「何で言わねぇんだよ」
――――鈴子はお姉ちゃんだから。
よく言われた。
毎日、年数をかけて刻む込むように繰り返されたその言葉は私の心を次第に蝕んで、我儘が言えないように刷り込まれていった。抗うことも出来ず、私はただ口を閉ざした。そうすることで喜んで貰えると知っていたから、私は自ら進んで黙るようになっていったのだ。
我儘を言ってはいけない、決して甘えてはいけない。
それが十数年かけて私の中に植え付けられていった犯せないルールだった。
まるで鈍器で殴られているような重く苦しい痛みが頭を襲う。偏頭痛にいつも悩まされていた。この痛みがいつから始まったのか、はっきりとは覚えていないけれど中学生のころには既に頭痛に悩まされていたと思う。お小遣いで頭痛薬を買っていたのが記憶にあるから。
起き抜けの寝ぼけ眼で静かに右目を覆う。何となく習慣になっているこの儀式に意味は見出せないけれど、少しでも世界を直視しなくて済むような不思議な安心が其処にはあった。視力が悪い左目だけで世界を見る。今日も変わらず左目はぼやけた天井を写し出した。
ああ、そうだ、今日休みだっけ。
頭が段々とはっきりしてくる。思考が働き出す。気怠い身体を起こそうとしてやっぱり辞める。今は何時なんだろう。ベッドサイドに置いてある目覚ましを見てゆるゆると時間を確認した。
午後十時、いつもならアルバイトが始まっている時間だ。
漸く起き上がって寝室を後にする。
1LDKのリビングが広いこの部屋は本来の家賃の半分以下で借りている特別物件だ。七万弱の家賃が三万円、実家を出て一人暮らしを始めて程なく知り合いになった友人のお兄さんがこのマンションの持ち主で口を利いて貰ったという訳だ。入居者はこの部屋以外満員で、本当なら自分の妹にと用意していた部屋らしいがその妹が彼氏と同棲を始めると言ってそれ以来同棲解消の可能性を考えて空室にしていたらしかった。その妹が私の友人である。彼女は心配性な兄に辟易としていたようで、同棲を解消したとしてもここに戻って来るつもりは無かったそうだが、私が住むのであれば彼と別れたのちこの部屋に住んでもいいと思ったらしい。そうして自分の兄に「鈴子がここにいるなら別れた後この部屋で鈴子と同居してもいい、居ないなら別のところを借りて住む」と条件をつけて兄の過保護を受け入れた――風を装った。こっそりと耳打ちされたが、現在の彼氏とは別れるつもりもなければ結婚の約束もしているとのことだ。おそらく私が彼女と同居する日は来ないだろう。
一人だと余計に広く感じるリビングに出て、予定を考える。
――明日は振り込みに行こう。
毎月三万円。実家に仕送りするお金だ。仕送りしてくれと言われたことはない。けれど、“妹”に何かしてあげなくてはならない、と強い強迫観念に襲われていた。もしかしたら罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。
けれど。
何度生まれ変わったとしても、きっと私は同じように繰り返す。
グラつく頭で携帯を見て、着信履歴を確認する。みーくん、と未だに変えられていない名前が二つ縦に並んでいた。
“恋人”を利用していたのは、私も同じ。こんな風に寂しさに溺れた時はいつも恭平が傍にいた。都合の良い時だけ利用していた癖に、あの日の恭平を責めた私はなんて厚顔な女だろう。図々しいにも程がある。
唇を歪めて浮かんだのは自嘲の笑み。
弱った時にだけ傍に居るような、都合が良い男が現れたりしないかな。
そんな浅はかな考えを浮かべながら処方された頭痛薬を飲んで水を流し込む。
もし、そんな男が居るなら。
きっと私みたいな女とは出逢わない。
元来、世話焼きな私がそんな尽くしてくれる優しい男を捕まえられる筈がないんだから。
着信履歴からみーくんを選んで掛け直す。本当のところあの態度は大人気なかったと反省はしている。睡眠不足で苛々していたのは自覚があった。コールが三回目に入ったところで、みーくんが電話に出る。
「りんちゃん?起きた?」
「――今、起きた」
「この時間に電話ってことは、今日はお休みだったり?」
「……」
そうだ、何で忘れてたんだろう。夜の十時を過ぎて電話を掛けるだなんて休みだと言っているようなものだ。図星を刺されて黙った私にみーくんの笑い声が聞こえる。
「うっそー。実は知ってたけどねぇ。出勤してないって店に行った奴らが言ってたからー」
「……性格悪いね」
なんてやつだ。
「性格悪いとか、俺からしたら褒め言葉だし?」
「じゃあ何が悪口になるの?」
「性格良いとか?」
「まぁ、ある意味イイ性格してると思うけど」
「ホンットにりんちゃんって聞いてた話と全然違うよねぇ……恭平は、たまーに暴走するけど基本は大人しいし言うこと聞くって言ってんだけどなぁ」
おっかしいなぁとみーくんは電話口で楽しそうに笑う。
「恭平、どうなったの」
言われて思い出した。と言うよりも、さっきチラッと恭平を思い浮かべて、以前の記憶に引き摺られるようにして顔が出て来ただけだ。
「んん、やっーぱそこ気になっちゃう?何でキョーヘイが気になんの?」
「そうやってはぐらかさないで」
「知りたい?」
うん、とは言えない。
「別に、いいけど。あの携帯は恭平に返したの?」
「恭平に電話でもするつもりだったりすんのかなぁー?」
「しない」
「じゃあ何で知りたいのか言えんだろ」
ああ、出た、ミツル。へらへらしているみーくんとは違う、命令形の怖いやつ。豹変しても彼は暴力を奮うようなことはしないけれど、突き放すような問い詰めるような冷たい声に無意識に肩が跳ねるのは仕方ないことだった。
「別に、知りたくないから。じゃあ、もう切る」
「リン」
「……なに?」
「恭平の事が知りたいなら光渦に来いよ。駅まで迎え寄越してやるから」
「いらない」
通話を切って俯く。
別に恭平の事が知りたいんじゃなくて、恭平がどうしてるのか知りたかっただけだ。いま来て貰いたいとは流石に思わないけれど、三ヶ月も付き合った恭平なら何か察してくれるんじゃないかって。浅ましい期待を一瞬だけ抱いた。
薬は飲んだのに、痛みは全く和らいでくれない。本当はこの薬が即効性じゃないことも、既に私に耐性がついて余り効かないってことも、気付いているし理解もしてる。
だけど、出来ることなら早く効いて。
それか、いっそ気絶させてはくれないだろうか。独りぼっちの寂しさと泣き出しそうな切なさは、私の心のやわらかい所をぎゅっと締め付ける。もしも今日この時に恭平が居てくれたなら、私はきっとその時だけは猫を被って甘えるんだろう。いつもそうしていたように、ただ人肌恋しくなった時は寄り添って。手を出さないと分かっていたから安心して寄り添えた。
でも、恭平は私を売った。
私も恭平に嫌気が差した。
そんな私がこうして恭平を求めるなんて、本気で馬鹿馬鹿しい話だ。案外、本気で私はおかしくなりつつあったのかも知れない。ヒステリックな振りは嘘でのはずで、なのに叫び出したかった。ぎりぎりと胃が締め付けられて、血の気が引いていく。
誰か、傍にいてよ。
誰か、気付いてよ。
絶対に口になんか出してやらない本心を押さえつけて、へたり込む。いよいよ堪らなくなって無気力に身体を投げ出した。
「し、おん」
向日葵みたいに笑ってくれる、大嫌いな私の妹。
随分と天井を長く見つめていた。電気のついていない、真っ暗なリビング。ずきずきと傷む頭を押さえてゆっくり身体を起こす。変わらない頭痛、今回はいつもより痛みが酷いかも知れない。もう二錠だけ、と頭痛薬を飲む為に力の入らない身体をなんとか動かして立ち上がる。
突如、鳴り響いたのは聞き慣れたメロディーで。頭に結構クる着信音量は、不快感を煽り苛立ちを生ませる。もう何度か見慣れた名前が表示されて、少し待っても鳴り止まないそれに仕方なく出ることにした。
「――なに?」
「何で言わねぇんだよ」
「……は?」
「開けろ。玄関前にいる」
ぶつり、と切れた通話に眉を寄せる。
なに?なんなの?今日は本当に勘弁して欲しい。相手をする余裕が今はない。帰って貰おう。
そう思って薄く開けたドアは勢いよく引かれて、重心を取られた私はそのまま前のめりになった。
「なんで恭平に会いたい?」
「みーくん……」
ドスの利いた低い声は、私の耳に静かに響く。みーくんは無表情で、倒れ込みそうになった私の身体を咄嗟に支えてくれた。だけど、やんわり力を込めてみーくんからそっと離れる。
「リン、お前……」
ごめん、見ての通り余裕ないの。察してくれないかな、と言葉は浮かんで来るのに告げられない。ふっと暗転した私の視界は真っ黒に塗り潰されて、最後に聞こえたのは珍しく焦ったようなみーくんの声だけだった。