を搾り取る、最低の犯罪の事を。
娯楽さんは、その今となっては嫌悪の対象でしかない、整いすぎる程整った顔をにまと歪め、
「最近の奴ってすぐにセックスまで持って行けちゃうから楽だったんだけど、君、身持ち固そうだからさ。ちょっと強引にプレイする事にしました。ごめんねー、でもこれからも僕達との関係は続くと思うから安心していいよー。ちょっと今からする奴は濃度と質が良い特別性だから、初めてラりるのには向いてないけどさ、まあ、それからは楽しくなるよきっとね」
そう笑い私の胸を優しいとさえ言える手つきで揉みしだく。ときめいていた今日の朝とは正反対の感情が彼に向かい流れていくのを感じる。愚かだった、情けなかった、浅はかだった。悔しかった。そんな後悔の言葉がエンドロールのように勢いよく頭へ流れて行く。
そしてその薬が私の腕に迫った時、なけなしの力を振り絞り、持っていた痴漢撃退用のポケットタイプの防犯ブザーの栓を、指先に全集中力をかけ引き抜いた。鼓膜を痛めつけるような高音が鳴り響き、その音に驚いた三人の一瞬の隙をつき、私はほとんど動かない身体を無理矢理動かし、ドアを開け叫ぶ。だるくて上手く身体が動かせないので、口も重くだらんと舌が外に出ようとする。開けた所でブザーの音が外にまで響き、その音に驚いた店内の従業員が走って飛んでくる。
男達三人は我先にと倒れた私を飛び越えエスカレーターを降りる。
その時最後に走っていく娯楽さんの顔を見る。
焦燥感が滲み出たその表情は初めて会った時とまるで別人で。
私は何故か笑いが込み上げてその場でくすくす笑ってしまう。周りを取り囲んでいる店の客が異常者を見る目をし見下ろす。
人なんてみんな、死んでしまえばいい。
死んで、苦しんで、もがきながら生きる事を悔やめばいい。炎に焼かれ死にながら踊ればいい。
彼らの内、娯楽さん、いや娯楽だけは店内で捕まったらしいが、後の二人はそのまま逃げおおせたらしい。今でも行方が解らず、警察も手こずっているようだった。
娯楽にはそれから一度も会っていない。
連続婦女暴行罪、違法麻薬所持罪、詐欺罪。実刑を受け今は刑務所に服役している。
年齢も二十三で、その童顔から高校生に化け、何人もの女性を食い物にしていた事も解った。金品をだまし取り、まさに悪魔のような男であることも。
彼が所属していた犯罪組織は暴力団との繋がりも示唆されていたが、結局その証拠は無く罪に問われる事も無いようだった。
私は救急車では運ばれた後、暫く体調がすぐれずそのまま入院した。
家族は私に起きた事に怒り悲しんだが、私はまだ現実感も無いまま、ただ無言で病院の天井を眺め過ごした。
ニットと長髪の男達はまだ何処かであんな事をしているのだろうか。どうでもいいが死ねばいいと思う。私の憎しみの源泉は、まだ野放しになっているのだ。
そう思うと、何故か涙が零れてきた。
これから先も、誤解され、弄ばれ、傷つけられながら生きていくのだろうか。
信じない。人なんてもう、信じない。
忘れようと目を閉じる度に、娯楽のあの優しそうな笑顔を思い出す。我ながら馬鹿だと思いながら、それでもまだ思い出す。
私の中に住んでいる悪魔は、まだ去らない。
まだ、去らない。
10
「遅れました」と私は言い三和土を上がり、ゲコの家に入る。
今日もいつもと同じく盛況のようで、教室の中から子供たちの声が響いている。こんな状態でも通っている子どもたちの成績は他の子達よりも明らかにいいのだから、ゲコの放任塾も意味があるのだろう。彼はいつも畳の部屋で新聞を読んでいる。何しろ、三面記事が大好きで、そこから何があったのか想像(推理と呼べるかどうかは知らない)するのが趣味だというのだから変わっている。
興味のある事件はスクラップして取っており、私が片づけた部屋の中も二十年分の過去の事件が貼られたものがあった。それを整理するのがどれだけ大変だったかは語らないことにする。
この三ヶ月であらかた掃除し終わえた家の中は綺麗に拭かれ、床も前よりもずっと歩きやすくなっている。
私は磨かれ、ワックスすらかけた茶色く光る廊下を行き、突き当りを右に曲がり台所と畳の部屋を兼ねる部屋に向かった。
そこにはやはりゲコがちゃぶ台に向かい新聞を切り抜いている。私が「こんにちは先生」と呼びかけると嬉しそうに振り向き「やあ来たね」と笑顔を向けてきた。
私は慣れたこの部屋を一瞥し、深くため息を吐く。
「どうしたんだい、そんな疲れた顔して。若いんだしもっと溌剌としたまえよ」
その言葉を聞きますますため息を吐きたくなる。彼の周り、その床。
「……先生、言ったはずです、きちんと出したら元に戻す、と。出したら元へを徹底すれば部屋など散らかりようがないのですから。これを片付ける身にもなってください」
彼の周りにはいつものように大手新聞五紙だけでは無く、地元新聞などの切れ端が散乱しており、まるで彼を中心にした嵐でも起こったようだった。彼は苦笑いし、
「それが出来ればスティー君を雇う事も無いだろ? 僕はそういうのが苦手なんだよ」
とまるで悪びれも無く言ってくる。まあ、それはそうなのだが、彼はまるで私に仕事をさせるためにそうしているのではないかと思う程、私が来る時間帯に切り抜きをするのだ。本当にわざとしか思えない。
付き合って三ヶ月。
彼の事は何となく解ってきたが、相変わらずその歳に似合わない子供のような人間である。これなら私の弟の方がよっぽど大人ではないかと思った。大人の定義はよく知らないが。
彼は子どもっぽい面を多分に持ち合わせている人間ではあるものの、同時に傍に居る者を恐れさせる鋭い勘の持ち主でもある。
生徒が何をしていたか、どんな問題があるかをすぐさま見抜き、それに対し直接、または遠まわしに助言または解決する。
生徒を放任しているように見えても、実はきちんと彼らを理解――時には彼らの親よりも――している所には、素直に感服している。
私は彼のその眼で見つめられるのが苦手だった。理由は解らないのだが、妙に胸がざわつき、まるで心の底を覗かれているように感じてしまう。
最近、特にそう感じる事が多くなった。
それは、彼と同じ時間を共にすることが多くなってからであり、私の男性嫌いが始まっているのかもしれないが、そういう不快感ともまた違っていた。自分の事を知られるのが怖い。彼のその眼で見透かされるのが怖い。そんな感じだった。……気にしすぎかもしれない。
ふと、彼の切っていた切り抜きに目が留まる。
私はそれを手に取り、じっと見ていたのを、ゲコはその青く見る者を不思議な気持ちにさせる瞳を細め、見ていた。だが、気にせずそのチラシを見続ける。
「『覚せい剤撲滅キャンペーン』……?」
どこにでもある、何の変哲もない、ただの警察の薬物追放強化運動のチラシだった。キャンペーンガールの女性が爽やかな笑顔でこちらに微笑み、ダメ、ゼッタイ、と呼びかけている。くしゃ、とチラシを持つ手が震える。いけない、出てくる時弟に言われたから、頭の中に飛び交う過去の記憶が痛み始める。どうしようも無く、ただ手が震える。怒りと悲しみに、そして喪失感に似た何かが私の手を震わせる。
我に帰り、慌ててゲコの方を見る。何故か彼は笑って私を見、
「じゃ、よろしく頼むよ? バイト君?」
と笑って立ち上がり、黄色のスクラップノートを手に部屋を出ようとする。
私は動揺した事を悟られない様、「いい加減直したらどうですか、その不精な性格」と憎まれ口を叩く。三ヶ月目なのでお互い気心が知れて来ている。私も正面から悪口が言えるようになった。いい事かどうかは知らない。
ゲコは「僕の数少ない娯楽なんだから許してくれよ」と、言った。
その時、その単語を聴いた時、思わず拳を握り締める。私が今一番聞きたくない言葉、最も忌み嫌う言葉だった。
自分がどんな表情をしていたのかは解らない。それをじっと見ていたゲコは、何かを思案する様に一瞬首を振り、そして部屋を出て行こうとする。
そのまま出て行こうとするゲコの背中を見る。声は発しない。発せば何か出てしまう、出て行きそうになる。そう、思った。
「忘れるのは止めなさい」
一瞬何を言われたのか解らなかった。
ゲコはその場で立ち止まり、私に背を向けたまま静かに、低く落ち着く声で、言う。
「――人は忘れろと言う。そんな事は捨てて新しい事に目を向けろと言う。それでその事が無くなった訳でも、無かった事になる訳でもないのに」
何を言われているか解らない。いや解っている。解っているが認めたくない、私は彼にそんな事を、言われたく無かった。
「……――何が、解ると、言うんですか…ッ」
「解るわけない。解ったふりをしているだけさ、……――僕は年寄りだからね」
その大きな背中に私は何も言えず立ち尽くす。
「――川の石は最初尖っていてもその内丸く、滑らかになっていく。時間も似たようなものだよ。良い事も悪い事も、みんなまとめ流して行く。流れに逆らう事は出来ないけど、それと共に流れる事は出来る。心の石が丸みを帯びるのを待つことは出来る」
泣かないようにするので限界だった。
唇を噛んで震えていることを知られないので精一杯だった。
とっくにそんな事、彼は気付いているのかもしれなかったが。
「僕達は忘れる生き物だ、でも決して、忘れない生き物だ。……――そうだろう?」
何も言えず俯く。彼が振り向かない事に、心の何処かで感謝しながら。
「時間は雄大だ。それを受け止めようとする僕達も、起きてしまった傷口で胸を痛める僕達も、同じようにね」
顔を上げもう一度彼の背中を見る。彼は肩口に少しだけこちらを見、微笑んだ。
「君はそのまんまでいいんだよ」
そう言い、彼は廊下の向こうに消えた。下手な歌を口ずさみながら。
黙って見送る。
自分の掌を見る。
いくつもの皺が、いくつもの歴史が、今の私にはあった。
少し伸びをし、天井を見る。あの時とは見たものとは違う、茶色く優しげな天井を。
彼の昼食も冷やし中華にしよう。
涙を袖で拭い。
部屋を掃除するため、私はエプロンを被り縛ったのだった。