表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/69

第六十話 越前交渉 その弐


 元亀2年(1573年) 10月

 上杉武田からの使者が一乗谷城に訪れる。

 

「突然のご訪問から間を置かず、再度の謁見に応じていただき誠に感謝いたします。上杉武田からの使者であります長尾家当主の長尾景虎です」


 そう言って頭を下げる景虎。

 隣に侍り同じように頭を下げるのは小島貞興。

 前回の使者もこの長尾景虎であり、小島貞興だった。

 二回続けて同じ使者を送ると言うことは、よほどその外交手腕を認められているんだろう。

 見たところ華奢な体つきをしており、戦働きで活躍をするタイプには見えない。

 だが、以前の会見で小島貞興は越後で起こった反乱を、長尾景虎は卓越した采配によって早期に鎮圧し、その反乱者からさえ諸手を挙げての賞賛を受けたほどの戦巧者だと言っていた。

 傍目からはそう見えなくても内面には苛烈な精神が宿っているのかもしれない。

 戦上手で外交手腕も優れているとなると、もしかしたら今後予想される上杉武田戦では警戒すべき相手になるのかもしれない。

 そんなこと考えてる内に景虎は顔を上げ、口上を述べた。


「さて、此度また織田家との交渉の場を設けていただいた訳を申しますと、芸がないと思われるかもしれませんが織田と上杉武田の和議をお願いしに参った次第です」


 その言葉に場がざわつき始めた。

 前回の交渉は2ヶ月前のことである。

 その返答に信長は利益が損失に勝ると一刀両断。

 確かに一向一揆に悩まされる織田にとって、この上杉武田からの和議の申し入れは魅力的だ。

 しかしそれをすれば徳川と北条から反感を買うのは必至であり、特に桶狭間から苦楽をともにする徳川を今更裏切るのはいくら何でも不義理である。

 結局この交渉の肝は、上杉武田を取るか徳川北条を取るかの二択になってしまうわけで、信長にとってその選択は悩むまでもないと言うことなんだろう。

 その辺りの事情を景虎は知らないわけではないだろうに、間を開けず交渉に挑んでくる割には、あまりに直裁すぎる言葉であった。

 まさかいきなり切り込んでくるとは思っていなかったのか、半兵衛や秀長も顔には出さないが驚きの色を隠せないようだ。


「……和議、か。その話は既にお断りしていると思うのだが」


 言葉を選ぶべきかと考えたが、韜晦するような場面でもない。

 何度来られても答えは変わらない、という意味を込めて言葉尻を堅く景虎に返した。


「無論承知しております。しかし前回と今回では状況が違います故、再度こうして話を持ちかけさせていただきました」


 俺の返しを意に介すことなく景虎はそう答えを返す。


「……どういうことだ?」


「現在我が上杉武田は徳川、北条の両家を相手取っていることはご存じのことでしょうが、その戦況までもは知っておられますか?」


「戦況までは聞いていないが、武田にとって厳しい状況だろうというのは想像できるな」


 それに知っているも何も俺は間接的な当事者である。

 北条と徳川を結びつけて三国同盟を持ちかけた使者が俺なわけだしな。

 そして武田の領地切り取りの目に遭う原因である武田信玄とその重臣達の散った戦場では、最前線で戦っていた。

 ……そう考えると俺って武田に相当恨まれてるんじゃないだろうか?

 戦国最強と言われた軍団を率いる国に、個人的恨みを持たれるのは流石にぞっとしない。

 俺がそんなことを考えていると、


「現在我々はこの二国に対し優勢とは言わずとも互角に渡り合っていると、客観的に見てそう捉えております」


「!?」


「な……っ」


 俺は息をのんだだけだったが、思わず声を上げたのは半兵衛だった。

 よほど予想外の言葉だったらしい。

 それはそうだ。

 なぜならこの戦は侵略戦であり追撃戦でもある。

 将兵を多く損ない敗戦した武田の背後を突くに等しい戦いなのだ。

 当主である武田信玄を討った事によって両軍の士気は両極端であり、負けるはずのない戦いなのは誰の目にも明らかだ。

 それが優勢を保てないどころか均衡するというのは考えられないことだった。

 皆も同じ考えだったのか、一様に考えを巡らしている中、


「ふむ…。長尾殿、と申しましたか。それはどうにもおかしな話ではありませんかな?」


 流石と言うべきか、薄く笑みを浮かべながら弾正が顎髭を撫でつつ口を開く。


「武田の兵の精強さ、将兵の武勇は遠く京にまで轟くほどでありましたが、知っての通り掛川の戦いにてその多くを失っておる。さらに言えばその当主たる信玄殿も同じ戦いで命を散らされた。そんな中で北条、徳川の両家を相手取って戦況が互角と申されても流石に鵜呑みにはできませんぞ?」


 その当然の指摘に景虎は動揺した様子を全く見せず、同じように薄く笑みすら浮かべながら返答する。


「かの掛川の戦いにて失った将兵は確かに数多く、誰もが勇敢な、そして得がたい人材でありました。しかしながら、失ったものの代わりに得たものも存在します。そしてそれこそが戦力を拮抗させる最も重要なものなのです」


「ほう、それはなんですかな?」


「我々です」


「……!」


 その言葉に弾正が僅かに眉を寄せる。


「信玄殿と謙信公は互いの立場故、相容れぬ存在でありましたが、今となってはそれは昔の話。争点であった村上義清殿の北信濃の地は武田家現当主である勝頼殿から既にご本人に返還されました。もはや武田と上杉は争う関係ではなく、周辺諸侯が思う以上に深く結びついているとお考えください」


「お待ちください。確かに信玄公亡き後上杉との盟約が結ばれたとしましょう。しかし両家の確執はそれで流せるほどの大きさではないはず」

 

 冷静さを取り戻した半兵衛がそう切り返す。

 俺はその言葉に、胸の内で頷いた。

 上杉と武田は史実でも宿敵の間柄であり、信玄が亡くなったとしてもこの短時間で和解、同盟などできないはずなのだ。

 確かに上杉武田として両家が歩み寄り同盟を組んだというのは聞いている。

 上杉謙信の慈悲深さは敵に塩を送る逸話からみても、相当なものだ。

 窮地に立たされた武田に対し、手をさしのべるのはやぶさかではないだろう。

 そして、それが景虎の口から語られたことで、事実だと言うことも分かった。

 だが、それでも所詮は人の集まりだ。

 話は上杉謙信と武田信玄の当事者同士だけの問題ではない。

 川中島では四度も合戦を繰り広げ、死者も数え切れないほどいるはずだ。

 殺し合った両陣営が今から仲良くしろ、と言われてもそう簡単に気持ちは切り替えられない。

 お互いに傷つけられた傷が確かにあるのだから。

 その事を一番分かっているのは景虎自身であるはずなのだ。

 少しの間、瞑目していた景虎だったが、

 

………

確かに遺恨は残ります。けして埋められぬ溝があると言うことも。どんな両者が手を組むというのは一見不可能に思えますが、何事も例外というものはあります。例えば強大な敵を前にしたとき、そうお互いに手を取り合わねば勝てないと思わせるほどの強大な敵がいれば、否応なくその手を握らざるを得ない」


 景虎の目が俺を見据える。

 奥深く澄んだ目の色だった。


「織田、徳川、北条の三国同盟はもはや武田家だけでは太刀打ちできないと、先の戦が証明しました。特に織田家は美濃を併呑してからの勢いはまさに破竹。京を抑え、流通によって大きな経済力を手にした事によってさらにその勢力は増すばかり。奇しくもその巨大な力が我々上杉に、武田との盟約を結ばせたのです」


「………」


 言っていることはわかる。

 確かに巨大な敵を目の前にしたら敵同士が手を組むというのはよくある話だ。

 あり得ないことじゃない。

 もしかすると掛川の戦いで信玄を討った事、さらに言えばその前に北条と同盟を結んだ事が上杉にとって織田をより強大に見せ、武田と深く結びつける要因になったのだろうか。

 強い敵を倒せばまた違う強い敵が現れる。

 まるで少年漫画の展開のようだ。

 場にそぐわないことを考え、心の内で苦笑いをする。


「……景虎殿の言うとおり武田と上杉が強く結びつき、大きな力を持つ勢力になったという話は分かった。だが、だからといって和議とは行かない。以前も言ったが織田は北条、徳川と同盟を結んでいる。戦況が芳しくないからと言って織田が徳川と北条側である事実は変わらず、手を引く理由にはならない」


「それは最もです。それに我々は織田と徳川、北条を引き裂こうとは考えておりません。上杉武田と和議を結んで欲しい、それだけです」


「……話が見えないな。なぜそこまで和議にこだわるんだ? 武田領防衛が目的であれば、まずは徳川、北条を説くべきだろう。織田は間接的に関わっていても実際兵を出しているのは両家だ。既に優勢になっており武田領を切り取れないと分かれば手を引くかもしれないだろう?」


 徳川、北条が武田に攻め入っているのは領地切り取りが目的だ。

 武田信玄を失い混乱する中、国力の低下している内にと言う判断である。

 しかし既に応戦体勢が整い、戦力が互角に拮抗するなら侵攻の理由が失われる。

 領地を取るどころか負けて失ってしまえば本末転倒も良いところだからだ。

 それが分からない家康殿や氏康殿ではないだろう。


「おっしゃるとおりですが、事は慎重を期さねばなりません。徳川と北条にはいずれ使者を出すことになるでしょうが、今ではないのです。一度着いた火は消えにくく、下手に消そうとすれば逆に激しく燃えさかってしまうでしょう」


「なるほど。そこで織田が静観、または仲裁をすることで両家が冷静になって武田領の切り取りを自ら断念させたいと言うことか」


「おっしゃるとおりです」


 景虎がそう言い、頭を下げる。

 確かに武田が上杉の助力を得て拮抗できる戦力を持ったのなら、下手に戦を長引かせて泥沼の、それこそ川中島の戦いになってしまう可能性を捨てきれない。

 謙信は以前、信玄と同じように争い合った為、同じ轍を踏まないようにと言う考えなのかもしれない。

 俺個人としては、景虎の話が事実で既に追撃戦ではないのなら、武田領切り取りの中止をした方が良いようにも思えてくる。

 依然武田には有能な将兵がいるし、そのバックに上杉謙信がいるとなれば、勘弁してくれ、という気分にさせられる。

 どうしたものかと周りの判断を聞くため半兵衛や秀長、弾正に目を向けるが、


「………」


 弾正が珍しく真面目な顔で思案をしていた。

 俺の視線に気付くと、はっとした顔で苦笑いをした後、


「いや、失礼。どうにも引っかかっておりましてな」


 取り繕うように顎先を撫でる。


「以前使者で来られた時と今の状況では何が違うのだろうと」


「?」


「―――!」


 俺が発言の意味が分からず首をひねるが、景虎の肩が僅かに動いたのを見逃さなかった。


「いや、そもそも上杉が武田と結んだ時点で戦力が拮抗するのなら時を待てばいい。織田は間接的に関わっていても実際兵を動かしているわけではないのですからな。兵站を都合するにしても戦況にさほど影響はない。なのにわざわざ静観させるために越前からの撤兵、加賀国の割譲は少々大きすぎる」


「まあ確かにそうだが、それは織田に派兵されると泥沼、あの川中島の再来になる恐れがあるからだろう?」


「ならばなぜ戦力が拮抗する前に使者を出したのですかな? 停戦を望むなら拮抗してから使者を出せば良い。なぜ断られると分かっていて使者を出す必要があるのか。そして間を置かず再度の使者。状況が変わったからと申されましたが、それが織り込み済みであった場合、言葉の意味が変わります」


「……」


 弾正の言葉に景虎は反応を示さない。

 静かに耳を傾けるだけだった。


「さて何が変わったのでしょうな? まるでことある毎に織田へと使者に来られ謁見をされ、ご自身を印象づけようとしているかのようだ。そして景虎殿。貴方は隠し事をしておられる。貴方は―――」


「―――弾正様。それ以上は私の口から申させてください」


 弾正が言おうとした言葉を遮り、景虎が口を挟んだ。

 しかし、その声は先ほどまでとは異なり、がらりと印象を変えていた。


「……虎殿、よろしいのですか?」


「ええ、これ以上は逆に織田家へ不信を与えます。それは避けねばなりません。いつかは話さねばならなかったことです。それが今になっただけの話」


 そう言って景虎は髪を縛り上げる紐を解き、軽く首を振って見せた。

 舞い上がるように長く広がる細い黒の髪。

 たったそれだけの仕草にもかかわらず、誰もが息をのんだ。

 そしてその空気の中、景虎がいや目の前の女性は、


「改めましてご挨拶をさせていただきます。私の名前は上杉虎。上杉謙信の娘にございます」


 言葉と供に三つ指を立てて頭を下げ、そう言ったのである。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ