マママン
「もとむ……」
5年ぶりに見た息子は実物ではなかった。
休憩中、「大谷さん、これマジ面白いですよ」とアルバイトの近藤くんが見せてくれたスマートフォンの画面に息子がいた。
「近藤くん、これいつ撮ったの?」
「え、俺が撮ったんじゃないですよ。大谷さんYouTube知らないんですか」
聞いたことはあった。だが、息子のようなただの素人が顔を出して動画を載せているものだとは思わなかった。
「俺、結構YouTuber好きで見てるんですよね」
近藤くんは楽しそうに動画を見ている。
「それ、危なくないの?顔なんか出して」
近藤くんは画面から目を離し、不思議そうな顔をする。
「何がですか?YouTubeですか?」
うん、と頷くと、「大谷さん、ネットを何だと思ってるんですか」と笑われた。
私が黙っていると、「じゃあ大谷さん」と近藤くんが話しだした。
「毎日スーパーで色んな人と顔を合わせますよね」
私は相槌を打つ。
「特に、大谷さんはレジ担当だから、一日店にいれば何百人に顔を見られるわけですよ」
近藤くんはそこで一度区切った。
「それって、危ないですか?」
近藤くんの理屈は分かったが、納得できない。それにスーパーの場合は、面と向かっているのでお互いの顔が見えている。
やはりインターネットで顔を晒すのは危ないことだと思った。
「それより大谷さん、こいつ“ムッコ”ってYouTuberなんですけど、まじ面白いんですよ」
近藤くんからスマートフォンが手渡される。
画面の中で、もとむが喋りだした。
『ハーイ、ムッコでーす。今日はね、健全な企画ですよ。今日はコレ、じゃん!』
虫かごがテーブルに置かれる。
『ゴキブリドッキリ~』
虫かごの中には黒い虫がうじゃうじゃいた。
ひー、と叫んだが声にはならなかった。一緒になって動画を見ていた近藤くんは顔をしかめていた。
「すみません、大谷さんに見せるような動画じゃありませんね、これ」
私は立ち上がって身支度を始めた。
「え、どこに行くんですか」
近藤くんが、映像が流れるスマートフォンを持ったまま見上げる
「休憩終わり。もう行く」
私は三角布を頭に結んだ。
「あと、15分ありますよ」と近藤くんが言っていたけれど、無視して休憩室を出た。
次の休憩の子に、ちょっと早めに代わってあげる、と言ってレジに入る。
閉店の21時まで、あと5時間。もうすぐ夕飯を作る主婦たちでピークがくる頃だ。
一人の男性客がレジにきた。
いらっしゃいませ、と言い終わる前に、何かをぼそっと言ったように思えた。商品を持っている様子もない。
「マルメラ一つ」と、タバコが陳列された透明なケースを指さす。
タバコを買いに来たようだ。しかし、マルメラという商品はない。
「お客様申し訳ありません。当店では、マルメラというおタバコは取り扱っておりません」
男性客の目が見開かれる。
「そこにあるだろうが、それ」と透明なケースを指さす。
慌てて探すが、やはりマルメラという商品はない。
その間にも、「それだよ、それ」と男性客は大声を出す。
その大声で焦りが増して、手は探しているのに書かれた商品名が頭に入ってこない。
「こちらですね」
大きな手がするっと一箱をつまむ。
「申し訳ありません。おばちゃんにはマルメラが分からなかったようで」
近藤くんだった。
男性客は思わず吹き出し、気まずそうに笑った。
「そうか、悪いね。正式な名前で言わんとね」
近藤くんはレジ担当ではないのに、その男性客の会計が終わるまで隣にいてくれた。
「俺だけ休憩してたらサボってるみたいじゃないですか。あと、さっきはすみませんでした」近藤くんは爽やかな笑顔で言った。
鮮魚担当の近藤くんは、アルバイトなのに頼りになる。背が高く爽やかな笑顔でパートの主婦たちに人気だった。しかし業務は裏方で、刺身を盛り合わせたり、鮮魚をパックに詰めしたりしている。
30年前ならともかく、息子と同い年の男の子に優しくされても変な気は起こさなかった。
「いま、おばちゃんって言ったでしょ」と近藤くんを小突く。
「ははっ、すみません」
「あ、俺も知ってるっすよ。こいつらバカっすよねー」
閉店後、休憩室では、帰り支度を終えた近藤くんと高校生のアルバイトの子が二人で話していた。
「でも、めっちゃ楽しそうでいいよなあ」
二人で一つのスマートフォンを見ていた。映像の音声が、部屋の隅っこをカーテンで仕切っただけの男女兼用更衣室まで聞こえてくる。
「最近見つけたんだけど、“ムッコ”って奴知ってるか」
「いや、知らないっす。どういう系の動画の人っすか」
「東海オンエアみたいな感じ」
二人の話し声が途切れ、音声だけが聞こえる。
同時に「えー」と声をあげた後、二人とも笑っていた。
「こいつらちょー楽しそう」
「ちょーバカっすね。でも、こういう奴らって10年後はどうしてるんすかね」
「今が楽しくて、そんなこと考えてねえんだろ」
「ラーメン屋でも開くんすかね」
「その言い方はなんか、ラーメン屋さんに失礼だぞ」
私はずっと掴んだままだったエプロンの結び目の紐をひっぱった。
「ところで若夫さん、正社員の話どうするんすか」
そんな話が出ていたなんて私は知らない。
近藤くんは黙っていた。
「こんなスーパーの正社員になんて、なりたくないっすよね」
高校生のアルバイトの子は気にせず喋り続ける。
「だいたい、なんのためにアルバイトをしてるのかって話っすよ。他にやりたいことがあるから金を稼ぐ手段として――」
「ちょっと考えてみることにした」
近藤くんが、遮って言った。空気が変わったのがカーテン越しに分かる。
「え、若夫さん、じゃあバンドはどうするんですか?東京行かないで諦めるんですか?続けますよね?今までなんのために――」
「うるせえぞ」その声はいつも穏やかな近藤くんじゃないみたいだった。「お前には関係ないだろ」
イスが鳴った。物を持つ音が聞こえる。
「若夫さん」と小さな声が聞こえた。「すみません」
それには答えずに近藤くんは休憩室を出ていってしまった。
私は、結び目がほどけたエプロンをようやく脱ぎ始めた。
アパートに戻ると部屋は暗かった。22時を回っている。夫はまだ帰っていない。
レジ袋から弁当を一つ取り出しレンジに入れる。半額のからあげ弁当を二つ買っていた。温めている最中に夫は帰ってきた。
「ごはんは?」
「食ってきた」
レンジがチンと鳴る。
夫は冷蔵庫を開けて缶ビールを取りだした。
温まった弁当をダイニングテーブルに置いて、冷えているもう一つの弁当を袋のまま冷蔵庫に入れようとする。
「待って。からあげだけ、ツマミで食うから」
持っている袋から弁当を出して夫の前に置く。
「温めてくれよお」
私は夫のためにもう一度レンジのスタートボタンを押した。
私はからあげ弁当を、夫は缶ビールとからあげを。同じテーブルに座っていたけれど、もとむのことは話し出せなかった。
久々に催される明日のママ友会が憂鬱だった。
「昭夫くんの話知ってる?会社辞めたらしいよ」
「じゃあ今どうしてるの?」
「なんにもしてないんだって」
「引きこもりってこと?」
主婦が集まれば、話題の中心は子供のことになる。それに夫の話と、人によっては夫の両親の話が加わる。
中学の同級生を元にしたママ友グループなので、一番の話題はやっぱり子供のことだ。
私から語ったわけではないのに、もとむが高校卒業と同時に勝手に上京したことをみんな知っていた。
ママ友会には変わらず呼んでくれて、今まで通りに接してくれるけれど、息子についての話を振ってくることはなくなった。
なので私も、子供のことが話題になっているときは黙っていることにした。もともと口数が少ないほうなので問題はない。
「今の子って、ずっとパソコンで遊んでるよねえ」
「うちの子も帰ったらすぐパソコン。小さい頃は外で遊んでたのにねえ」
「でも私も結構パソコン見るよ。YouTubeって知ってる?」
子供の話題が続きボーっとしていたが、その言葉で現実に戻る。
「お菓子の作り方とか、お料理の手順とか、動画で説明してくれるのよ」
「へぇ、私はパソコンっていったら、クックパッドくらいしか見ないなあ」
「私も。YouTubeってどうやって見るの?」
「あら、大谷さんも興味ある?」
以前に教わったクックパッドで料理を検索するやり方と同じだった。検索サイトを開き、『YouTube』と入力する。YouTube内の検索欄に『クッキー 作り方』と入力するだけだ。
夕飯時まえにママ友会が終わった。アパートに戻ると、夫と共有のノートパソコンでYouTubeを開いた。
『むっこ』と検索してみる。関係のない動画がたくさん出てきた。
検索欄の下に『ムッコ ユーチューバー』とあったので、クリックすると“ムッコ”の動画がたくさん出てきた。
小さい画面にもとむの顔が映っているものもある。
その中で『【飲み動画】リポビタンD侍×ムッコ』というタイトルの動画をクリックする。
散らかった部屋で、もとむと、もう一人同じような歳の子が二人でお酒を飲んでいるだけの動画だった。
「俺はみんなを笑顔にしたいんだよ」
もとむはかなり酔っているように見える。
「分かった、うるせえって。じゃあ、この間貸した20万円を俺に返して、俺を笑顔にしてくれよ」
「うるせー、お前のほうがうるせー」
動画はまだ続いていたが、スクロールして画面の下を見る。
動画を見た人からのコメント欄があり『20万も借りてるのかよwwwゲスwwww』というコメントが目に入った。
私はそれを見てノートパソコンを閉じた。
夫にメールを打つ。
[今日も遅いですか?ごはんは?]
私がメールを送ってから一時間後、カレーを煮込んでいるときに返事がきた。
[遅い。飯は食ってくる]
次の日、スーパーに行くと近藤くんはいつも通りだった。高校生のアルバイトの子とも普通に話していた。
昨日、カレーライスを食べてから、もとむの動画を見た。法を犯すようなことはしていなかったけれど、ご近所やママ友には知られたくないようなことをしていた。
色々な動画を見たけれどたくさんあって見切れなかった。
夫は私が寝た後に帰ってきたので、もとむの話はできていない。今朝、今日は早く帰られそうだ、と言っていたので、今夜は話せるかもしれない。
「大谷さん、昨日のドラマ見ました?」
今日も近藤くんと休憩が一緒だった。
「染谷将太の演技力やばいですよね。才能ある人は違いますよねえ」
開店から出勤していた私は、17時にはあがることができる。
もとむの動画を見ていると夫が帰ってきた。
「お、カレーの匂い」
「そう、昨日の残り」
「冷蔵庫に残ってたもんな。珍しいな、パソコンなんか開いて」
当たり障りのない内容の動画を選んで夫に見せた。
顔を見ていると、みるみる不機嫌になっていくのが分かる。夫は何も言わずソファに座り、テレビを見始めた。
パソコンでは、もとむが楽しそうに笑っている。
もとむの笑顔を最後に見たのはいつだっただろうか。中学生の早い時期から思春期に入ったもとむは、高校を卒業するまでの間、狭いアパートではぶすっとして過ごしていた。
カッカッカと笑う声は特徴的で、他の子たちと一緒に笑っていても聞き分けることができた。
向こうからカッカッカと笑う声が聞こえる。夫はいつの間にかテレビを見て笑っていた。
本当は17時あがりだったのに、15時にあがらせてもらった。
ミスをして泣いてしまったのだ。この歳になって、失敗して泣いてしまうなんて、すごく恥ずかしかった。
クーポン券を使用するためにボタンが分からずモタモタしていると、虫の居所が悪かったのか女性客が大声で文句を言ってきた。関係のないことまで罵られ、ただただ謝っているところを店長に助けられた。そのまま休憩室に逃げ込み泣いていると、店長が来て、今日はあがっていい、と言われた。
しかし、アパートに帰る気にはなれず、他のスーパーへ買い物に行くことにした。
夕飯の食材をカゴに入れ、いつもは食べないちょっと高めのチョコレートをカゴに入れたとき、妊婦さんを見つけた。大きなお腹を気づかって歩いている。ゆったりとカートを押して精肉コーナーを見ていた。
もとむも、私のお腹の中にいた時期があったのだ。今は離れて暮らしているけど、もとむを想う気持ちは変わらない。
いつの間にか立ち止まって、妊婦さんを見ていた。すると背の高い男の人が妊婦さんにかけ寄ってきた。
近藤くんだった。
驚いて小走りでかけ寄る。
「近藤くん?」
振り向くとやっぱり近藤くんだった。驚いた顔も爽やかだ。
「大谷さん」
「近藤くん、結婚してたんだ」
驚いた顔はいつもの笑顔になる。
「はい、もうすぐ子供も生まれるんです」優しい目で奥さんのお腹を見る。「こちら、妻の早苗です」
奥さんがぺこっと頭を下げる。
近藤くんが奥さんを紹介するのを聞いて私は大笑いしてしまった。
近藤夫妻は、私が何にウケているのか分かっていない様子で、困った顔をしている。
「“妻”って、近藤くんが“妻”って。いつもは刺身にツマを添えてるのにね」
私は笑いが止まらなかった。もとむと同い年の近藤くんが自分のパートナーを「妻」と表現したのがたまらなく面白かった。
近藤夫妻もなんとなく微笑んでいる。
「大谷さん、それ、クソつまんないですよ」
それから少し話をして、近藤夫妻とは別れた。会計をしにレジに向かうと、走ってきた近藤くんに呼び止められた。
「いずれは知られることだけど大谷さんには今言っておきます」と近藤くんは話し始めた。
「俺、正社員になるんで、これからは大谷さんを使う側になります」
「そうか、頑張ってね」と言ったら、「全然驚きませんね」と残念そうにしていた。
アパートに戻ると17時頃だった。
骨つきの鶏肉を醤油で煮込んでいる間、もとむの動画を見ていると、夫が帰ってきた。
「どうした、パソコン見てニヤニヤして」
「え」
私は、もとむの動画を見て笑っていたようだ。
「実は、俺も気になって、昼休み中にスマホで見てみたんだ。あいつ面白いこと言えるんだな、知らなかった」
夫は、「シュークリーム」と言って、持っていた箱をテーブルに置いた。
「今日の動画見てみろ」
どうすれば見られるのか分からなかったので、夫にマウスを任せる。
『【祝!!】チャンネル登録者数200人!!感謝サンキュー』というタイトルの動画だった。
「チャンネル登録者数?」初めて聞く言葉だった。
「チャンネルに登録すると、例えば、こいつのチャンネルに登録すると、こいつが動画を更新すれば分かるようになるんだ。チャンネル登録者っていうのは、まあ、ファンみたいなもんだろうな」
クリックすると動画が始まった。
登録者数が200人を超えた感想と、これからの意気込みを話していた。
『ハイ、ということで、これからも応援よろしくお願いしまーす!』
『オイ!産んでくれた母ちゃんに感謝の言葉はねえのかよ』
画面の外から茶化す声が聞こえる。
『ねえよ、んなもん!大体、うちの母ちゃんがYouTubeなんて見られるわけねえだろ』
『いいから言えって!200人だぞ!?』
『200人と母ちゃん関係ねえ!』
『言えよ!!』
『分かった分かった。言うって。えー、母ちゃん、俺生きてっから。みんなを笑顔にしたくてYouTube頑張ってってから。よろしく!』
もとむの照れた顔を最後に動画が終わった。
私の息子は仲間に囲まれて楽しそうにしていた。
好きなことを好きなように続けていくのは難しいことだ。大人になっていくにつれ、それは、どんどん困難になっていく。
私の息子はその困難に立ち向かっていた。
コメント欄を見ると「おめでとう!」「これからも頑張って」など、応援メッセージが書かれている。
「このコメントって私でもできるの?」
わざと早口で言う。そうしないと声が震えそうだった。
「ああ、できるよ」
しかし、コメントをするためにはアカウント登録が必要だった。
「じゃあ、登録して」
夫に登録してもらう。これでコメントが入力できるようになった。
私は、検索以外で初めて文字を入力する。
マママン:登録者数200人おめでとう。たまにはウチに帰ってきなさい。
初の共同作品です。
ストーリーを話し合った日に熱をあげてしまって、すごく辛かったです。@砂糖