夜釣り
もう随分暖かくなったものだと思う。
日の出と日没の間に笑い続けた太陽はやっと山壁の向こうに姿を隠し、街は煌く人工の宝石に埋め尽くされて夜の闇を押し返していた。
夜行性の車が色とりどりの人間たちを飲み込んでは吐き出す。他方、ビルの断崖のほとりでくたびれた者たちが明日への指針をどの程度の精度で刻もうかと思案している。
予定を実行に移すために帆柱を立てて、風向きと潮の流れを読んで行動を起こすように見えてはいるが、結局は流れに任せて漂う漂流者たち。
その漂流者のひとりであるおれは、繁華街の裏通りにある公園の歩道をひとりで歩いていた。
まだ暖かさの残る湿り気を含んだ夜風がざらりとシャツの襟元を撫でて通り過ぎてゆく。
おれは今から家に帰る。その予定だけははっきりしている。家に帰るという目的を完遂するためにおれはただひたすら、ひとりで歩いている。
時折すれ違う他人はみな一様に頬をほんのり上気させ、またあるものはより赤く茹っている。
漂い香る酒の匂い。だしぬけに今日は週末であると思い至る。
ふと、足を止める。
おれは明日、なにか予定があったろうか?
漠然と日常を生き、漂い続ける途上で日々の糧を啄ばむだけの無意識に近いこの生命活動に、何か能動的な欲求をおれは持っているのだろうか。
週末であっても、外食を楽しんだり酒を飲みに行かない。家に帰るが、誰かが待っているわけでもない。明日の予定は? 特に無い。
煌々とした街の明かりが公園の芝生の向こうで踊っている。雲の間から顔を出した星たちがけらけらと笑う。
そして目の前には帯封に巻かれた一万円札の束。
「え?」
おれは瞬きをした。何故、目の前にこんなものが……。空中に浮かんだ一万円札の束が、すぐ手の届くおれの眼前にある。
見慣れた大きさ、絵柄。よく見れば端っこにナンバーも刻んである。帯封に巻かれるその束は、おそらく合計百万円。
見れば見るほど完璧な一万円の束だった。異常などどこにも無い。
空中に浮かんでいることだけを除いては。
そしておれはその状況を深読みするほど用心深くはないし、無視して立ち去るほど臆病でもなかった。目の前の一万円札の束を、掴んだ。
続く光景は圧巻だった。ぐんぐんと引き上げられ視界は白くぼやけ始めた。おれは空へ上っている、ホワイトアウト。頭から血の気が失せ、意識が白濁する。
「釣れたよ」
雲の上まで引き上げられたおれは、気をつけの姿勢のまま横たわり、抵抗するようにぴちぴちと跳ねながら雲上人の言葉を聞いた。釣られたのか、おれは。
何故かおれの手足は縛られたように動かない。雲の上に釣り上げられたときに手から離れた一万円札の束を見つけ、身をよじって近付きそれを口に咥える。
旨い、これさえあれば美味しい料理をたらふく食って好きな酒が飲める。
きらきらの街に繰り出して色とりどりの女性と楽しくやれる。
遊びに飽きたら温泉にでも行って疲れた身体を洗い流そう。
そうだ、明日は久しぶりにパチンコにでも行くか……。
「――今日はよく釣れるね」
「そうだね、給料日前の週末はだいたい釣れる――」
そこで我に返った。
なんだ、やりたいことは結構あるじゃないか。家に帰っていった。
2ちゃん投下分を加筆訂正して投稿しました。
投下当時、一人称は「わたし」でしたが、それでは女性を表すのが一般的ではないかという御指摘を戴きました。推敲時から男性を書いているつもりだったので「おれ」と改めました。