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第四十二話 甲斐の虎 その肆

 強固で屈強な意志は伝染し、やがて輪をつくる。

 その大きなうねりは、周囲すらも巻き込んで時に奇跡すら呼び起こすという。

 だが、そんな言葉は目の前で行われている光景を前にすれば霞んでしまうように思われた。

 それほどの意志、熱狂の渦。

 もはや誰が見ても劣勢に立たされている軍とは、誰が想像できるだろうか。

 

「は、槍が鈍ってきたか忠勝!?」


 その言葉に反論するように大上段からの一閃で、馬ごと騎兵を叩ききる忠勝。

 正確には地面へと叩きつける、が正解だろう。

 

「なんの! この蜻蛉切り、まだまだ斬り足りぬと申しておるわッ!!」


「斬るって言うよりは叩き潰してる感じだけどな」


 先ほどの攻撃を受けた兵士を見ると、ミンチもかくやという有様だ。

 精神衛生上長く見つめるのはやめておこう。

 

「――!? ッチ!」


 戦場では一瞬の気の緩みが命取りになる。

 背後からの突きを身体を捻るように躱しながら、遠心力をそのままにその敵兵へと叩きつける。

 

 お互いに距離を離しすぎたため背後ががら空きになってしまっていたため、一度合流し背中合わせに言葉をかける。

 

「さて、ここまで切り込んで来たは良いが…こうなってくると欲が出てくるな」


「…しかし妙だと思わんか?」


「それは俺も思っていた…が、相手は武田信玄、真田幸隆だ。罠の可能性のが高いんじゃないか?」


 周りは既に逃げ場のないほどに囲まれており、四方敵だらけだ。

 しかしその包囲網は俺達2000を包囲するように両翼を広げている。

 俺達が一番恐れていた展開は、本陣を突き抜けられ浜松城へと帰還する家康殿に武田騎馬隊を接触させてしまうことだったが、表面からの突撃を耐えしのぎ、勢いを止められた武田軍に家康殿に追いつく推進力はないと考えてもいい。

 これだけの時間が稼げればひとまずは安心だろう。

 故に包囲陣へと切り替え、確実に俺と忠勝を打ち取りに来ているかと思えば、俺達の左右後方にばかり兵を展開させ、むしろ本陣への守りを手薄にしているフシすら感じられる。

 

「誘われている…んだろうなぁ」


 前方にはこれ見よがしに棚引く風林火山。

 そしてその両脇には真田六文銭、桔梗の紋、裏花菱。

 まるでここが終着点だと言わんばかりの歓迎ぶりである。

 

「しかし、それならそれで好都合。端から拙者等は死兵として修羅道を歩む身なれば。信玄の首の一つでも手土産に冥府へ参るまでよ」


「……いや、そうなったら冥府へは参れないと思うけどな」


 武田信玄を打ち取ることとこの戦の終焉は同じだろうから。

 だがしかしこのまま手をこまねいていても、打つ手は限られている。

 せっかく総大将を釣り餌にしてくれているんだ。

 餌だけかっさらってやる!

 

「いくぞ忠勝、正面突破! 敵本陣へと雪崩れ込む!」


「もとよりそのつもりよ!」


 眼前には風林火山がたなびいている。

 餌をぶら下げて俺達を釣ろうなんて甘いってことを教えてやらなきゃな。








元亀2年(1572年)

武田本陣にて



「――――」


 戦況をじっと見つめる信玄。

 武田最強であるはずの矛が、13000にも及ぶ武田騎兵隊の突撃が、僅か2000の兵によって受け止められいなされている事に信じられないような表情を浮かべ、いつしか腰を掛けることすら忘れ、立ち上がり魅入られるように、その先頭に立ち返り血を浴びながらも、決して折れることのない意志を持つ瞳で槍を振るう二人の武者の武勇を目に焼き付けている。

 

「なんという、なんという武…っ。そしてこの絶望的な状況を前に兵を死兵へと変える気迫…っ! この時代にてなおこれほどまでの武威を持つものが存在しておるのか…!? かつての虎胤と虎昌を見ておるようじゃ…っ!」


 武田信玄が上げる両名、原虎胤、飯富虎昌はともに武田信虎、信玄を支えた比類なき武勇の持ち主だ。

 信玄からすれば苦節を共にした、今は亡き重臣である。

 その二人と忠勝、久秀を同格と称したというのはそれほどまでに感銘を受けたということなのだろう。

 事実、そばにいる真田幸隆、秋山信友すらもその光景に見入っており言葉を発することが出来ずにいた。

 

「あれが、あの『武の一文字』だというのか…?」


 かろうじて言葉にできたのは昌景であった。

 かつて2度刃を交えた彼こそが、今一番の混乱にあるのかもしれない。

 あの頃は恵まれた力を駆使しているだけで、気迫篭る武威など感じられなかった。

 それがこの短時間でこうまで変わっているのである。

 振るわれる槍捌きは以前と変わることのない太刀筋であり、技術自体は向上はしていない。

 だが今同じように捌けるかと言われれば口を噤まざるをえない。

 何が違うのかと問われれば詳しくは説明できないだろう。

 ただ、以前のようなどこか厭世的な、この場にいてこの場にいないような惰性の行動ではなく、自らの意思を感じさせる、自身の両足でしっかりと地面を踏みしめ、前だけを見つめ続けるあの瞳の色。

 

「――面白い…っ」


「だが、このままではここにはたどり着けぬな」


 昌景の言葉を聞いていたのか、幸隆がそう口を開いた。

 2000の死兵も既にその数を半数にまで減らしている。

 その最前線で兵を鼓舞し、戦い続けている二人とてこのまま戦い続ければいずれ力尽きるのは目に見えていた。

 

「―――いや、奴らは来る」


「!? 御屋形様…」


 幸隆の言葉を否定したのは、武田信玄であった。

 そしてその予想は、はずれなかったのである。

 

 

 

 

 

 

元亀2年(1572年)

武田騎馬隊最前線にて



――――ドンドンドン!!!



「!? 新手か!?」


「待て忠勝! いや、これは…」


 突然響き渡る炸裂音。

 嫌というほど聞いたこの音。

 現在武田軍は種子島を保有していない。

 ならば考えられるのは、

 

「はぁッ!!」


「おおおおおッ!!!」


 馬が混乱を起こし行動不能に陥ってる中、種子島によって杭を討たれた包囲網を引き裂くように突撃を敢行してく一団、おおよそ500の兵。

 見覚えの有り過ぎるその顔は、

 

「才蔵!? 宗厳!?」


 そして開かれた血路へと体を滑り込まし、手に持った槍で俺達の隣に立つ人物。

 

「氏郷…っ! お前、なんでこんな所に来やがった! 身を隠せと言ったはずだろ!?」


 全身を返り血で浴びなおも闘志の衰えぬその瞳。

 ここまでの道のり決して楽なものではなく、むしろあえて死地に飛び込んできたとすら思えるまさに修羅の姿であった。

 

「なんでこんな所に、とは俺が聞きたいところですが…まあいいです。俺達が何故ここに居るか――そんなのは決まっているでしょう」


 才蔵も宗厳も当然のように俺達のそばへ立つ。

 逆境という言葉すら生ぬるいこの状況。

 言われなくたって逃げることが普通だ。

 だがそんな当たり前は、こいつらにとっての当たり前には適用されなかったらしい。

 まるでこの行動こそが当たり前であるかのように、その言葉を口にした。

 

 

「「「―――ここに『武の一文字』の旗印が掲げられている故に」」」


「!? お前ら…っ」


 

 俺の馬鹿でかい得物である武一文字には『武の一文字』の旗印が括りつけられている。

 そのために武田本陣へと俺が逆行して行ってるのがわかったのだろう。

 本当に…馬鹿な連中だよ。

 

「それはそうと、半兵衛殿からの伝言です」


「半兵衛から?」


 そう言って氏郷が口を開く。


「武田信玄の軍は浜松城へとは向かっておりません。いえ、正確には向かっていたのですが、貴方方が現れ殿を務め始めた辺りから明らかに用兵を変えたそうです」


「……どういうことだ?」


 俺の問に氏郷は首を振って、


「半兵衛殿も理解できていない様子でした。ただ死兵を相手に中央本陣を囮に使う、かと言って包囲網を敷きながらその包囲を絞る様子を見せない、まるで自らのもとに呼び寄せているようだ、と」


「呼び寄せる…、やっぱそうなのか?」


 確かに今も武田騎馬隊は此方に戦意を向けて入るものの、仕掛けてくる様子はない。

 そもそも幸隆であれば2000の兵など家康殿がいないとわかった時点で、即座に部隊を分け追撃隊を用意したはずだ。

 いくら殿に死兵がいたのだとしても数は2000。

 幸隆ほどの軍師ならどうとでもいなせたはずだ。


「久秀、いいではないか」


「忠勝?」


「あちらにどのような意図があったにせよ、拙者たちの目的は唯一つ。信玄公の首のみ」


「………だな。あっちが勝手に進みやすくしてくれてるんだ。有難く好意をうけとってやろうじゃねえか。―――才蔵、宗厳、氏郷!」


 俺は忠勝と目を合わせ、ひとつ頷いた。

 

 

「『俺達』について来い! 俺と忠勝はもう背後を気にしないからな! 全力で信玄の下まで駆け抜けるぞ、援護しろ!」


「「「ハッ!」」」






元亀2年(1572年)

武田本陣前にて



「………ふふ」


 迫り来る死兵を前にして、武田信玄は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。

 自身の長い戦いの歴史の中で、ここまで心が震えたのはいつ頃だったろうか。

 長野業正、村上義清、そして長尾景虎。

 そのどれもが勇猛であり、諸侯を震え上がらせた猛将である。

 そして今、目の前にいる兵どもはその猛将にすら引けをとらない類まれな武威の持ち主であると信玄の感は訴えていた。

 

「勇ましき武者振りよのう…」


 時代が移り始め、種子島などという技も力も心すら必要のない兵器が台頭し、武士の戰場は変わり果ててしまうのだろうと予感していた信玄は、自身の最後の戦いにおいて、心技体何一つ欠けることのない者達が今、この時代に確かに根付いている。

 その事がただ単純に喜ばしいことだと感じていたのだ。

 

 信玄は腰に下げた自身の二本の愛刀を確かめる。

 銘は『来国長』、『和泉守兼定』。

 和泉守兼定は信虎が所持していたものであり、その切れ味は比類なきを誇り、まさに武田の家宝と言っても過言ではない一刀である。

 だが、信玄が手にとったのは来国長。

 鯉口を切り、その波紋に自身の人生を映す。

 父を追放してまで国を盤石にしたその軌跡が、脳裏に浮かんでくるようである。

 

「今更、父の軌跡を振るうこともあるまい」


 来国長を腰に収め、和泉守兼定を腰から抜き、

 

「昌景、これまでの働き見事であった。お前の働きに見合うモノではないかもしれぬが受け取るがいい」


 そう言って山県昌景に和泉守兼定を手渡す。

 だが、昌景はそれに首を振り、

 

「御屋形様と駆け抜けた戦場こそが我が誉にて。ならば某、この無名なれど幾度の戦を共にした槍にて決戦に望みたくございます」


「左様か。ならば信友。お前はどうじゃ?」


 問われた秋山信友も、昌景同様に首を振り、

 

「某も昌景殿同様、我が愛槍を彼奴らに馳走したく」


 信玄は幸隆を振り返るも、

 

「ワシは軍配者。無用の長物でございますなぁ…。村正は信綱に託しております故、ワシはこれで迎え撃つといたしましょう」

 

 幸隆は自身の額に指を当て、そう言い治る。

 だがしかし、そう言いながらも十文字槍を携えるその姿は壮年の頃と変わりなく、乱戦となれば自ら槍を振るって戦うつもりだろうことは瞭然であった。

 本来真田家には村正という名刀が伝わっている。

 だがその名刀は幸隆の腰に帯びてはいない。

 この戦、喝にしろ負けるにしろ、自身が長くないことを悟ってのことだろう。


「ふ、ふはははっ! 揃いも揃って欲のないものばかりよ! ならばこの刀、彼奴らにくれてやるしか無いでは無いか!」


 本陣に迫る武威の気配が濃くなってきているのはこの場にいるすべての人物が察しているだろう。

 類まれな、ともすれば過去最大の敵との決戦はすぐそこまで迫っている。

 

―――そんな気配を肌で感じる信玄に、もはや病床の面影は存在していなかった。

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