第一話 春
確か、八作目に書いた長編だったと思います。
……実はコミュニケーションがとても苦手でして、(こんな話をしてしまうことからもわかるとおりです。自分で落ち込むのですが……)なかなか現実との共存ができない自分の世界の再解釈の場としての小説、《物語》をずっと書いています。
初めて他の小説でコメントをもらった際にも、うれしくて飛び上がりかけた(実際飛び上がった)のですが、緊張してしまい、お礼の返事を出せなくて大変申し訳ありませんでした。(大事に時どき眺めています。)
そんな、コミュニケーション不全といった感じの女の子が今回の主人公ですが、世界との付き合い方が苦手なひとほど、実はどこかで誰かの救いになっているのではないのか、というのが僕のずっと根底にある切実な想いです。
そんなことはどうでもよくって、ただ物語が面白ければそれで十分すぎるのですが、もしも、そういった部分を持っていると思えるひとであれば、《物語》に出てくる誰かを通じて、一瞬だけでも息が抜けていけばいいなと思っています。つたない内容ですが、読んでくれたらうれしいです。
よろしくお願いします。
私は所謂慧眼というものを恐れない。ある眼があるものを唯一つの側からしか眺められない処を、様々な角度から眺められる眼がある、そういう眼を世人は慧眼と言っている。つまり恐ろしくわかりのいい眼を言うのであるが、わかりがいいなどという容易な人間能力なら、私だって持っている。私は慧眼に眺められてまごついた事はない。慧眼の出来る事はせいぜい私の虚言を見抜く位が関の山である。私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。物を見るのに、どんな角度から眺めるかという事を必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態の眼である。
『志賀直哉』小林秀雄
1
馬鹿という字を辞書で引いてみる。
『馬鹿‐莫迦 ① おろかなこと。社会的常識に欠けていること。また、その人。愚、愚人。あほう。
② 取るに足りないつまらないこと。無益なこと。またとんでもないこと。「―を言うな」「―なことをしたものだ」
③ 役に立たないこと。(以下略) 〈広辞苑第六版〉より 』
2
賢いという字も辞書で引いてみる。
『賢い ①おそろしいほど明察の力がある。源氏物語(桐壷)「―・き相人」
②才知・思慮・分別などが際立っている。源氏物語(藤袴)「さすがに―・くあやまちすまじくなどして」。「―・い判断」「―・い子」
(略)
④抜け目がない。巧妙である。利口だ。源氏物語(帚木)「また並ぶ人なくあるべきやうなど―・く教へ立つるかなと思ひ給へて」。「―・く立ち回る」
(以下略)〈広辞苑第六版〉より 』
3
大丈夫だろうか、私。
後悔しても始まらないと思いつつ、大きくため息をつく。後ろでは優しく日が照っており、少し眩しいくらいの日差しが私の後頭部をじわりと暖める。春の日としては絶好の行楽日和だ。
手に持ったひとつの紙切れにもう一度視線を落とす。ここで間違っていないはずだ。その手に持った紙に書かれた文を読み、もう一度ため息をつく。ここで、あってるよね。
地面を見、それからそのアスファルトに虫が歩いているのを確認し、また前を向く。紙切れを持っていない反対側の手には買ったばかりの箒とちりとり。
もう一度視線を紙に移す。
『短期アルバイト募集!! 家の清掃、分別、一か月間してみませんか。昼食付きで日給二千円。簡単な仕事なので学生さんや主婦の方にお勧め! 小遣い稼ぎに一つ、お願いします!』
安いよ。
素直にそう思う。これではコンビニのアルバイトより安い。いや、コンビニのアルバイトは大変らしいから、別に貶めて言っている訳では無い。ただ安いな、と思った時一番比べやすかったのがそれだったので。
でも、まあ。
「ただ清掃するだけなら楽なものかな……」
そう呟き、私はもう一度ため息をついて、その家の前まで近づく。左手側にポストと表札がかかっている。私はその表札の下にあるインターホンを鳴らし、しばし待った。
なるべくいい姿勢を保ちつつ、主人が出てくるのを想像し、どんな人なのだろうと考える。
このチラシが入っていたのは昨日の昼。友達と遊ぶような性格でない私は一人ソファで寝っ転がり小説を読んでいた。夏目漱石『草枕』。智に働けば~で有名な作品だがまだ読んだことがなかったので、試しに古本屋で買ってきたのである。
嫌な事続きだった。何をするにしても裏目に出ている気がしてならない。気分は沈みがちで、何をするにも億劫。こういう時頼るのが友人なのだろうが、私は一人悶々とするしかない。
携帯に煩わされる事もない。そういう意味で、私は今時の女子高生らしくないと言える。
家のポストがガコンと音を立てた。何か郵便物だろうと思い、面倒に思いながらも取りに行く。春休みの今、弟も友人の家に行っており、家には私一人だった。
玄関を開け、ポストに入っているものを取り出す。そこには手書きをコピーしたと思われる、流暢な字体でアルバイト募集が書かれていた。日給二千円とは随分安い。安いとは思ったが、それ以外は別に変りない。しかし、私はふと中空を見上げ、考えた。
今特に買いたいものは無いし、小遣いの範囲でならきちんとやっていけてる。そう考えると別に何の興味も引かないただの広告である。が、しかし、今の私にはこういう何か身体を動かし働くという事が大切なのではないか。労働し汗水垂らして嫌な事を浄化するのがいいのではないか、そう考えたのである。
別に給料が悪くてもいい。駄目ならすぐに止めればいい。とにかく、今は一歩前に進むことが大切なんだ、という思いに囚われた。
――少しやってみるか。
私はその紙に書いてある電話番号と地図を見、そう遠くない所にある事を知る。いい機会だ。やるだけやってみよう。
そう考えた私は家に戻り、自宅の電話からその携帯番号にかける。
取ったのは、渋く低い声の男性だった。聞き取りやすい声で、声優が何故今流行っているのかが少し解るが、そんなことはおくびにも出さず働きたいのだが、と伝えると、何処かの外国人のように『ワオ!! リアリィ!?』と返してくる。
少し怖かったが、快い返事を貰ったのでとりあえず安心する。
日時は明日の午前九時からであることを聴き、「よろしくお願いします」と言って電話を切る。
頼んでから、自分などが役に立てるのだろうか、と心配になった。
考えてみれば、安いバイトである。もっといい働き先があるかもしれなかった。しかし、自分のように社交性のない人間、しかも今は嫌な事が立て続けにあったせいで人間不信。そんな自分が、きちんと初めてとも言えるような労働をこなせるだろうか、次第に不安になってくる。
しかし私は了承した。後戻りは許されない。
とりあえず、清掃用の新しい箒とチリ取りをスーパーで買ってくることにする。
外を出れば雀が高く短い声で鳴きあっている。いい天気だ。春休みなのだから、どこかに行ってもいいかもしれない。まあ、そんな気になれないから家で読書をしていたのだが。
新しい箒とチリ取りを選びに行く時、ふと、彼のことを思い出す。
剥がれろ、と私は心の中で叫んだ。
4
昔から建っているのだろうか、とその家の屋根瓦を見て思う。
午前九時。そのインターホンの前で、しばし逡巡する。押してもいいだろうか、中では子ども達の声が聞こえ、騒がしいどたばたと言う音がこちら側にまで響く。玄関の右隣に『フロッグバーグ学習塾』と木彫りで書かれており、ここが学習塾を開いている事が解った。
しかしここで立ち止まっている訳にもいかない。少し緊張しつつも後で取りつけた事が解る安物のインターホンを押す。
「はいー、少々お待ちくださいー」と昨日の声の主らしき人が返してくる。
私は少し安心し一歩インターホンから離れる。すると、がらりとスライド式の玄関が開き、その男性が私を見つめた。
少しその場で彼は固まり、私もほぼ同時に固まる。…どうしよう。私は持っていた箒とちりとりを何度も握り直し、彼を見る。彼も私を、何故か驚きながら見つめていた。
現れたのは、金髪がくすみ、金というよりも銀、いやプラチナに近い色の短髪の男で、歳は五十の後半か、しかしその高い身長はまだ衰えを知らない様に引き締まっており、私に十分男を意識させる。シャツにチノパン、その上に緑のカーディガンを着ており、シンプルながらお洒落さも感じた。口元に髭をたくわえ、おもちゃのような丸眼鏡をかけている。全体的に鳥のような、種類で言えば鷹のようだった。
その細い目を更に細め、彼は私をじっと見つめる。私もどうしていいかわからずそのまま立ち尽くす。時間だけが流れ、一体私は何をしているんだろう、と考えた。
その時唐突に、目の前の紳士が、
「いやあ、まさか君が来てくれるとねぇ。いやはや人生は驚きに満ちている。全くそうだそうは思わないかい、ねえ君」としきりに頷きながら彼は私に向かい笑顔を向けてきた。その顔が歳に似合わず少年のような純粋さを醸し出していて、不覚にも私はどきりとしてしまう。というより。
考えてみると、私と彼は今、たった今が初対面のはずだ。こんないぶし銀な外国人を見かけたら忘れないだろうし、それに私の方も彼に覚えられるような場所にいた事は無い。基本外出しないインドア生活を送っているのだから。
私の困惑も知らず、彼は、
「久しぶりだねー、君とあったのは随分前になるけれど、そんなに綺麗になるとは思わなかったな、いや、光陰矢のごとし、とも言うからね、自分が歳を取った事を再認識させられる毎日だ、さ、上がって上がって」
と間違いなく私を他の誰かと勘違いしているようだった。いけない、このままペースに飲み込まれると、後々大変な事になる気がする。
私は引っ張られるまま玄関に上がり、――おい、ちょっと待ってくれ。なんだ、これは。
「あの――……すみません。一体これは、その――」
「ああ、少し散らかっているけれど気にしないでくれ。今日その掃除をしてくれる事になってる娘が来るはずなんだ。時間は九時だって言ってたのに来ないなんて、なかなかロックな女の子だよね」
目の前にいるのがそのロックな女の子なんだけど。
言おうとした所で私は右隣で騒いでいるらしい塾の(?)子ども達の喧騒を聴きながら、ただ引っ張られていく。それにしても、これは少し、――いやかなり――
「いや、また本が増えてしまってね。ははは、足の踏み場所も無い、とはこのことだねえ全く。はははははは」
そうそれは正に物――特に本――でぎっしり敷き詰められていた。何かを書き散らしたかのように散乱している原稿用紙は文字でびっしりと埋まり、文献か何かなのだろうか古書は黴臭い匂いを発している。狭い廊下を――いや、狭くしているのは本なのだが―見て私は愕然とした。これは確かに、清掃の人間が入らなければいけない空間だ。
幸い、生ゴミや生活空間のゴミなどは確認できなかったが、この人はそもそも整理概念というものが存在しないのではないか、と思うには充分すぎる空間だった。
私は、ぎゅっと強く箒とちりとりを握り直す。
誰かに間違われているとか、無理矢理引っ張り込まれていることの理不尽さだとか、色々言いたい事はこの空間の雑然さと同じように溜まっているが、今はそれもどうでもいい。
とにかく、私はこの現状に全くと言っていい程納得がいかない。こんな空間で寝起きしているのかと思うと腹が立ってくる。人は、整頓しなければならない生き物なのだ。生きていればこそ出るごみを処理しながら生きていく事こそ、スマートな人生なのだ。
私がこのバイトに応募したのも、結局は掃除が自分に一番向いている仕事だと思ったからだ。昔から掃除は家の中で私の仕事だった。弟が時々やると逆に怒るくらいだった。これは、私が何とかしないといけない空間だ、そう思いつつ、狭くなった廊下を抜け、右手側―位置的には学習塾の隣に当たる―に入った。そこには台所と畳のスペースが混在しており、半分がキッチンと食事をするスペースで、椅子が三つとテーブル。もう半分を区切って段差を作りながら畳のスペースがあった。テレビとちゃぶ台、座布団が置いてある。
ここはそれなりに整頓されているらしく、台所も少し汚れている以外は大した事が無い。畳のスペースは生活感が滲んでおり、クロスワードパズルや知恵の輪、目を惹くのは繊細に作られた美しい折り紙の数々で、細かいパーツを繋ぎ合わせ作られる大きな恐竜などもあり、これはもはや技の域だな、と感嘆のため息を漏らす。
壁一面に色とりどりの折り紙作品がある一方、他には難しそうな歴史の本、電気工学、はては江戸時代の文化史などもあり、棚に収められたものは私の興味を引く物が多かった。
そんな私が冷静に、いや時には憤りながら観察した家の中の、ちゃぶ台がある畳のスペースで、淹れられた番茶を飲む。嬉しそうに昔話を始めるこの家のおそらく主人に私は呆れながらも、早く誤解を解かねば、と焦る気持ちで一杯になった。
「それで君は高い木に登って降りられなくなったけねぇ。いや、あの時は焦ったよ、僕もどうしたものだか分からずただ夢中で登って手を差し伸べてね。落ちた時は本当に痛かった。でもま、君に怪我が無かったのが幸いだったけどね」
昔話を長々と語られても、記憶を共有していない私は何も言う事が出来ない。そんな時彼が不思議そうに、
「そういえば遅いなぁアルバイトの子。最近の子は意外に時間に正確だって聞いてたけど、そうでもなかったのかな」
ぴくり、と私の眉が動いたのが自分で解った。
「やれやれ、自分勝手なものだよ。自分からやりたいって言ってたのに、見たまえもう半だよ。全くどういう神経してるんだか。僕は時間には正確な方だけど、これじゃ先がおもいやられるね、そう思うだろう?」
首を振り、彼は私に向かって爽やかな笑顔を向けた。
私も、彼に向かって爽やかな笑顔を向ける。
「それで、私の事に気付いてらっしゃいますか?」
彼は不思議そうに私を見ていたが、彼は「何を?」と首を傾げるだけだった。
自分に出来る精一杯の笑顔を向け、頭を下げた。
「――よろしくお願いします」
その時、彼は目に見えて動揺し、冷や汗らしきものをだらだら掻き始める。
もう一度笑顔で、告げる。
「本日からここで働かせていただくことになりました、木村薫です。お役に立てるか解りませんがどうぞ、よろしくお願いいたします」
目の前の彼は何も言わない。口を開け、自分の失態を認めるように、気が抜けたように笑う。口元を小刻みに震わせながら。
少し溜飲が下がった所で、心の中で一つ付け足す。
一体どういう神経してるんですか、この馬鹿男。
作った笑顔が気持ちいい。本当にそう、思うのだった。
5
「ごめんなさい」
「もう別にいいです」
「だって……」
「いいです」
「えぇと、じゃあさぁ……」
「何です?」
「何でさっきから僕の方見ようとしないの?」
見たくないからに決まってるじゃないか、とはもちろん言わない。
困った事にこの紳士、かなりの気遣い人間(笑)であった。
私が気分を害していると気付いてから、こうやってそれとなく謝罪してくるのがまたウザったい。いいから放っておいて仕事をさせてくれと言いたかったが、私は一応雇われている側で、そして相手は私を雇っている側である。ここは人間関係が苦手な私でも解る。穏便に流すのが正解だろう。
と、いっても、仕事を教えてもらわなければ本末転倒である。私は内心の反発と怒りを抑えこみながら、「それで私は、何をすればいいんでしょう?」と尋ねる。彼の方ももう関係性を好転させるのは不可能だと思ったのか、「ああ、とりあえずは僕の部屋の本を片付けてくれるかい。一応本棚があるけど、量が量だからね。溢れているものはとりあえずいいから、今日は歴史の本関係を整理して一番と書かれた棚に移してくれ。僕はこれから自習にしてた教室に戻るけど、解らない事があったらいつでも呼びに来てよ。今日は基本自主学習の日でね。来る必要は無いんだけど、自分の家で勉強しづらい子のために開放しているんだ。世間でお受験なんて騒いでいるしね。僕としても嬉しい事は嬉しいけど、もうちょっとゆっくりでもいいと思うんだけどね。勉強ばかりじゃ大事な事も見逃す、ついそう考えてしまうね」と苦笑いした。
私はそれを聴いて、流暢な日本語だな、と感心する一方で、彼の事を少し見直す。子どもに勉強を教える講師のくせに、勉強だけでは駄目だとも言う。意外とバランスのとれた人なのかも、などと考えた。
「じゃあフロッグバーグさん、今日はよろしくお願いいたします」
「フェスティでいいよ。木村さん。呼びにくかったら『ゲコ』でもいい。子ども達は皆そう呼ぶ」
『フロッグ』だから蛙――転じてゲコ。少し面白い。それを嫌に思うどころかそう呼ばせようとする所も好感が持てる。少しずつこの馬鹿オジサンの印象も変わってくる。何だ、もしかしたらいい人なのかも――
「さっきは本当にすまなかったね。いや、実は君とそっくりの雰囲気の子がイギリスに住んでいた頃に会ってね。その時散々遊ばされたから、こっちに来たのかと思ったんだよ。本当に感じがそっくりでね、いや、本当にびっくりだよ。全く、世界には同じ顔をした人が三人いるとよく言うけど、大人になればこうなるんじゃないか、ってイメージにぴったりでねぇ。あ、じゃあ僕は君をスティグマイヤーさんと呼ぶ。彼女の名字なんだけどね、やっぱり、親しい人間にはあだ名、ニックネームがいいだろ? よし決定だ、君は今日からスティグマイヤー、略して『スティー』さんと呼ぶことにする。いいね。スティー、良い響きだね」
殴りつけたくなるのを必死で堪える。
私は何処をとっても純日本人である。何故いきなり出会ったばかりの、しかもヘンテコな人間からそれ以上にヘンテコな理由でヘンテコなあだ名をつけられねばならないのか。
社会の理不尽さを肌で感じつつも、それでも顔は何とか笑顔で「別に構いません」とだけ返す。もういい。今日から仕事のみの関係で通そう。そうしないといつか殴ってしまいそうだ。
「では、仕事に入りますので」
「よろしく、スティーさん」
それは仕事だけにしてくれ、頼むから。
私は無言で仕事場所の部屋へ入ったのだった。
6
凄まじい格闘だった。
普段綺麗にしている自分の部屋とは違い、ここは正に魔窟だった。
うず高く積み上げられた本の山を掻き分け、ただその量の多さに辟易し、一体何のためにここまで放っておいたのか今すぐ問い正したい気持ちで一杯になる。
それでも整理していくと、だんだん気持ちよくなっていくのが解った。この家で起きた不愉快な事柄も、次第に気分の外へと追いやっていく。今はただ、番号のついたシリーズ本を並べ床に積み上げ、ジャンルごとに分けながらそれぞれ一番の棚に戻す。
この家には部屋数が少ない分、一つ一つの部屋が大きく作られている。
ここはゲコの部屋だがかなり広い。広いということを忘れさせるくらい空間が本や資料らしき紙束で溢れているが。
埃だらけになりながら、私はバケツに水を汲み、固く絞った雑巾で丁寧に本を拭き、置く。床が見えてきたら合間合間にさっと拭く。そんな事を繰り返し、ようやく歴史の本だけ見れば大分片付いてきていた。
休憩は自由に取っていいとの事だったので、好きな時に休もうと思っていたが掃除に熱を入れたらいつの間にか三時間が過ぎていた。痛くなっていた腰を伸ばし、あちらもひと段落したのか子ども達の声も静かになってきている。それもそうか、勉強しに来ているのだから。
部屋を出、何か飲み物でも買ってこようと扉を開け廊下に出た所で、チャイムが鳴る。
そちらに目を向けると摺りガラス越しにシルエットが浮かび上がった。どうやら女性の様だ。自分が開けていいものかどうか迷うが、私は今ここの従業員である。小走りに駆けていくと、摺りガラス越しの女性が動くのが解った。扉を引き、「先生に何か御用でしょうか」、と呼びかけた。
若い、といっても二十代の後半から三十代の前半、整えてありながら大人の雰囲気も忘れない恰好からこの学習塾の塾生の母親であろうことが知れた。
彼女は見慣れない顔の私に少し戸惑っていたようだが、彼女が疑問に思う前に「ここの清掃を頼まれている者です。先生に御用があればお伝えに行きますが」と早口で言う。
ホッとしたようにして顔を綻ばせ、
「そうですか。ではお願いできますでしょうか」と上品に笑う。
入ってすぐ右隣の部屋に向かい、ノックし入る。
そこには子供たちの質問に丁寧に答えるゲコがおり、場違いにも少し微笑ましく思った。
子ども達はわいわいがやがやとそれぞれが好き勝手に話している。「何持ってくー?」「こういう時は食べ物持ってくって母さんが言ってたよー」「プリント溜まってるから、忘れないようにしないとねー」「あとどれくらいかなぁ」「解んなーい」最早学習塾というより子供たちのたまり場だな、と苦笑する。
そんな事を思っている場合では無かった。私は、
「先生。お客様です」
と一言言い、直ぐに部屋から顔を抜く。その時たまたま目についたのは、長机が並んでいる奥の方、そこでノートを枕にしながら寝ている男の子だった。彼は私がゲコに呼びかけるとばっと起き、辺りを見渡す。そして、誰かが来た事が解ると、少し怯えたような顔を作る。少し違和感を感じたが、ちらと見たゲコの顔が一瞬、鋭く尖ったものに変わっているのが少し意外だった。真面目な顔をすると端整な顔立ちであることが解る。中年男性用雑誌モデルのようだ。その視線の先にいる男の子を見たかと思うと、私の視線に気付いたのかふにゃと表情を崩し、「今行くよ」と立ち上がる。
ゲコはそのまま私の横を通り、玄関に行き、その女性と向き合う。
「これはこれは。どうなさいました亀田さん」
亀田と呼ばれた女性は少し会釈すると、厳しい顔をしてゲコに言った。
「フェスティ先生。今日は息子の件でお話に上がりました。お時間よろしいでしょうか」
「構いませんよ。一心君もご一緒に話されますか」
「……そうですね。私も息子に訊くならそれが一番でしょう。御同席させてもよろしいですか」
「ええ。ではどうぞ」
そう言い、ゲコは教室の中に一声「一心君、ちょっといいかな」と例の子を呼び出し、先程私たちがいた畳の部屋に向かって行った。それに続き、母親が怖い顔をし、出て来た一心君を睨むが、何か言おうとしかけるものの私がいる事に気付き、ゲコの後を追う。
その男の子は先程居眠りしていた少年であり、母親を見るとあからさまに怯えていた。
何かありそうだな、と思った所で、私には関係ないか、と思い玄関を出、ジュースを買いに行く。
ふと振り向き一心君の背中を見る。その手には折り鶴が握られており、その紅い鶴は、その歩きに応じて、ゆらゆらと揺れた。
何やらそれが妙に私の目に焼き付き、残ったのだった。
7
コンビニから帰る途中、近くに公園があったことを思い出す。
特に何か用があるわけではないが、来る人が皆自分の空間を作っているのは好きだった。それぞれの人生が少しだけ交わる時、それが公園という場所なような気がする。…テレビドラマの見すぎかもしれない。
公園は人気が無かった。全体的に古ぼけている感じで、あまり遊具も無ければ点検もしないのではないかと、私は思った。
それでも構わずその中に入り、目の前にあるブランコにでも座ろうと前へ行く。その時、そこに先客がいる事に気付く。何故気付くのが遅れたかといえば、ブランコは入り口からちょうど死角になっており、パッと見では全体が把握出来ないからだった。そしてそのブランコにいた先客は先程ゲコに呼び出され、青い顔をした少年――一心君であった。私はそちらの方へ行き、あまり驚かせない様少し遠くで確かめる。
それにしても彼の集中力は凄い。規則正しいリズムで小刻みにブランコを揺らしながら、ずっと手元にある色とりどりの折り紙で、丁寧に鶴を作っている。彼の左には出来上がったと思しきそれら色違いが三羽おり、熱心に作っているのだな、と感心する。
私は小さ目の声で、「何作ってるの?」と呼びかけてみた。
不意の質問にビクッと身体を震わせると、一心君は驚き私の顔を見上げる。しまった、話しかけたのはいいが何を話せばいいか解りかねる。人付き合いが得意なタイプではないのだ。話しかけてしまったのは気まぐれに過ぎない。その顔が陰りを帯びているからなどという理由は最早使えない。どうしたものか。
私が近所のコンビニからジュースを買ってきたのはほんの十分くらいの事だ。その間に話は終わり、彼は授業をさぼってここに来たのだろうか。優等生っぽい雰囲気だから少し意外ではあった。
一心君は私の顔を見るなり逃げ出そうとしたのか少し腰を浮かせ掛けるが、私は「ああ、大丈夫よ、告げ口なんてしないから」と頑張って微笑む。筋肉が少しつる。我ながら笑顔を作ることが苦手である。自分でも改善したいと思っているが中々直らない。練習するしかないな、と心で溜息をつく。
一心君は私を少し不思議そうな顔で見つめた後、「本当に、言わない?」と弱弱しい声で言った。私は笑おうとしたが上手く出来ず、「関係ないから」と我ながら誤解されるような言葉と態度だな、と嫌になった。
仕事のせいか、セットした肩口までのショートボブの耳両脇がぴょんぴょん跳ねる。垂れた犬の耳のようであまり好きではない。いつもスプレーなどで一生懸命押さえつけているのだが、あまり効果が無い。そんな髪を手で直しつつ、一心君の反応を待つ。一心君は無言で折り紙作りを再開する。私の事を無視しているようだが、それとも違う、話しかけて欲しいが自分からは言えない。そんな感情が見え隠れしているようだった。
あまり気にせず、私はその一心君の右隣にあるブランコに乗り、ぎいこぎいこと漕ぐ。手に持っていた紅茶の無糖のキャップを開け、一気にあおる。少しの苦みが口全体に染み、喉を潤す。ひとしきり飲んだ後、空に目をやった。雲が千切れ千切れに飛んでいくのをぼおっとしながら見、ゆっくりとした流れに身を浸す。整理の疲れも空に溶け込んでいくようで、私は少しの浮遊感を覚えつつ目を閉じる。
気分がいいのは人生で大切な事だ、と改めて思う。無心に掃除をすることで得られる解放感は何よりも得難い。そういう意味ではゲコに感謝している。馬鹿なオジサン相手をするのは気も引けるが。
「なんにも訊かないんだね」
隣で黙々と折り紙を折っていた一心君はそう呼びかけてくる。私は「話したかったら話せばいいよ。そういう時は誰でもあるしね」と端から見たら平坦に、起伏も無く言った事だろう。自分の性格が嫌になる。仕方ないのかもしれないが。
一心君はその細く繊細そうな指で折り紙を折るのを止め、私の方を見ずに真正面をぼんやり眺めながら呟く。
「母さんはね、僕に頭が良くなってほしいんだ」
その言葉を私は自分の事に引きつける。私は頭が良くないので、両親にしてみればそういった期待をかけられることは無かったな、とどうでもいい思考を飛ばす。
少し間を置き、一心君は、
「いつも母さんは父さんの悪口を言ってる。頭が良くないから有名大も出れずに、こんな風にぐうたらでうだつの上がらない人間になってしまったんだ、って。だから僕も、そうならないように一生懸命勉強してたんだけど……最近は昼間寝てばかりいて、クラスの担任の先生が母さんに『最近授業中眠ってばかりいるんですが、何かあったんですか』って言って……僕にも理由はあるのに、母さんは僕が父さんみたいになるんじゃないか、って怒って不安になって……僕は今、勉強よりもっと大切な事があるんだ……あるんだよ、それなのに……母さんは僕をあの塾から辞めさせるって。もっといい、集中できる所で勉強させるって……僕はゲコ先生も皆も大好きなのに」
私は少し驚きながら彼を見た。その瞳には大粒の涙が浮かんでいる。私は思わずお尻のポケットからハンカチを取り出し、差し出す。
一心君は私の顔を見ると少し戸惑ったようだが、素直に借り涙を拭く。少し笑顔が戻った事に内心安堵していたが、それは顔には出ない出さない。
「不思議なおねえちゃんだね」
と笑っていれば歳相応の表情が出来る事に、私は少なからず驚いた。こういう顔を作れるということは、実は凄く大切なことじゃないか、そう思った。
「サボったの、初めてだよ」
照れるように言う一心君は、ふと隣にある出来上がった鶴を手に取り眺める。
「やっぱり、ゲコ先生にはかなわないや」と、また笑う。
そういえば、ゲコの居間にも美しく作られた折り紙が並んでいた。それを思い出し、「先生に習ったの?」と訊くと、「うん」とまた嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ゲコ先生は、僕達に自分が自分でいい所を作ってくれるんだ。だから、授業の無い時も皆集まって話したり、一緒に勉強したり、色々してる。一年生には六年生が教えたりしているし、解らない所はゲコ先生に訊けばいい。この折り紙の紙も、僕に突然くれたんだ。まるで理由なんて知らないんだろうけど、あげるよってくれて……僕はとっても嬉しかった」
私は、ゲコのイメージを変えなければならなかった。彼は自分がしている事には無自覚かもしれない。しかし、彼の取っている行動は、締め付けられながらも懸命に闘っている彼らの、一時の安息の地になっているのだ。
解らなくなった。
彼は本当はどういう人間なのか、どういう性格なのか、一見すると只の馬鹿だが(それは私の中でまだ揺るぎない事実である)、一心君を見ていると、それもすべてフェイクで、実はとても鋭い感覚を持っているのかもしれない。そう思い始める。
「僕はまだ辞めたくない。僕の場所は、あそこなんだ」
そう言い、また一心君は鶴を折り始める。その理由に辿りつくことは出来なかったが、それでも彼の心が乱れ荒れているのは想像できた。ジュースを飲む。
私と一心君は二人そろって、ゲコの元へと戻るのだった。
8
昼食付、と訊いていたので、お腹はかなり限界に来ていた。
食べる物も食べず働き通して、ゲコが今やっと台所に立ち、エプロンし鼻歌を歌いつつ軽快にフライパンを揺らす。後ろ姿がなんだかダンディで格好良かったが、頭の中から即座に追い出すと、再び畳の部屋のちゃぶ台に肘をついて掌に顎を乗せた。じゅうと肉が焼ける匂いがし、思わず喉が鳴る。そしてその間、私は目の前の本棚の前に並んでいる折り紙の数々を、なんとはなしに見ていた。
どれも折り目正しく、パズルのように精巧に組み立てられているのを見、再び感心する。
鼻歌をサビらしきところまで持っていき、その高音が出る瞬間、フライパンから出て来たのは――……ハンバーグ、だった。
柔く煮た温野菜を添え、完成、らしい。その香ばしく焼ける肉の匂いにしばし息を深く吸い込み、堪能した。身体を動かしたから、尚更身体が求めていると実感できる。彼は畳に上がり、二つの皿が私とその向かいに置かれた。
「よし。それでは食べるとするかね。美味しいかどうか解らないが、まあ我慢してくれよ。これでも男の自炊ではましな方だと思うからね」
そう言い、手を合わせ(こういう所はイギリス人らしくないかもしれない)「いただきます」とハンバーグに取り掛かる。その光景は優雅とはかけ離れたもので、子供が大好きなお菓子を頬張るような、純粋に食べる喜びを表しているようだった。
私もフォークとナイフを使い、最低限汚くならないよう切って食べる。
――美味い。
肉質もいいし切ると油が出てきていい香りが漂う。それを口に運ぶと中でじゅわっと弾け、噛む度にデミグラスソースの甘い味が広がる。これは美味しい。次々と口の中に運んでいき、珍しく心の底から満腹感と満足感を得た。嫌な事続きだった最近のことも、今は頭から消えている。人間とはなんと複雑で、そして単純なのか。
食べ終わった食器を片づけに行ったところで、私はゲコに訊いておきたいことがあった事を思い出す。一心君のことである。
使っていいよと言われたスポンジで泡を含ませ、手早く洗い、そして食器置き場へ置く。それが終わった後、また戻りゲコに訊く。
「お話があるのですが」
「一心君のことかい?」
何で解ったと思ったが、「勘さ」と言いゲコはへらへらと笑う。
内面を勝手に覗かれているような居心地の悪さを覚えたが、表には出さず、
「そうです。先程彼と話した時、彼はここに残りたいと言っていました。私たちが帰って来てから、心配した母親に一心君がしかられて半泣きになった後、先生が母親を呼び話しましたね。私が泣きじゃくる彼を宥めていたのですから気にはなります。どうしてあの後母親はあんなさっぱりした顔をして帰って行ったのですか? 差し出がましいかもしれませんが、何も知らないのも落ち着かないので」
そう言い、何だかんだで自分は首を突っ込みたくなるタイプだな、と自己嫌悪する。私には関係ないはずだ。そう思いちゃぶ台に指を組み乗せる。
「何かあったのですか?」
「良い子だねえ。君は本当に」
いきなり褒められた。褒められるような事はしていない。ただ単純に、一緒に話をしただけの関係だが彼が少しでも本音を聴かせてくれたのは事実。心配というより確認したかっただけ。それだけだ。
そう思い口を噤んでいると、ゲコは、
「勉強よりも大切なことなんて、世の中に掃いて捨てるほどあるよ」
そう言い、ポットから急須にお茶を淹れ、少し蒸らす。それからゆっくり時間をかけて湯呑に注いでいく。緑茶の何とも言えないいい香りが部屋を包んだ。
そうして空白の、だが決して空虚では無い穏やかな空気が私たちへ降りる。
それを確認したかのように満足げにゲコは一つ頷き、「どうぞ」と私の前に湯呑を置く。
その時、ゲコの薬指に光るリングが目についた。少し想像したが、あまり踏み込んではいけない事だけは解る。黙って礼を言い、その湯呑から少し口に入れた。
本当に美味しいお茶からは海苔の味がするものなのだと初めて知った。口の中に旨味、なのだろうかがふわりと広がり、含むだけで舌がお茶では無いのではないか、と私に告げる。ふうと、思わず息が漏れる。美味しい。こんな美味しいお茶を飲んだのは初めてだった。
そんな事をしていると、つい今何を訊こうとしていたか忘れそうになる。
顔を引き締め、ゲコの顔を見た。彼の少し緩んだ表情からは、どこか間の抜けた印象を拭い去る事が出来ない。何処を見ているのか、何を考えているのか、非情に解りづらい男だと思った。
男に対して絶対の不信感を持っている私は、そのゲコの解らなさが心の何かを刺激し苛立たせる。それは私自身の問題、そうは思えるのに。
ゲコは私のそんな内心を全く解する事も無く、ただ笑って続きを話す。
「僕はね、スティーさん。子どもはね、何処まで行っても例え勉強が出来ても早熟でも、天才だろうと馬鹿だろうと、皆子供なんだ。勉強勉強で前に進む。いや、この言い方はおかしいかな、でも何でも最短距離で進めばいいという物ではないと思うんだよ。最短距離の先にあるのが只の崖でした、なんて事はザラだろ? 僕は、子どもは大いに回り道すればいいと思っているんだ。それが結局、その子にとってかけがえの無い体験をすることになるんだからね」
そう言いお茶を啜るゲコ。その言葉が、私の知りたい『事実』では無い事に強い憤りを覚える。言葉で誤魔化そうとしているように思えた。
ゲコは、「まあとにかく」とん、と湯呑を置き、
「誰でも誰かを異性として好きになる事があるだろう? 程度の差こそありさえすれ、そこは誰も立ち入れない何かが出来る。無粋に入ってほしくないのは子どもだって大人だって変わらないさ。僕みたいに歳を取ってくると、尚更そう思えるね。あの時の心の揺れが、今の僕の一部分になっている事は間違いようも無いからさ。そういう事で、僕は彼の好きなようにさせてあげるのが一番いいと思ったんだ」
困惑する。
話が全く見えない。何が言いたいかも解らない。ただ一つ解ったのは、一心君の今の状況が少しは改善されたろう、という事だけ。何があったのか肝心のそこが一切語られていない。
「私には彼らの事情が解りません。なのでそう言われても何が何やらよく掴めません」
そう聞きゲコは、「ああそうか、前提部分から解らなければそうだろうね、すっかり君も知ってるものとばかり思っていたから」と銀色の髪をわしゃわしゃ掻く。時折見せる仕草が何故か少年のようで、あんな事があったというのに私は再び『男』を見てしまう。そんな事で揺らいで消えるような、簡単なものだったのか私の恋は。私のあの、恋愛は。
「彼はとても真面目な子でね。スティーさん。成績優秀。周りからもよい子と評判だった」
ずず、とまた湯呑からお茶を啜るゲコ。ふうと息をつき、
「でもね、スティーさん。大体において、イイコと呼ばれる子達に共通してるのは、その心に常に不全感を抱えている、という事なんだ。良い子でいなければいけない、親の言う事に素直に従う。ルールは守り、どこへ出しても恥ずかしくない存在になる。正に彼はその言葉通りの人間だった」
「少しそのお話は一心君から…それでどうしたのです? 何が起こったのでしょう?」
「折り紙はね、自分の気持ちを整理するのに恰好のツールなんだ」
話が飛ぶ。
「何の話ですか?」
「折り紙というのは、心の、そしてコミュニケーションのツールとして最適だ、という話だよ」
「意味が解らないのですが」
「僕のあそこにある棚の折り紙の作品を見て彼はこう言ったんだ。『僕にも作り方を教えて下さい』ってね。普段誰とも喋ろうとしない子だったから驚いたんだけど、いい傾向だと思って教えた。みるみる内に上達してね、家でも暇さえあればやっていたらしい。それでまず最初お母さんから苦情があった。『息子が折り紙なんて幼稚な事に没頭し全然勉強をしなくなってしまった。余計な事をしないでほしい』、とね。何が勉強なんだか、全然解ってないのにとにかくさせたがる。一種の病気だね。息子に自分を重ねてる。重ねるならまだいい。そこまでしたらペットだ、人間じゃない。扱い方がどうとかの範囲を超えてる。彼は彼だ。そうだろう? 好きに勉強する、しないくらいの判断はさせるべきだ。本当に一人の存在として認めているなら」
私は鋭い目つきになったゲコを不思議に思いながら見つめた。普段、彼は何処か飄々とした所があり、認めたくないが茶目っ気というか可愛げのあるところがある。それが今はなりを潜め、真剣に子どものことを考え話している。端整な顔、とは思っていたが、不覚にも少しどきりとした。自分でそれを認識すると、どういう訳か目の前の男に噛みついてやりたくなる。私の中にいる男との対決だったのかもしれないし、違うのかもしれない。ただ、ゲコに対して反論したい、言い負かしたい、という強い欲求が知らず知らず生まれていた。
「しかし、親なら子どもにいい道を歩ませたいと考えるのは自然ではないですか? 将来の事を考えても、やはり学歴は大きなステータスに成り得ますし」
「いい道って、なんだい?」
触れば切ると言わんばかりの声だった。
ゲコはその表情から全くの余裕や笑みを消し、ただ、こう呟く。
「どうすれば幸せになれると思ってるんだい? 君」
言った後で後悔した。この人間は、絶対に怒らせてはいけない部類の人間だ。心は何処までも燃えながら、表面は青く、長く灯り続ける炎のように、敵である人間は容赦なく叩き潰す。正論暴論全て使ってでも倒す。そんな雰囲気をひしひしと伝えてきた。
喉の奥が渇き、何を言った物やら解らなくなった私は「いえ、それは……」と言葉を詰まらせる。当たり前だ。元々対決するつもりなど無かったのだから。
その動揺を見、少しゲコは口元を緩める。少なくとも対決するような空気では無くなった。
「この社会はレールで出来てる」
ゲコはそう言い指を一本一本合わせ、ちゃぶ台に置く。
その指が長く、節々が太くなっているのが、妙に色気を感じさせた。私はおかしいのだろうか、と赤くなった顔を誤魔化すため、俯く。
「そのレールにはこう書いてある。『途中下車歓迎、途中乗車厳禁』とね。僕はね、そんな下らない詰らない乗る人間が初めから限られてるレールなんて、たかが知れてると思ってるんだよ。良い高校入っていい大学入っていい所へ就職する。いいね、最高に高級で、最高に退屈な人生だ。どうぞ楽しんでくれ。死んでから後悔したくないのなら。――それしか言えないし思わない。僕はね、そんな真っ直ぐな、平坦で、面白味もなく、自分で考えもしない人生を送る人間には、絶対なりたくないと思ってるよ。そして矛盾してるかもしれないけど、ここにいる子達にもそれを教えたい。道なんて何処にでもある。見つけにくいだけじゃない、確かにその道は少ないし険しいだろう。けれど、だからこそ楽しいんだと。人間になるには人間を知るしかない。知りたければまず人の中で損得勘定抜きで付き合わなければならない。だから僕は亀田さんに言ったんだ。『あなたのお子さんは、素晴らしい子です。それは、勉強が出来るなどという詰らない事では無く、もっと大きなもの、誰かのために何かしようと出来る子なんです』とね」
「誰かのため……?」
そう訊き返すと、くすりとゲコは笑い、
「先週かな、彼のクラスの女の子なんだけどね、病院に入院したんだよ、何でも長く治療のかかる病気らしい。その子とは一心君も比較的仲が良かったらしいんだけど、切っ掛けは折り紙でね。教室で作っていた所にその子が来て、興味深そうに見ていたらしいんだ。それで、一緒に作り始めた。その頃から彼は変わり始める。勉強ももちろんやっていたけど、それよりもその子と折り紙をする時間が何よりも楽しかったんだろうね。そんなこと、授業でなんて誰も教えてくれない。彼は自分の世界が広がったんだよ。そのエネルギーを他の所で使う事も覚えた。この教室でも皆と一緒に喋れるようになった。下の学年の子に教えてあげる事も出来て、将来の夢も見つかった。そんな時、友達の彼女が入院した。突然ね」
「では今回のお母さんの心配とは……」
「授業中に寝ているらしいんだよね、ぐっすりと。確かにこれはあの母親にしてみれば晴天の霹靂だろう。あの真面目な一心君が授業中寝ているんだからね。母親は心配で堪らない。子どもが情けないし、将来がこんな所で途絶えるかもしれない、なんて思っていてね。そんな道なんて最初から無いんだよ、と僕なんかは思うけど」
「じゃあ、一心君が寝ていたのは……――」
ゲコは、本当に、そのことが嬉しくてたまらない、と言う風に微笑み、その見る者を惹きつけて止まない引力を持った瞳で、
「千羽鶴だよ。ずっと作っていたんだよ一人で。誰にも言わず、たった一人でね。毎日夜遅くまでさ。彼の様子を見てればそれくらい解る。教室で寝てても、僕は何も言わなかった。むしろ誇らしくさえ思った。そんな事を誰に言われた訳でもなく行えるようになった彼にね」
私はもう、何も言う事が出来なかった。一心君が言った事を思い出す。
『まるで理由なんて知らないんだろうけどあげるよって言ってくれて――』
理由などゲコはとうに知っていたのだ。一心君が折り紙が必要な事も知っていて、さりげなく渡したのだ。
もう一度ゲコを見た。悪戯っぽい顔をし、私に向け言ってくる。
「だから母親に言ったんだ。勉強ばかり出来る子よりも、あなたの息子さんは遥かに大切な事を知っています――ってね。それはあなたの教育の成果です、ともちゃんと付け加えておいたよ。自意識の強い人間に賞賛は一番の麻薬だからね」
ふう、と息を吐き、私は立ち上がる。
「謎は解けたかな? スティーさん」
私はゆっくりと笑った。心から笑えたのは、何日ぶりだろうか。
「一心君が変われたのは、先生のそのおかしな所が原因という事は解りました」
久しぶりに出た心の奥からの笑顔を見て、何故かゲコが顔を赤くする。
急に態度を変えそわそわし始めた彼を私が不審げに見ると、
「――……君は、一か月以上、働くことは出来るかな?」
と訊いてくる。
「……はあ、まあ。春休みが終われば時間は夕方になるとは思いますが、その時間帯でよければ、続けても構いません」
このおかしな男を傍で観察するのも面白いだろうし。私は自分でも気づかぬうちにまた、笑ってしまっていた。
しきりに指と指とを擦り合わせるゲコは、私と決して目を合わせようとせず、
「今色々忙しくてね。ちょうど手伝いが欲しかった所なんだよ」
と言った。
何故かその態度が可愛らしく映ってしまい、また微笑む。
ゲコは見る見るうちに赤くなり、おお、正に茹でガエルだ。と場違いに思う。
「では、その、どうだね、僕の手伝いをしてもらう、というのは……」
――可笑しな、男。
くすりと心でそう呟いてから、返した。
「給金を、もう少し上げて頂けるなら」
私とゲコが出会ったのは、そんな春も盛りの頃。
彼をもっと良く見てみたい、と私は無意識に思ったのかもしれない。
それは私の人生において、教科書ならマーカーでぐるぐる何度も囲むような、そんな出来事だと言って間違いないと思う。
もしもう一度あの時に戻れたとしても、私は結局また同じ事をするのではないか、とそんな気さえしている。笑って言う。
「――よろしくお願いします、先生」
ゲコが咳をしながら、「こちらこそよろしく、――スティーさん」と呟いた。
おかしくなってまた微笑む。
埃にまみれるのは嫌いじゃない。
この家の、何だか落ち着く空気も。
形に成らない思いを胸に。
いい気分で再び、私はゲコの部屋へと向かったのだった。