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第六十七話 領地運営、築城の名手と言えば……


「ふむ……」


 一乗谷城の執務室にて、部下の持ってくる報告書に目を通しながら、そんな言葉が口から漏れる。

 今、この執務室には羽柴秀長と宮部継潤等の内政を主として扱う武将によって内政が進められており、執務室という名前の面目躍如と言った様相で領内の内政が次々を吟味され、議論を重ねた結果。その上澄みによって領内を豊かにする案を絞り出し、日に日に領地内は上方修正に向かっていた。


「ここ数年攻め続けられていたにしては石高はにさほど影響はなかったみたいだなぁ」


 3年ほど前から越前攻略は始まっているが、そのごも戦は継続し、今に至るまで大小10は戦を起こしているだろう。

 そしてその戦は農夫を戦へと駆り出させ農作物への影響は少なからず受けていることは間違いないはずだ。

 そのため、朝倉討伐が終わった後には以後3年に渡り減税を実施している。

 織田家が責め立てた年月に対し、その分の減税を行うことによってこれから統治にたいする民や古くからの国人衆への配慮であった。

 だが、今上がってきた報告を読むと、織田家が攻め続けた年、攻める前の年、そして平手が治めるようになった年…いずれも多少の数字の前後はあれど、納付額には影響が少なかったのである。

 それはどういったことを表しているのか。


「ふむ、あの朝倉義景も政治はまともに行っていたということか……」


 実際領民には盲目的とは言わずとも、及第点の領主ではあったらしく、その感情は悪感情も含まれれば、同情的になる民も多く、両極端でもあった。

 古くから越前に住む領民は特に悪感情が少ないことを調べる内に分かったのだが、その理由もはっきりした。

 朝倉宗滴。

 20年ほど前まで義景に使え、政戦とも朝倉家を支え、その活躍によって朝倉氏の地位を磐石なものとするとともに、中央での発言力も確固たるものとした傑物である。

 数々の武勲を立てて朝倉家の武威を高めると共に越前に平和をもたらしたのである。

 政治的にもその貢献は並々ならぬモノがあり、特に外交では後の上杉謙信と書状を交わし、宗滴存命中は辺諸国も朝倉家に手出しはできなかったという。

『武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候』

 なんていう教訓を残し、戦働きでは生涯無敗。

 内外政を取り仕切る中、戦でもとんでもない戦果を上げたとなれば、流石に攻め入ろうとする周辺諸国はいなかっただろう。

 だがやはり寿命には勝てなかったのか、1555年に永眠。

 一代の英雄の最後であった。

 そしてその死を切っ掛けに、そこから朝倉は衰退が始まったとされており、領民的にはやはり、という気持ちであったらしい。

 朝倉家の栄華は朝倉宗滴によってもたらされたというのが民にまで浸透していたらしく、それを失えば衰退は必死であるという見方をしていたようだ。

 現にこうやって朝倉家は傾くどころかお家断絶の憂き目に遭っているのだから、民の声や判断というのも馬鹿に出来ないのかも知れない。

 だから当時を知る農民は宗滴がいないのなら仕方がないとなり、宗滴を知らない年代ではちゃんと政治をしろ義景、という両極端な意見に分かれてしまっているようだ。

 ちなみに朝倉宗滴は織田信長の才能を見抜いていたらしく、臨終の直前に「今すぐ死んでも言い残すことはない。でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と言い残しているという。

 朝倉宗滴が生きていたら浅井の反乱もなかったのかも知れない。

 いや、むしろ好戦的な人物であったから戦火は拡大していた可能性もあり得る。

 なんというか歴史のIFを感じさせる人物だ。


 ともあれ、今この領地を治めるのは織田家で有り、平手家である。

 越前は名家である朝倉が治めていたことも有り、石高は非情に高い土地だ。

 上杉武田と領地を接しているが、今のところは戦端を開かれる恐れはなく、今のうちに領民との軋轢を取り除き、より豊かにしていきたいものである。



―――元亀2年(1573年)

平手家の居城とすべく、北ノ庄城の築城を信長によって許可され、その築城に取りかかる



 紆余曲折があったにしろ、実質的に越前朝倉を攻め落としたのは平手家である。

 その褒美として若狭、越前の領地を貰ったわけだが、その他にも居城としての城を築城許可というのを信長から貰っていた。

 とくに必要のないモノだと思っていたが、秀長を筆頭に内政担当の家臣達からは是非築城に取りかかるべきだと説得され、取りかかることになったのである。

 いま居城としている一乗谷城、山城は防衛拠点としては優れた性能を発揮するが、交通の要所として、街道を抑えた国内貿易拠点としては交通の便が悪すぎた。

 信長は経済を重視し、そのため交通に対しては相当力を入れている。

 どんなに利益を得ても、物資を持っていても届けるのに時間がかかるのであれば意味がない。

 それは商人にも言えて、鮮度を命とする特産物や商いというのは数多い。

 越前は海に面しており、海の恵みを享受できる立地である。

 こら辺を鑑みたところ、街道、河川、海の位置を洗い出し、平城として北ノ庄城を築城しようという事になったのである。

 そしてその築城を任せたのは松永弾正久秀。

 築城の名手と名高い弾正なら思いも寄らない城を造ってくれるんじゃないかと言う期待と、いい加減働いてくれという俺の願いが込められたことはいうまでもない。

 ちなみに俺の小姓であった夜叉丸(美濃で召し抱えた加藤清忠という斎藤道三の臣下の息子)は、築城の見学をしていたところ、思わぬ夜叉丸の見識に弾正が興味を持ち、築城の手伝いをさせると連れ去って言ってしまった。

 悪い影響を受けずにいてくれればいいんだけど。

 まあ最近はすくすく育って、俺と同じくらいの170以上の身長、元服前からすれば相当な偉丈夫だろう。

 氏郷との関係も悪くないようだし、もう二、三年足ったら元服させて、氏郷の側近にするのも有りかも知れない。

 夜叉丸本人も次代の平手家を支えるという気概を持っているらしく、天性の身体能力を生かした武だけでなく、秀長、半兵衛、藤孝などの内政軍事外交のスペシャリストの薫陶も受けているらしく、弾正にもこうして築城や茶道、教養の部分を学べば氏郷にとって頼りになる武将になることは間違いないだろう。

 藤孝の息子である忠興もそろそろ元服が近い。

 利家の息子の利長もそうである。

 宗厳の子供達も後数年すれば元服を迎えても良いかもしれない。

 まあ、藤孝の息子は伊達政宗に並んで戦国の既知外の名を欲しいままにする病みキャラなので、どこかでテコ入れしておいた方が良いかもしれないけどな。

 ただ能力に関しては一流なので頼りにはなるんだろうけど。

 後は柳生一門を平手家に迎えることが出来たのも大きいかも知れない。

 柳生宗矩は腹黒のイメージではあるが宗厳すら凌ぐ腕前で、その息子の十兵衛は柳生十兵衛と言えば分かるように歴史的有名人だ。

 まあ、その頃には戦がなくなっていてほしいものだが、有望な家臣を青田買いしているようで、初めて未来知識が有効活用されている気がしてまんざらでもなかった。


 歴史は大きく変わってきてはいるが、今のところ取り返しの付かない事態にはなっていないはずだ。

 毛利、長宗我部、本願寺、上杉武田、伊達など敵は多いが、それでも情勢は織田家が現時点では一番の勢力であると言えるだろう。

 願わくばこのまま、イレギュラーが起こらずにいてほしいものだと願わずにはいられなかった。

 



 『平手家の主な家臣団一覧』


 御隠居 平手政秀


 当主 平手久秀


 次期当主 平手氏郷(蒲生氏郷)


 御伽衆 千利休(松永久秀)


 家臣筆頭 羽柴秀長


 家臣次席 竹中重治(竹中半兵衛) 


 家臣 可児才蔵


 家臣 前田利家


 家臣 宮部継潤


 家臣 細川藤孝


 家臣 柳生宗厳


 小姓 夜叉丸(加藤清正)

 



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