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辺境の村にて

 敷き詰められた土が、そこから顔を出した名も無い草が、それをなびかせる風が、その日は妙にざわついていた。


 日焼けした肌がじりじりと騒いで、全身の皮がびんと突っ張る。

 次第に血が滞るように感じられ、手足の末端がひしりと痛んだ。

「水……」

 異常なほどの乾きに我慢ならなくなり、リューイはベッドから身を起こした。

 家族の寝入った部屋を抜け、欲するがままに歩みを進める。


 荒々しく木戸を開けると、少し白んだ空が広がっていた。

 夏の朝は涼しく爽やかでそれなりの心地よさを感じさせる。

「くうっ」

 リューイはその場で伸びをすると、生命力溢れる朝霧を胸いっぱいに吸い込んだ。

 喉の乾きは相変わらずだが、さっきに比べれば大分マシだ。

 ここで一息つくのも悪くない。

 しかし数秒もしないうちに鼻の焼けるような妙な感覚を覚え、慌てて息を止める。

 か細く吐き出した吐息は宝石のような青白い輝きを帯びていた。

「馬鹿な……ありえない!」

 (かじか)むような寒さが襲う。

 先ほどまで夏の気配を帯びていた全てが、一瞬にして凍りつき、死滅する。

 白んでいたはずの空はだんだんと暗さを取り戻し、何もかもが怪しく青白い。

 明らかに異常だった。

 引き返さなくては! そうは思うのだが、こんな時に喉の渇きは最大限に達し、今にも白目を向いてしまいそうな程に高まっていた。

 そんな中、ちらりと揺れる光。

 瞬間、リューイは叫びだしそうになった。それが恐ろしげな魔物の眼だと思った。

 その光はゆらりゆらりと揺れていて、確かに瞬いているようにも見える――松明の炎であった。

 光は煌々と輝いているのに、それを持つ人の姿などは一切照らし出されていない。

 それは東の方向へゆるゆると移動しながら、リューイの家から大分離れた所を過ぎ去っていった。

 ごろごろと荷車を引くような音が幾重にも重なり、それに抑えられた馬の(いなな)きが混じる。

 大人数で移動しているはずなのに、松明はそれ一本きりである。

(ああ、悪魔だ……)

 手をよじり合わせ、リューイはひたすらに祈った。

 よくないことが起こったら、ただただ祈るように教えられている。

 その祈りが通じたのか、姿なき一団は方向を転換することもなく、そのまま吸い込まれるように東の森に消えた。

 松明の光が掻き消え、荷車のぞっとするような音が遠のいても、彼はちっとも動かずにいた。

 そうして吐く息が透明になり、四肢に暖かみが戻った頃になってやっと立ち上がると、狂ったように井の水をがぶ飲みした。

 恐怖に勝る渇きが満たされる事はなかった。



(一体あれは何だったんだろう)

 村にひとつしかない学舎へと続く道を行きながら、リューイはすっかり考え込んでしまっていた。

 あれとは当然今朝の怪奇のことである。

 どうやったのか自力でベッドに戻っていた彼は、この現象を家族に話すきっかけを失ってしまっていた。

 しかしそれでよかったのかもしれない。

 都会ならいざしらず、ここは辺境の村なのだ。そんな不吉なことを口にしたらどんな扱いを受けるか知れたものではない。

 幸いにして近隣の住民が身罷(みまか)ったという話も聞かないので、リューイは今朝の恐るべき出来事を忘れることに決めた。

 しかし、そう決めてみたところですんなりと忘れられるものでもない。

 空からさんさんと降り注ぐ陽気、それを受けてきらきらと光る青葉、地面で揺れる木漏れ日などに目をやると、否が応でもあの怪しい松明を思い出す。

「……」

 彼はふと足を止めると、そっと右手を喉にやった。

 あの時感じた異常な渇きはすっかり収まっていた。

 それがまた不気味に感じられる。自分の記憶以外に何一つ確証がないのだ。

『忘れろ!』まるで誰かにそう脅迫されているかの様。

「……まぁいい」

 このまま何事も起こらなければ、いつか忘れることもできるだろう。



「どうしたのかねリューイ。顔色が優れないようだが」

「牧師さま……」

「これこれ、授業中は先生と呼びなさい」

 その言葉にはっとして、リューイは姿勢を正した。

 教科書は開いているものの、ページが授業の開始時からまったく動いていない。

 じわりと焦りが滲んだが、温厚な老教師はそれ以上追求することなく教壇代わりのオルガンに戻った。

 見計らったかのように、含み笑いのさざめきが教室中に広まっていく。

「どうしたんだよリュー(ぼっ)ちゃん」

「今日は一段と気が抜けてるな」

 老教師の耳が遠いのをいいことに、隣接したクラスメイトが出さなくても良いちょっかいを出して来る。

「うるさいよデブに寸胴」

 容赦のない返しに、彼らはぐっと押し黙った。

 リュー坊ちゃんというのは、言うまでもなくリューイを揶揄する言葉である。

 こんな砂埃に(まみ)れた辺境では、彼の明るい金髪は非常に目立つものだった。

 それに加えて大人の前では真面目な優等生を気取るとなれば、彼らが腹を立てるのももっともである。

 しかしリュー坊ちゃんは相当喧嘩っぱやく、その上強かったので、クラスメイトもこうやってからかう以上のことはしてこなかった。

(ふん)

 意気地なし共が、と毒づきながらぱらぱらと教科書のページをめくった。


「リューイ……」

「あ、先生!」

「今は休み時間なのだから牧師のほうですよ」

「これはこれは、大変失礼致しました」

 彼はわざとらしく、しかし限りなく優雅にお辞儀をしてみせた。

 椅子に埋もれるように座していた牧師は、その様子を見て緩やかに笑う。

 するすると飛び出すうつけた態度。

 やっと調子が戻ってきたと、リューイはほっと胸をなでおろした。

 昼休み、カーテンを締め切った礼拝堂には誰もいない。

 憔悴しきった牧師と、これから外へ駆け出していくリューイだけが、この空間に在るのだ。

「牧師さま、大分お疲れのようですが……」

 声をかけられてしまっては、優等生としてそう気遣わない訳にはいかなかった。

 しんと静まった空間の中で、黒い塊と化しうずくまったその背を撫ぜる。

 深々と腰掛けた老人の、その目元には疲労の色が濃い。

 午前の授業が終わると必ず、牧師はこのように座り込んでしまう。

 だから焦げ付く太陽がまろやかに和らぐまで、いつもこうやって休み時間が設けられているのだ。

 遊び盛りのリューイたちには正直嬉しい状況だが、こうやって苦しそうなさまを見ていると、それなりに気の毒になってくるのが人情である。

 これが原因で授業は甚だしく遅れているのだが、誰も文句は言わなかった。

 もともとこの学舎の運営自体が牧師の慈善活動である。

 村唯一(ゆいいつ)の教会兼医療施設、その上学舎ともなれば、これらを取り仕切る牧師はむしろ大変慕われていると言っていい。


「リューイ、君は毎日の生活がたのしいかね?」

 落ち窪んだ眼孔の奥で悲しげな光が瞬いた。

「はい、もちろんです。みんなとも仲良くやっています」

 少しも考えずに、優等生の彼は答える。

「そうかいそうかい、いや、君は実に優秀な生徒だよ」

「はぁ……」

 怪しみつつも褒められて悪い気はしない。

「そこでだねリューイ。君に全校生徒を代表して重要な仕事を頼みたいのだ」

「はぁ、何でございましょうか」

 やはり何かあるのかと心の中で毒づきながら、リューイは和やかに返した。

 そのとき、ふいに礼拝堂の大扉が開けられた。

 闇が駆逐され、痛いほどに光が押し寄せる。

「誰だ!」

 鋭くリューイは叫ぶ。

「今牧師さまは休養中だ! 入るなら裏口を使え!」

「へぇ、礼拝堂にも裏口なんてものがあるのかい」

 はたと、リューイの青い瞳が揺れた。

 その声は聞いたことのないもので、逆光に姿は掻き消えている。

「失礼、どなた様ですか? てっきり同級生かと思ったものですから……」

 恐縮してすぐさま詫びた。

「いや、気にしなくていい」

 その人物は鷹揚に告げると、その場から動かずにこう言った。

「私は旅行者だ。名前はジェラルド。そこにいる牧師さまのご厚情でしばらく滞在することになった」

 光りの中に滲んだままのジェラルドに、リューイは思わず目を凝らしてその外見を探ろうとした。

 声は低く落ち着きがあり、そのくせ艶々と輝いている。歳をとっているのか、はたまた非常に若いのか――

「うう」

 掠れたうめき声が思考を断ち切った。

「牧師さま!?」

 すぐさま駆け寄るが、その苦しみが和らぐことはない。

「どうされたのかな?」

 落ち着いた客人の言葉に、リューイははっと顔を上げた。

「どうぞジェラルドさん、中へお入りください。牧師さまは高齢故、外の風などが身体に障ってしまうのです」

「これは失礼した」

 ジェラルドの見えないはずの口元が、一瞬つりあがった――ように見えた。

 彼は言われたとおりに聖堂の中に入り込むと、後ろ手にぴったりと扉を閉ざす。

 一瞬で全てが暗闇に飲み込まれ、そしてじょじょに貌を現した。

 ほの暗い空間に浮かび上がったのは、意外なことにリューイとそう歳の変わらない少年の顔。

 ただし口元に微妙な薄笑いを湛えており、お世辞にも好感の持てる態度ではない。

「やぁ、君がリュー坊ちゃんだね。牧師さまから話はきいたかい?」

「いえ、何も……」

 ジェラルドの妖しい美貌に、リューイはじりじりと後ろへ下がった。

 ぞわぞわと汗が吹きあがる。酷い渇きが沸き起こり、喉が張り付いてしまいそうだ。

 立ち尽くす彼を、ジェラルドは面白そうに見つめていた。

「り、リューイ……」

 喘ぐ声に振り返れば、苦悶の表情を浮かべた老人が、息も絶え絶えな様子で(うずくま)っている。

「その方の手助けを――、村を代表して君が――」

「牧師さま! 大丈夫ですか!? おい! 誰か! ニック先生を呼んで来い!」

 尋常ならざる様子に、リューイは真っ青になって駆け出した。

 その肩を、ジェラルドの細腕が引き止める。

「何も君が走る必要はないじゃないか」

「だけど、お医者を呼ばないと、牧師さまが……」

「必要ない、だろ?」

 至近距離で、ジェラルドの視線がリューイを捕らえた。

 ほの暗いなかで、ひりつくような恐怖が全身を駆けあがる。

 叫びだすすんでのところで、荒々しく聖堂の扉が開けられた。

「牧師さま!」

「大変だ! ニック先生ー!」

「どうしたんだ!?」

「牧師さまが発作を――」

 リューイの声を聞きつけて、中庭で遊んでいた生徒たちが駆けつけたのだ。

 その場は騒然となり、妖しげな気配は霧散する。

 生徒たちと入れ違うようにして、ジェラルドは静かに聖堂を後にした。

 残されたリューイは喉の渇きにしゃがみ込み、右手でばっと肩を抑える。

 捕らえられた肩口は痺れるように痛み、心なしか冷たくなっていた。



【NEXT TO...】

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