「……――ゆ、め」
結局、羽柴充――じゃなくて、みーくんは私が仕事に行くまで部屋に居座った。本来の目的は私をコンビニまで送って行くことだったのか、コンビニに到着したらあっさりと手を振って彼は帰って行った。
羽柴充と居ると調子が狂う。恭平とは全然違うタイプで、掴めないというか、理解できないというか。
チャラい口調でにやにやと笑いながら意地悪を言ってからったりしたかと思うと、急に真面目な顔になって言うことを聞かせようとしたり。
出勤時、退勤時には必ずメールを入れるように言われた。急なシフト変更も知らせろと言われた時には私のストーカーか何かを始めるつもりなのかと呆れてしまった。束縛が意外と激しい。そんなタイプにはあまり見えないのに。
胸の奥が焦げるような、腰が砕けるような、痺れを孕んだ低い声は逆らうことを許さない。出来るだけする、と返事をしてしまったあたり私も馬鹿だけれど、有無を言わさないあの声には反射的に従ってしまいそうになるのだ。
狡い。
羽柴充は、狡い。
夜のコンビニは人が少なくて、基本的には静かだった。予定がなければ基本週六で入る私は一ヶ月もすれば仕事を覚え手の抜き方を知ってしまい、楽に仕事を終わらせることが出来るようにもなった。
お菓子の補充を終えて、眉間を軽く揉む。いつもより目が疲れてるのは、みーくんの金髪メッシュをじろじろと見ていたからだろうか。
緩いパーマが掛かったようなライトブラウンの髪に数本の金。髪型からもアクセサリーからも、みーくんのセンスの良さがチラチラ窺える。彼のファッションはひとつひとつが奇抜に思えるものの、決して彼に似合っていない訳ではない。派手過ぎるから敬遠したくなるだけで、つけている小物だとかアクセサリーだとかは数こそ多くて邪魔そうに思えるものの、全体を見れば「ああお洒落だ……雑誌のスナップとかに載ってるやつだ」と思わせられる。
それなのに、アクセサリーや靴はお洒落なのに、彼が黒ばかりの服を着ているのは何でだろう。しかも、サングラスまで掛けて、まるで自分を隠しているようだ。目立ちたくないなら髪を目立つ色にしなければ良いのに、わざわざフードを被って隠す意味がよく分からなかった。
黙々と業務をこなして、一時間の休憩に入る。
コンビニの中で買った梅おにぎりを食べながら片手にしたのは携帯電話。
暇だから、する事がないから、と何故か自分に言い訳をして、みーくんにメールを作成する。
“何で髪染めてるの?”
たったその一文だけを送信する。二分と経たずに帰ってきたメールには、やっぱり適当な返事。
“目立つからー”
“何で目立ちたいの?”
“俺が羽柴充ですよってコト。”
“じゃあ何でサングラスとかフードとか目立つ部分を隠すようなことするの?”
“目立ちたくない時はそうするんだよー”
納得出来たような出来ないような感じだけれど、取り合えず理由は分かった。つまり、私と一緒に居る時は目立ちたくない時なんだろう。というか、何も考えずに送ってしまったけれど、みーくんはこんな遅い時間なのに起きているらしい。
“よく起きてたね。”
“基本的に昼間寝るからぁー”
返されたメールを見て、非行に走った不良高校生の不規則極まりない生活リズムに呆れる。私は至って普通の高校生だったから、不良がどんな風に過ごしているのかは全く知らなかった。ついでに言うと部活もやっていなかったので、部活動に明け暮れていた子達の生活リズムも知らない。
バックヤードのデスクに頭を伏せて、目を瞑る。眠るつもりは全くないけれど、少しだけ休みたい。
――それがいけなかったのか。
心の奥深くに仕舞ってある思い出達は、たまに突然飛び出して来る。
その中でも比較的よく思い出す、砂になった私の記憶。
――姉ちゃん。
詩音が私に手を伸ばす。
純粋無垢な笑顔は、私にとって毒にしかならなかった。
――私に触らないで、今すぐ消えて。
詩音は全く飾らない輝いた瞳を私に向けて此方へ歩いてくる。
これは、確か。
小学二年生の頃の詩音。
ふわりと情景が変わって、詩音の場所が移動する。
ランドセルを背負って立ち竦む私と、横断歩道の――。
全身に嫌な汗が噴き出して、伏せていた頭を勢いのまま起こす。
「……――ゆ、め」
目を瞑るんじゃなかった。
後悔に唇を噛んでみても、真っ青になった顔色はすぐには治らない。携帯のランプがチカチカと点滅して、新たなメールの受信を知らせる。
「“休憩終わっちゃった?”……もう終わるよ」
届いたメールを読み上げて、返事をその場で呟いた。送るような時間は残されていないし、うたた寝してしまったからトイレで鏡を見ないといけない。ヨダレは出てないはず。デスクから立ち上がり動き出した私の頭の中に――詩音の姿はもう、ない。
「はい、お疲れさま」
交代の主婦のおばさんが来て、レジを締める。手早く引き継ぎを済ませてバックヤードに引っ込む。タイムカードに退勤時間を刻んでロッカーの前に座り込んだ。
ふくらはぎが痛い。今まで何もしていなかった身体は最近始めた寝る前のストレッチで大分柔らかくなったけれど、その反面筋肉痛になりやすい。本気に美脚になれるのか、と疑いがない訳じゃないけれど、まずはやってみないと始まらない。下半身を中心に行うストレッチはコンビニが立ち仕事ということも重なって、ふくらはぎを集中攻撃する。申し訳程度にふくらはぎを揉みほぐしながらぼんやりしていると、もはや相方と呼べるくらいに入る時間がいつも同じ松山さんがバックヤードに入ってきた。
「お疲れ。彼氏かな?来てるよ」
「はい?」
「この間いた……ほら、サングラスの」
「うわあ……」
私の反応に松山さんはきょとんとした顔をしたけれど、事情を説明する訳にもいかず曖昧に笑って誤魔化す。立ち上がって制服のシャツを脱ぎロッカーに掛けておく。コンビニ店員の制服のいいところはシャツが一枚だけで良くてしかも服の上から着てもオッケーなところだ。鞄を手に松山さんに挨拶をして、コンビニの店内へと足を踏み入れる。
「りんちゃーん」
ひらひらと手を振るみーくんと目が合って、手にした缶コーヒーを一瞥する。滅茶苦茶甘い、コーヒー。
「はし、じゃなくて、みーくん甘党?」
「んー……とくには?」
「それかなり甘いやつだけど大丈夫なの」
「でも似合うっしょ?甘い方が」
「まぁ、見た目には似合うかな」
似合うで飲み物を決めるのか。女子みたいな発想だ。
「りんちゃんなんか飲む?」
「お茶買うよ」
ペットボトルのお茶を一本抜き取って、レジに向かって歩く。みーくんも私と並んでレジに向かい、レジカウンターにはお茶とコーヒーが一本ずつ並べられた。
「ねぇ、何してんの。出すとか言わないよね」
財布を取り出した私にみーくんが突っかかる。意味が分からず眉を顰めたけれど、みーくんの顔の方が余程不機嫌そうだった。みーくんが出した千円はすぐに受け取られ、レジの中に入る。シールを貼られた缶コーヒーとお茶のペットボトルをみーくんが持ってコンビニを出て行った。
「ありがとう。でも、なんで……」
みーくんの分も一緒に払うつもりだった。そんな私に彼はいつもの笑みを一切浮かべず、呆れた目をして深いため息を吐く。
「りんちゃんさぁ、ずっとそんなのしてたの」
「年上だから普通だと思うけど。そんな顔する理由が分からない」
「俺、彼女にお金出されるの嫌いなんだよね。覚えておいて」
「……ごめん」
これは、プライドというやつだろうか。私は彼のプライドを傷つけてしまった、と?
「年上のカノジョに何か買ってもらうって“如何にも”って感じでサイアク。格好悪いじゃん?」
「うん、分かった」
そうか、恭平はよっぽど格好悪いということか。年下と付き合ったのは恭平が初めてだった。何から何まで新鮮だったのをすごく覚えている。お金を出すときも家に入れるときも、恭平が驚くのが新鮮でちょっとばかり楽しかったのは事実だ。暫くしたらそれは当たり前になり格段に厚かましくなって、遠慮なんてものが一切無くなった訳だけれど。
「えっと、今日は上下黒なんだ?」
話を変えるように振った話題だったけれど、あれ?と思う。この間みたいなダメージジーンズではなくて、黒のスラックスに黒いパーカー。全身黒の服を着たみーくん。パーカーは昨日見たものとは違う、胸元にワンポイントが入っているやつだけれど、基本的に彼が選ぶのはフード付きのものらしい。
「なにそれ、学校行けって言ったのはりんちゃんでしょーが」
「え、じゃあ下は制服?」
「そーだよ」
何を言ってるの、とでも言わんばかりの返事に苦笑する。まさか制服で来るとは思ってもみなかったから仕方がないと思う。
「上は?」
「学ラン重いし邪魔だし?」
「へぇ。光渦って制服は学ランなんだ」
「真面目に着てるヤツは殆んど居ないけどねぇ」
「学ランかぁ」
私の通った高校はブレザーだった。中学もブレザーで、学ランなんて電車の中で着ている生徒をたまに目撃するくらいで全く未知の制服。コスプレで着るもの、なんて変なイメージまでついているから普通に学ランを着ているのが珍しくて仕方ない。まぁ、みーくんはちゃんと着ている訳ではないけれども。上はパーカーだし。
「りんちゃんって学ラン好きなの?」
「好きっていうか、あんまり目にしたことないから珍しいって感じかなあ」
「見たい?学ラン見たい?」
急にテンションが上がり始めたみーくんは子供のようで、見たいと言わせたいのか何なのか、執拗に尋ねてきた。
「何でそんなに楽しそうなの」
「“俺”の学ラン姿が見たいってりんちゃんが言うからー」
「言ってない。まだ言ってない」
「ふぅん。まだ、ね?」
ああもう、うるさい。
“みーくん”なんて呼び方はチャラい羽柴充にだけ似合うもので、あの威圧的な喋り方を知っている私としては、たまに出る低い声の主は“ミツル”と呼び捨てにした方が似合う気がする。くん付けが似合わない人っていうのは確かに存在するらしい。まぁ、考えてみれば、かの有名な俺様俳優や年上の男性なんかに「くん付け」やら「あだ名」やらは妙に似合わなかったりもするし。
「ちゃんと学校行ってね」
「分かってるってばぁ。じゃあ、行ってらっしゃいのちゅーを」
「しないか、」
ら。
言い終わる前にするのは卑怯なんじゃないかな。
付き合い始めてまだ日が浅いのに、三回もキスをしておいてその全てが私の同意のないキスっていうのはどう言うことなのか詳しく聞いてみたい。
ぬるり、と入ってくる舌につけてあるピアスが私の舌に触れる。みーくんの口内で生温くなっているピアスはひんやりともしていなくて、ただ硬い部分が頻繁に私の舌に当たる。
一つだけ、言いたい。
「みーくん」
「なぁに」
「ここ外なんですけど」
しかもマンションの前。
溜め息を吐いた私にみーくんが笑う。
「りんちゃんってキスに関しては慣れてる感じ。嫌がったりしないよねぇ?」
「私よりみーくんの方が慣れてるように思えるけど」
「あちゃあ墓穴掘っちゃった」
「行ってらっしゃいおやすみなさい」
みーくんを置き去りに早足でエントランスに入る。ちらりと一度だけ振り返ったら、ゆるい動作で手を振っていた。
こう見えても、一応は二十歳。キスは何回かしたことがあるし、経験も…と言いたいが、実は恭平とも今までの彼氏ともそんな行為をしたことはない。恋人同士がするキスや恋人繋ぎ、腕を組んだり抱き締め合ったり――それは経験があるけれど、実際に最期まで進んだ事は無かった。嫌とかしたくないとかじゃなくて、そうなるきっかけが無かっただけだ。そんな行為に及ぶまでいかなかった。
それもすべては詩音――私の妹によって防がれて来たからで。
しかし、詩音は“意図して”邪魔をする訳じゃない。
だから、やっぱり単にタイミングが悪かっただけ。
恭平と付き合った時には詩音はいなかったし、そうなる雰囲気はあった。恭平がへたれで踏み出せなかった、ということだ。
「みーくんは、経験豊富過ぎてなんかやだな」
三日月を口元に描いたみーくんの顔を思い出して首を振る。
手が早そう。しかもかなり。
今までの彼氏に嫌だと思ったことはないけれど、みーくんはちょっとアレだ。
やりすてというものをされそうだから。と勝手に思いながら、本人の知らないところで彼との行為を拒否してみる。
玄関を開けて中に入ると慣れ親しんだ私の部屋の匂いに心底ホッとする。一丁前に大人ぶりたい私は、みーくんに“サボったら駄目ですよ”とメールを送って優越感に浸った。
学生は学生らしく勉強しなさい、私はのんびり寝ます。
そんな意味合いで送ったメールにほくそ笑みながら私は重大な事に気が付いた。優越感も何も、高校生から見たら私はフリーターという情けない立場で駄目な社会人の見本みたいなものじゃないのか。
今更気が付いても後の祭り。
送った大人気取りのメールは送信が完了しているのだから取り消すも何もない。
「メール見てフリーターの癖にとか言ってたりしないでしょうね」
まさかね、とひやりとしながら一先ずジャワーを浴びにバスルームへと向かった。
シャワーを終えて気分も爽快。冷蔵庫からいつものゼリーを取り出して蓋を開けた。
栄養補助食品の飲むゼリー。
恭平と付き合うようになってからの三ヶ月間は意外とストレスを溜めていて、食欲が失せるどころの話しじゃなかった。一日一食だけご飯を食べて、後はゼリーだったり大豆のバーだったりと適当な物ばかり。
だけど、恭平と別れて久し振りに“食べたい”と思った私のお腹は当然のようにゼリーじゃ足りない。ストックしてあったおつまみのスルメとめざしは無くなったし、昼前になったら買い物にでも行こうかと思った瞬間――
メールの受信を知らせる短い音が部屋の中で響いた。
「うわ、なんてタイミングの良いやつ」
メールの内容は“お昼ご飯買うの忘れたから持ってきて”というみーくんからの催促らしきものだった。
隣街の光渦高校までは電車で四駅。線路は道のりをかなり短縮していて、車では三十分掛かる距離を十五分の距離に縮ませることができる。電車で行けば確かに遠くも近くも無いけれど、こんな面倒な催促はしれっと無視してやりたい衝動に駆られる。しかも、私が出掛けようかと思った瞬間にこんなメールが届くなんて、完全に狙っているようにしか思えない。
まさか監視カメラとか盗聴器とかないでしょうねと怪しんでみたけれど、生憎私は買い物に行くということを言葉に出してはいなかった。ちっ。
「取り合えず、無理」
また都合が良い女だと思われちゃ堪らない。
カチカチとボタンを押して返信のメールを作成する。内容は“だからなに?”というとぼけたものにしておいた。
数分も待たずに返ってきたのは“買ってきて下さい”というもので、少し考えて文章を打ち返す。
“パシりにしないで”
“してません。お願いします”
“嫌”
“お願いします”
“嫌”
“おねがい”
果たしてみーくんは今までこんな感じでメールを打って来ていただろうか。何となく違和感を覚えるも、どうせ出かけるつもりだったし、まぁいっかと思い始める。
“何が食べたいの?”
やっぱり八方美人で馬鹿な私は溜め息を吐きながら眉間を軽く揉んだ。
“何でも良いです。”
みーくんから返ってくるメールは何故か敬語で、こっちもつい敬語になる。
“分かりました。”
携帯をソファーに投げ捨てて、ゼリーの空き容器をゴミ箱に放り込む。
姉ちゃん、と詩音が私の後ろをついて回る姿が一瞬だけ思い浮かんで、私は憂鬱になった。
――筋金入り、だ。
伊達に何年もお姉ちゃんをやっていた訳じゃない。
特に詩音は手が掛かった。だから何でもしてあげた。
詩音が泣いたら、詩音が困ったら、放っておけない私。
ともかく、昼に合わせて着替えや化粧をしなくちゃいけない。買い物は行った帰りに済ませることにして、取り合えずは身支度を整えよう。大きな欠伸をして眠たい頭を働かせる。
本当にタイミングが良い男だ。
今日明日は土日なのに珍しく二連休で、比較的に余裕がある。まさかシフトが知られたりしているんじゃないだろうかと一瞬怪しい考えが過ったけれど、それを知ったところで困るのはきっと私だ。何だかとても怪しいみーくんの顔を思い浮かべて、私は準備を始めた。