white cat
ドサッ――。
「俺も鈍ったな……」
人通りの少ない路地裏に、大の字で倒れている若者がいる。
彼――近野道也は、フリーターの二十五歳。
とある飲食店で始まった喧嘩を止めようとして、逆ギレにあい、袋叩きにあった。
若者五人相手に一人では無理があると理解出来れば良かったのだが、彼の性格上、見過ごすことが出来なかったのである。
「はぁ……財布も持っていかれたし、携帯も壊れたか。とんだ災難だ……」
彼は体を起こし、四捨五入で三十歳になった自分の身体に叱咤する。
「そうか、お金が無いから帰れないんだ……ついてないな」
リン――。
「……」
「え~と、君は?」
鈴の音が聞こえて振り返ってみると、道也の背後に、十歳にも満たない女の子が立っていた。
白い髪に蒼い瞳、白いワンピースを着て、白いサンダルを履いた少女。赤い首輪に鈴をつけたこの子は、どこか感情が欠落しているようにも見える。
「あなた、大事なモノを忘れてる……」
「えっ?」
少女の言葉に、道也はただ目を丸くするしかなかった。
いきなり、『大事なモノを忘れてる』と言われても、何のことだかサッパリ分からない。
しかし、この少女を見ていると、なぜか懐かしい気持ちになる。それだけは確かなのだが、肝心なことは思い出せない。
ポウ――。
「おっ……」
少女が道也の手を握ると、やわらかな光が傷を癒やしていく。
「名前……」
「えっ?」
「あなたの名前は……?」
少女は首を傾げながら名前を尋ねてくる。
「俺は近野道也。君は?」
「リリ……」
「そっか。リリちゃん、ありがとうな」
道也はそう言って、リリの頭を撫でた。
「……じゃあもう行くね。リリちゃん」
道也はゆっくりと立ち上がり服の汚れを払うと、二駅先の自宅へ向かい歩き始めた。
「……えっと、リリちゃん?」
「うん……?」
「どうしてついて来るのかな……?」
歩き出す道也について来るリリ。
「私……道也についていく」
道也は戸惑いながらも、リリのペースに合わせて歩き続けた。
「そういえばリリちゃん。君、家族の人とかいないの?」
「……私、一人だよ?」
「一人? じゃあどこから来たのかな?」
「よく分からない……」
どこから来たのか分からないと言うリリ。
しかし、このままリリを自分の家に連れて帰るわけにも行かないので、とりあえずリリを交番まで連れて行くことにする。
「……」
「……」
道也の三歩後ろを歩くリリ。交番までの道のりの間、二人は黙ったまま一言も言葉を交わすことはなかった。
「そこのベンチで待っててねリリちゃん。すぐ戻るから」
「うん、分かった……」
あっという間に交番までたどり着き、道也はリリの話を聞くために交番へ入った。
「やけにボロボロだねぇお兄さん。さて、ご用件はなにかな?」
「リリっていう女の子に捜索願いが出てませんか? 外で待ってるんですけど、身内がいないみたいなんですよ」
「ふむ……。確認するから、ちょっとそこで待っててくださいな」
警官は帳簿のような物をパラパラとめくって確認するが、該当するような子は見当たらなかった。
「どうもありがとうございました……」
「お役に立てず申し訳ありませんな」
「いえいえ……。じゃあこれで失礼します」
道也は足早に交番を出て、リリを迎えに行く。
身内がいないというのは本当だったのだろうか。それとも両親が捜索願いを出していないのか。
どちらにせよ、リリにもう一度確認してみる必要がありそうだった。
「あれ、リリちゃん?」
道也が待っているはずのベンチに、誰もいない。
道也は、何か事件に巻き込まれたのではないかと思い、周辺を捜すことにする。
「まさかいなくなるとはなぁ……。予想外だった」
トントン――。
道也の肩を何者かが叩く。
「はい?」
道也が振り向くと、ドスッという鈍い音が響いた。
道也の鳩尾に拳が深く食い込んでいる。
「がはっ!?」
道也はその場にうずくまり咳き込む。不意打ちを喰らい、意識を失いそうになった。
「ようよう兄ちゃん。よくもサツにチクってくれたなぁ」
「覚悟はいいんだろうな。半殺しじゃ済まさねえぜ?」
「お前ら……さっきの!?」
先ほど飲食店で揉め事を起こしていた男達が現れたのだ。
どうやら交番に入ったところを仲間に見られていたらしく、警察にチクられたと思い、道也をつけていたようだ。
「チクられたと思ったのか……? はは……意外と気が小さいんだな」
「ほざいてな。おい、お前ら!! 構わねぇ、やっちまいな!!」
ゾロゾロと集まってくるチンピラ達。
ざっと二十人ほどの相手を前にして、さすがの道也も死を覚悟した。
リン――。
「(この鈴の音……まさかリリちゃん!?)」
数メートル先の交差点にいるリリを見つけた。今は自分を見つけてくれるな、と願う道也であったが、リリと目が合ってしまった。
「あっ……道也」
タッタッタッと軽い足取りで、リリはチンピラ達を横切って、道也に駆け寄って来る。
「来ちゃダメだ、リリ!!」
チンピラの内の一人が、リリを腕を掴み引き倒す。
ドサッ――。
「あっ……」
リリは擦りむいた自分の膝を、何が起きたのか分からなさそうに見つめる。
赤い血が白い肌に滲んでいる。
「リリちゃん!!」
道也は胸倉を掴んでいたチンピラの腕を振りほどき、リリに駆け寄る。
「おい……この子が何をしたよ」
道也は胸倉を掴んでいたチンピラに話し掛けた。
チンピラ達は道也を睨みつける。
「……帰ろう道也」
「そうだな……」
道也はリリを起こし、チンピラ達などお構いなしに歩き出す。
「待てよ、てめぇ……」
チンピラの内一人が、道也の肩を掴む。
その瞬間、ガスッ――という鈍い音が路地裏に響いた。
「おえっ!?」
道也のパンチがチンピラのみぞおちに深く突き刺さる。
チンピラは汚物を吐いてその場にしゃがみこんだ。
「子供巻き込むんじゃねえよ……って、ヤバいなこりゃ」
そう言って道也は、リリの手を掴んで走り出した。
「なに逃がしてんだ!? あいつら二人ともやっちまえ!!」
突然のことで周りのチンピラ達は呆気に取られてしまっていた。
チンピラ達のリーダー格の男が激を放つが、この時すでに道也とリリの姿はどこにも見当たらなかった。
「ちぃっ!! あいつらどこへ行きやがった!?」
「まだ遠くには行ってねえはずだ!! 行くぞ!!」
ダッ、ダッ、ダッ、ダッ──。
「……行ったよ」
道也とリリは、駅にあるお土産店の中に身を潜めさせてもらい、その場をしのぐことが出来た。
道也が事情を話すと、なんとそのお土産店のおばちゃんは、道也とリリの二人分の電車代までくれたのであった。
「ありがとうおばちゃん! 恩に着るよ!」
「いいのよいいのよ! その子をしっかり守ってやんなさい!」
道也とリリは駅を目指し、商店街を走る。
帰路につく人々がまだ大勢いたので、人混みの中に入ってしまえばこっちのものだと考えたのだ。
「リリちゃん、こっちおいで」
「うん……」
道也はリリをベンチに座らせると、ハンカチを取り出してリリの足から流れていた血を拭いた。
「すごい……もう塞がってる」
「うん……」
「あっ、もうこんな時間か……」
道也とリリは電車に乗り、道也の地元へ向かう。
今日はもう遅いので、道也はリリを自宅へ泊めてあげることにした。
ガタンゴトン──。
「ごめんねリリちゃん。変なことに巻き込んでしまって……」
「いいの……」
「リリちゃん、どうして俺について来ようなんて思ったんだい?」
道也は、なぜリリが自分について来るなんて言うのか、その理由を聞かずにはいられなかった。
「命を救われたの……」
「えっ?」
「だから、道也に恩返し……したい」
「俺、そんな大層なことしたっけな……」
「うん……」
リリは道也に命を救われたというが、当の本人は全く覚えていない。
リリが誰かと勘違いをしてる線もあったが、さすがにそれはありえないと思った。
あれこれ考えていると、あっという間に最寄り駅に到着した。
「何とか帰って来れた……。俺の家、ここから近いからね。あと少し頑張ろうな」
「…………」
道也はリリの手を引いて、自宅に向かおうとするが、なぜかリリは歩くのを止め、道也の手を放す。
「感じる……」
「えっ?」
「……ついて来て」
タタタ──。
リリは、道也のアパートの近くにある神社へ入って行った。
「道也。君がここに来るのは分かっていた」
「えっ? あんた、何者だ……!?」
リリを追って神社に入ると、謎のコートの男が現れた。年齢は40代ぐらい、身長は180センチ後半、腰まである長髪をオールバックでおろしている。
「人は私を『死神』と呼ぶ」
「死神? 何バカなこと言ってるんだよ」
「ふっ……どうも人間は、自分と違う存在を認識する術はないらしい」
「あの人を倒さないと、みんな殺されてしまう……」
道也はリリの前に立ち、死神と名乗る奇妙な男を睨み付ける。
内心は怖くてたまらなかったが、恐怖よりもリリを守らねばならない気持ちが勝っていた。
「ギャーギャー!!」
男の周りに無数のカラスが現れ、黒い風となって一斉に道也に襲いかかる。
「えっ!? なんなの一体!?」
「その声は紗枝!?」
仕事帰りの女性が現れたかと思えば、幼なじみの立川紗枝であった。
「道也君、アイツは一体何なの!?」
紗枝は近くにあった箒を振り回して、カラスを追い払う。
「紗枝……」
リリは手のひらに道也の傷を癒やしたものと同じ輝きを持つ光を出現させ、道也の胸に染み込ませた。
「(力が湧いてくる……。この感覚、なんか懐かしいような……)」
胸の奥から熱さがこみ上げてくる。
身体からまばゆい光が発せられ、常人ではない力を感じる。
「ちょっと道也、その子何者なの!?」
ボゥ──。
道也の両手から光が発せられる。
「これならいける……!!」
ダッ──!!
道也は男の懐へ一気に詰め寄る。
「はっ!!」
ゴッ──!!
道也のチョッピングライトが男の左頬に炸裂する。
「ふっ……その程度か」
「まだ、終わりじゃない……!!」
ガッ──!!
「爆ぜろ!!」
ドゴォッ──!!
続くレフトアッパーが男の顎を捕らえると、拳から発せられた光が爆発した。
男は爆風によって、神社の境内に吹っ飛んでいく。
「凄いよ道也君!!」
ザッ、ザッ──。
男は境内の中からゆっくりとした足取りで出て来る。
「あんた……何が目的なんだよ」
「──粛清だ」
「なに?」
「君も少なからず感じているだろう。今の人間は腐っている。このままでは人類の未来は絶望的だとは思わんかね。私はこの腐りきった世の中を正す為に送られたのだ」
「確かに今の人間の質は悪いかもしれない……。でも、だからって人間を片っ端から殺すなんてのはおかしいだろ?」
「先刻君も身を持って経験したのではないか。その少女を巻き込むこともお構いなしに君を襲う醜い人間の本性を……」
男の言うことは、確かに的を射ている。
世界中で争いは絶えず、今この瞬間にも子ども達が飢えて死んでいる。
それらは紛れもなく事実であり、誰もが知っていることだ。
「それでも……」
認められない──。
認めるわけにいかない──。
現代を真剣に生きている人々だって大勢いる。それら全ての人々を殺すなど、許されていいはずがない。
「妄想に堕ちた愚かなる者よ。その幻夢ごと葬り去ってくれる……」
パチンッ──。
男が指を鳴らすと、カラス達が一斉に道也に襲いかかる。
今回は先ほどのとは訳が違う。例えるなら無数の黒い矢。それが一気に道也に降り注ぐ。
「道也君、危ない!!」
「させない……」
紗枝が叫ぶと、リリは道也の前方にバリヤーのようなものを張る。
カラスがそれに触れると、まるで水風船が破裂するかのように、バシュッという音を立てながら消滅していった。
「うっ……」
ドサッ──。
「リリちゃん!! くそ、俺なんかを助けて……」
道也は力を使い切って倒れたリリを抱き起こす。
「リリちゃん!! しっかりするんだリリ!!」
道也がいくら呼びかけても、リリはもう話すことが出来ないほど衰弱している。
「貴様──人間ではないな? なぜ、人間などをかばう真似をする」
男がリリに尋ねた。
「私を……助けてくれたから──」
いくら記憶の糸をたぐい寄せても、道也はいつリリを助けたのか思い出せない。
「リリちゃん!! 死ぬなリリちゃん!!」
「道也君……」
必死に起こそうとする道也の腕の中で、首に付けた鈴の音が鳴り響いている。
紗枝はその様子をただ静かに見守っている。
ザッ──。
「お前……この子が何をしたってんだ!! こんな子どもまで殺さないと気が済まないのかよ!?」
ボロ──。
「…………」
先ほどの道也の攻撃が効いたのか、男の顔面の皮膚が崩れ落ちる。
「どうやらこの身体もガタが来てしまったようだ。素晴らしいぞ道也。期待通りだった」
そう行って男は闇の中へ消えて行った。去り際に見せた男の表情はどこか穏やかに見えた。
今となっては確かめようがないが、彼は世界に道也達のような人間が残っていたと知り、あのような表情を見せたのではないだろうか……。
「道也……」
「リリちゃん、大丈夫なのか!?」
「…………」
道也の腕の中、リリは柔らかな笑みを浮かべている。
それはまるで──人間が死に際に見せる時の表情に似ていた。
「リリちゃん、君は一体……」
「もう……時間みたい」
道也の身体が白い光を帯び、手足から身体にかけ、うっすらと透明になっていく。
「ちょ、待ってくれよリリちゃん!? そんな急に消えるとかないだろ!? まだ君をどうやって助けたのかも思い出せないのに!!」
「大事なモノ……見付かってよかったね──」
道也の両手から重さがなくなり、リリの姿は光と共に消えた。
リン──。
道也の手元に、リリの着けていた鈴の付いた首輪が落ちる。
「道也君、もしかしてさっきの子……」
子供の字で書かれた『リリ』という文字が首輪の裏に書いてある。
「そうか……君はあの時の──」
記憶が鮮烈に蘇る──それは小学生のころのことだった。
怪我はしてなかったが、その身体は泥にまみれてやせ細っていた。
何日も食べ物を口にしてなかったのか、道也がコンビニで買ってきたニボシをペロリと平らげた。
親に黙って彼は一人で面倒を見た。
「お前の名前は今日からリリな!」
そう言って付けた犬用の赤い首輪。
子供だった彼には犬用か猫用か区別は出来なかった。
子猫が着けるには大きすぎたその首輪。
リリの正体──それは道也が子供の頃に助けた白い子猫だった。
リリが言っていた『大事なモノ』が何なのか、彼にはまだ分からない。
しかし、この日から彼は何となく運が良くなったというか、やることが上手くいくようになった。
紗枝とも、よく会うようになったらしい。
自分は不幸だと思っている人も、懸命に生きていれば幸運はきっと訪れるのだ。
こんな噂を聞くようになった──。
『幸せを運ぶ白い猫がいる』
リン──。
「おっ、なんだこの子猫。よし、ちょっと面倒見てやるか」