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透明  作者: 弘奈文月
1/9

「私、何をやってるんだろう」

別サイトからの移動です。数年前のものを加筆・修正した作品になります。




「詩音……」


 記憶の中に点在するいくつもの光。それはいつしか私の中で弾けて消えた。


 真っ暗な中で詩音が笑う。


 姉ちゃん、と呼びながら笑っている。


 私は目を瞑って見ない振りをした。


 消せない記憶は砂になって、さらさらと私の中に散らばる。


 透明な硝子みたいに綺麗で真っ直ぐな詩音(しおん)は、私の中で灰になった――








 私は何をしてるんだろう。

 ぼんやりとした思考で、静かに片目を覆う。

 左右の視力が僅かに違っているせいで覆わなかった右目だけがぼやけた世界を映している。そんな不安定な視界の中で恭平(きょうへい)がふいに振り返った。


 つまらなそうな、気怠げな表情で、恭平は唇を開く。


「終わり。……(すず)、帰るぞ」


 恭平の拳には微かに血が付着していて、横たわっている少年を見ると殴られた右頬が赤く染まっていた。


 恭平が狙ったのは少年の顔だけじゃない。腹部と背中、それから太股も。細い腕を振り上げて、成長過程にある細い足を振り上げて、恭平は少年に躊躇うことなく暴力を奮った。

 そして、恭平には傷一つ見当たらない。




 ――私の、柏木鈴子(かしわぎすずこ)という名前は少し古臭くて恥ずかしい。

 そう言ったら恭平は私の名前を呼ぶのをやめ、(すず)と愛称で呼ぶようになった。


「鈴?聞こえてんのか?」


 なにも答えなかった私に恭平が眉を顰める。片目から手を離して視界をクリアに戻し恭平を見据えながら、返事をしようと唇を開く。


 声は少し、掠れていた。


「うん、聞こえてる。帰ろう」


 差し出されたのは血のついていない方の手だ。

 私はその手を握って、ゆっくりと歩き出す。自分の部屋へ帰る為に、この場から離れるために。






 田舎か都会かと聞かれたら都会寄りなのだろう。ほどほどに発展しているこの街は若者が多く更に言えば血気盛んな生徒が属する男子校も多いことから、柄が悪いのだと高齢者には敬遠されがちだ。

 私が住んでいるマンションは特に柄が悪いと評判の芝原高校の間近にあり、私と恭平はその中間地点にある私の職場――コンビニで出逢った。


 深夜のコンビニで働くフリーターの私と、青春真っ盛りな高校生の恭平。


 どう考えても不釣り合いだが、何度も衝突し、その度に復縁して。謝罪はいつも恭平から、そして――折れているのはいつも、私だ。


 恭平は十七歳、私は二十歳。

 三歳の年の差は想像していたよりずっと大きく、次第に広がっていく溝はなかなか埋まらない。


 喧嘩に明け暮れ、暴力によって地位を確立している少年達はある意味輝いていて、しかし、滑稽だった。口に出しては言えないが、馬鹿馬鹿しいとすら思ってしまう。


そんな風に考えている事がもしバレたら――【奴】はひどく吠えるだろう。




「……たこ焼き食いたい」

「たこ焼き? また急に。えーと、買いに行く?」

「どこに?」

「コンビニ、しかないでしょ。今の時間帯を考えたら」



 深夜一時。良い子は眠る時間。

 私だって本当なら寝たいのだけれど、学校で喧嘩という名の勉強に明け暮れる不良高校生は真夜中こそ精力的で、声を掛けてきた先程の少年――恭平に負けた彼――はその事実を裏付けている。


「行く」


 少し考えて、恭平は答えを出した。

 予想していた返答に「はいはい」と返事をしてコンビニへと続く道を歩く。



 まるで、姉だ。

 もしかしたら、母親かも知れない。


 私は、彼にとって、本当に恋人なのだろうか。




 帰り道の途中でコンビニに寄って、目当てのものを買う。レジで財布を出すのは当然のように私で、もはや慣れた光景なのか恭平に遠慮はない。ありがとうの言葉すらない。

 お釣りを受け取って財布へ戻すと、コンビニ袋を恭平が握る。


 歩き出す。

 私を待たずに、彼はあっさりと先を歩いた。


 ――年上だから。

 ――社会人だから。

 ――彼はまだ、高校生だから。


 仕方がないことなのだと自分自身に言い聞かせる。



 私は彼に何を期待しているんだろう。

 高校生の彼に、大人な振る舞いをしろだなんて――本当に馬鹿げている。



 フリーターが住むにしてはえらく豪華なデザイナーズマンションの入口で、恭平は一旦止まった。一歩どころか数歩以上下がって歩く私が到着するのを欠伸をしながら待ち、彼は自動ドアを開錠しろと私に目線で訴える。


 暗証番号を入力し開錠すると、やはり彼はスタスタと歩きエレベーターに乗り込んだ。数秒遅れて私も乗り込み、自分の部屋がある六階へのボタンを押す。


 一瞬の浮遊感の末、到着を知らせるアナウンスが流れた。


 すごく嫌な、予感がする。

 玄関の鍵を開けて、並ぶ靴に愕然とした。


 恭平が自分で開錠しなかった事に疑問を抱くべきだった。何も考えず暗証番号を入力したが、それが大きな過ちだったと今更ながらに気付く。


「おう、恭平。どうだった? やりあったろ」


 部屋の中から聞こえた声に思わず顔を顰めてしまう。

 恭平は靴を脱いで、私を横切り中へ踏み込んだ。




 今日のバイトはいつもの時間帯では無かった。昼から夕方までで、家を出る際にまだ寝ていた恭平の為に鍵を置いて行ったのだ。それが、間違いだった。隙を突かれた――と思った。


 部屋の中で寛いでいたのは恭平の親友だとか自称している少年で、その名を達哉と言う。


 達哉はひどく自己中心的で、大人しい恭平とは対照的な少年だった。


 勝手に私の部屋に入っても罪悪感など抱かず、注意をしても聞きやしない。不法侵入だと警告をしても無意味。警察に通報出来ないのは、偏に彼が恭平の親友だからだ。そうでなければ直ぐにでも通報してやりたい。


 お気に入りの赤いソファー。

 悩んで悩んで悩み抜いて、やっと購入を決めたガラステーブル。

 恭平とお揃いのマグカップ。


 全て達哉に汚されて、今ではもう私のものだとすら思いたくない程だ。



 ここは溜まり場じゃない。

 彼氏の恭平は入れても、その親友を入れる理由はない。


 何度もそう言っているのに、達哉は軽く流しあまつさえ私を虚仮にする。


 達哉の横暴さはここ最近ずっと私の悩みの種だった。人の領域に無断で入り、荒らして行くその傲慢さ。そして、達哉と顔を合わせたくない明確な理由が私にはもう一つあった。


「よお、ブス。今日も相変わらず冴えない面してんな、ブサイク」


 まるで、挨拶のように――【奴】にとっては挨拶なのかも知れないが――私を、貶すから。


 だから、会いたくなかった。


 何度訴えても止めないその悪態は、日に日に私のストレスとなり積み重なっていく。奴の親友で、私の恋人のはずの恭平に言っても改善される見込みはない。



「勝手に家に入らないで。恭平、どうして入れるの。止めてって、この間だって言ったのに」

「はあ? なに? お前ダレに言ってんの?」


 本気で意味不明だと思っているような表情で、達哉は首を傾げる。


「鈴……そんなに苛々するなよ。最近、本当に多いな」


 苛々している事が最近多いのは、多くしているのは、アンタ達のせいでしょう――



 この部屋の持ち主が何を言っても、歓迎されぬ客人は全く堪えないらしい。それどころか、部屋の主を宥めるなんてあさっての方向へ向かい、彼氏様は恋人が苛立っている事を不愉快に思うらしかった。


 いらいらする。どうしようもなく、いらいらして、仕方がない。

 若い彼と付き合ったのだから自業自得だと思われるかも知れない。私がいらいらするのは間違っているのかもしれない。



 けれど。



「で、どうだったんだよ。勝ったのか?」


 達哉の問いに恭平は頷く。


 快勝だった。相手の少年はボッコボコだった。

 恭平は確かに強かった。喧嘩慣れしてる様子だった。

 見てたわよ。聞いてたわよ。


 すぐそばで、わたしは、見てた。


 ――馬鹿みたいな、暴力を。



「……ばかみたい」



 当てつけたつもりじゃない。そんなこと、言うつもりは全くなかった。


 思わず、と言ったように言葉がぽろりと飛び出した。驚いたのは自分自身で、けれど、恭平はもっと驚いたみたいだった。


 達哉の顔が歪む。

 釣り上がっている目が、いつもよりずっと釣り上がり、表情がガラリと変わる。


「いま、なんつった?」


 唸るような低い声。

 威嚇するような、怒りを孕んだ声。


「なんつった、ブス。もう一回言ってみろよ、あ?」

「ばかみたいって」

「あ!?」

「ばかみたいって言ったのよっ!」


 ああ、言ってしまった。

 ついに、言ってしまった。


「文句があるなら出て行って、ここは私の部屋で、そんな馬鹿みたいな喧嘩の話を楽しそうにする場所じゃない。不良なら不良らしく、夜の街でも徘徊すれば?」


 溢れる言葉を止める術が、どうしても見つからない。言っちゃいけないと思っているのに、胸がふつふつと熱くなる。



 でていけ。

 わたしの部屋から。


 わたしの場所から、出て行け。



「お前マジで何様。テメェに構ってやる為に恭平はここに来てんだろうがよ。その恭平の親友の俺がここに来ることの何が可笑しいんだよ」


 全部だよ。全部が可笑しい。何だよその理屈。


「達哉に来てくれなんて頼んでない。出て行ってよ、はやく、出て行って!」

「鈴」


 咎めるような、恭平の声。


 恭平は味方になんてならない。

 私の事を恋人だと思っているのかすらもはや疑問だ。

 達哉の言うことに頷いて、私の言葉を宥めて。


 恭平はヘタレだ。達哉の前では格好付けて、不良ぶって、そのくせ二人きりになると途端に態度が変わる。



 ――いらいら、する。



 私の気持ちを、私の感情を、理解している癖に。察している癖に、達哉の前では絶対に私を庇わない。


「達哉に謝れ。言い過ぎだろ」


 するりと熱が逃げていく。

 怒りを通り越した先にあるのは空虚な感情。肩の力が抜ける。

 なんで、ダメなんだろう。なんで、分かってくれないんだろう。


 知っている。

 この場を逃げる術は、一つだ。




 わたしが、おかしくなればいい。




「でていって!わたしのまえからきえて!ふたりともきえて!」



 金切り声で叫んだ私に達哉と恭平が顔を見合わせる。また始まった、と言いたげな二人の視線に気が付かない振りをして、手近なグラスを手にする。


 ああこれ、百均で買ったやつだ。丁度いいや。


 振り上げて床に投げつけた瞬間、二人は玄関へと向かった。

 無残な音がして、玄関のドアが閉まる音がする。


 早足に玄関へと向かい、鍵を掛ける。チェーンも忘れない。


「……なんでこうでもしないと出て行かないのよ、馬鹿」


 頭が変になってしまったときっと二人は思っている。



 そうでもしなければ、ずっとペースを乱されて私は一人になれない。

 こんなに都合よく変になる事に疑問を抱かない辺り、恭平も達哉も高校生らしい。

 まだ何度かしか行っていないけれど、変になったと見せかけるのは大変有効な手でもあった。



 以前、達哉との言い合いがヒートアップした際に達哉の手が私へ向かいそうになったことがある。その時に思ったのだ。いくら年下で高校生とは言え、相手は男であり力では敵わない。自分の身を守るためにこの手段は最適で、しかし相手が幼い少年でなければ逆効果にもなりそうな諸刃の剣だった。





 恭平は彼氏だから百歩譲って勝手に部屋に入るのを良しとしても、達哉は私に関係のない人間だ。親友だからといって親友の恋人の家に勝手に入る神経が理解できない。私が奴を家に入れたくないと思うのは至極当然なことなのに、恭平はあっさりと達哉を部屋に引き入れてしまう。恭平に何度注意しても直らないのは直す気がないからだと薄々勘づいてはいるけれど、私はそんなヘタレでダメダメな恭平となかなか別れられない。


「……もうやだ」


 マナーモードにしていた携帯はずっと震えている。

 恭平が出ていってから、ずっと。


 酷い頭痛を和らげようと、こめかみを何度か強く押す。溜息を吐き出して、嫌々携帯を耳に当てた。



「鈴、悪い」

「悪いと思うなら入れないで」

「……ごめん」

「謝るばっかりで全く改善されないね」

「次から入れないようにする。本当にごめん」

「前もそう言った」

「ごめん。ごめんな」

「……もう切るよ」


 通話を一方的に断ち切って、テーブルに身体をふせる。

 達哉が居なければ恭平は普通の男の子で、ともすれば普通以上に手先が器用な少年だった。


 私の代わりに洗濯やら掃除やらをしてくれたり、ひとつひとつ指先が器用で丁寧で、大雑把な私からすればまるで母親の手伝いに慣れた家庭的な女の子のようで。


 草食系とでも言うのだろうか。

 二人きりの時は自分からあまり主張せず私の意見を優先し、聞き役になる事も多い。料理も上手で裁縫も出来る。ほつれをなおせると知ったとき、私は咄嗟に「完敗だ」と思ったくらいだ。


 そんな、少年なのに。


 自称親友の達哉は完全に肉食系で、恭平も達哉の前ではエセ肉食系だ。悪ぶってない素の恭平を嫌いになれない私は、恭平にしゅんとして謝られると突っぱねる事が出来なかった。


 問題なのは達哉だけであるのに、恭平と付き合う事でオプションのように達哉がくっついてくる。恭平自身、年相応に見栄っ張りな所があって幼馴染の達哉には自分が草食系だとどうしても知られたくないみたいだった。



 ――やっぱり、別れようかな。



 子犬のような潤んだ瞳で「鈴、捨てないで」と言われてしまったら、私はつい頷いて恭平を許してしまう。そうやっていつも、別れられずにいる。



 だけど、本当にもう限界だった。



 他人に勝手に部屋へ入られるという行為は不快感しか生み出さない。恭平が嫌になったと言うよりも、おまけの達哉が嫌になった。会う度に不細工だ何だと言って私を貶して、恭平もそれを咎めない。そんな彼氏に恋愛感情なんてとっくに無くなっていたし、残っているのは下らない同情だけだ。私がしっかり気を持って恭平を振ったら、達哉とも簡単に縁が切れるのだ。



 そう考えるのはもう三回目だ。



 次こそ、と意気込んでみても恭平を目の当たりにすると可哀想になってしまう。



「……別れたい」



 本心では、ずっとそう思っている。

 ただ、確固たる揺るがない意思が無いだけだ。


 恭平にとって私は金づるで、泊まる場所を提供してくれる都合の良い人間。達哉は自分の妹が恭平の事を好きだとかで、私を良く思っていない。



 ラインを越えた訳じゃない。

 スイッチを押された訳でもない。



 ――でも、やっぱり別れたい。




 別れられない最大の理由は、私が恭平に“()めて”いないからだ。

 越えてはいけない私の中のラインと、押してはいけない私の中のスイッチ。


 そのどちらも恭平は越えていないし、手も触れていない。だから同情という感情を引き摺ったまま、別れに踏み出せないでいる。



 越えてはいけないライン。



 そこを越えたら急激に感情が冷める、そんな境界線は誰にだってあると思う。


 いくら恋人でも決して越えてはいけない境界線。

 それともう一つ、押してはいけないスイッチ。


 押されたら爆発してしまうそれは、溜まりに溜まった感情をストレス解消の為吐露するには最適だ。けれど、我を見失った人間は危ない。

 ラインを踏み越えるのが“切れた”ということなら、スイッチを押すことが“怒る”ということだ。

 怒りを通り越して完全にキレてしまった冷静な感情と、怒りに我を忘れて激怒してしまった無意識の暴挙。私は、他人に向けられる感情の中では、怒りよりも切れられる事の方が恐ろしいと思う。




 ひっきりなしに掛かってくる電話は二十件を既に越えていた。

 今頃、恭平は真っ青になりながら達哉に隠れて私に電話をしていると思う。


「馬鹿みたい」


 達哉と恭平の前でおかしくなったように振る舞った私は、漸く一人になって優雅に月を見ながらスルメをかじっていた。


 思考は正常、お酒は飲んでいない。アルコールにかなり弱い私は、チューハイの一本すら飲み干せない。辛うじて飲めるのはうっすいカルアミルクくらいで、炭酸が入ったチューハイは総じて一口で駄目になった。


「それにしてもアレ……どうにかならないのかな」


 達哉をアレ呼ばわりしながら一人になったのを良い事に本性を出して喋る。

 二十歳でフリーターなんてやってるんだから、神経はかなり図太い方だ。ついでに本当は短気。達哉に殴りかかるような事は絶対にしないけれど、内心ではいつもボッコボコだ。


 猫を被って大人しくしているのは、その方が都合が良いからに他ならない。そんな図太い神経を持っていても、やっぱり子犬の恭平を捨てられない私は、ただの馬鹿で意気地無しだった。



 何か切っ掛けがあれば、と他力本願に思ってみる。



 ――私、何してるんだろう。



 二十歳でフリーターでやんちゃな男子高校生と付き合って、同情心から別れられなくなって、一体何をやってるんだろう。



 窓の外を見つめながら片目を覆う。

 視力が悪い右目で、ぼやけた満月を見上げたまま、溜め息をもう一つ吐いた。



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