第四十一話 甲斐の虎 その参
元亀2年(1572年)
掛川攻城戦本部にて
「家康殿! ご無事ですか!?」
「お、おお! 平手殿! 貴殿こそ無事でありましたか!」
武田騎馬隊襲来の報を受け、真っ先に向かったのは家康殿がいる本陣だった。
半兵衛や氏郷には林や森を遮蔽物に馬の機動力を削ぐように指示しているため、多少なりとも時間が稼げると踏んでの事だった。
一軍の将としては間違った行動かもしれないが、今一番守らなければならないのは家康殿だ。
半兵衛、氏郷は勿論大事ではあるが、家康殿と天秤にかければどちらを優先すべきかは明らかである。
それに俺の体力は無尽蔵だ。
下手な伝令より余程早く両軍を繋ぎ、伝達を伝えることができる。
「状況はご存知でしょうかっ!」
「…うむ。高天神城から此方へと信玄率いる騎馬隊が接近しているようですな」
「…はい」
近況はしっかりと伝わっているようだ。
「では時間がないので手早く行きましょう。我が隊は林や森を遮蔽物とし、馬の機動力を削ぐことで一時的にですが難を逃れております」
実際は確かめておらず、上手く行っているのかは分からないが、半兵衛、氏郷がいるんだ。
わざわざ俺が指示しなくてもそれくらいの事はやってのけただろうし、もしかしたら別の手段すら用い状況を改善しようとしているかもしれないしな。
「ですが所詮は一時しのぎ。そして一番の問題はまず間違いなく信玄は貴方の首を狙って来ることです」
「……そうでしょうなぁ」
この戦の総大将は家康殿である。
家康殿さえ討てば、動揺した掛川攻城戦戦は勿論、徳川領は大混乱を免れない。
跡継ぎがいるとはいえ、今はまだ若すぎるため、必ず今川義元を失った今川氏真を二の舞になるに違いないだろう。
「現在の兵力はどうなっておりますか? 騎馬隊、鉄砲隊、足軽隊、そしてそれを率いる武将の所在などは…」
「今回は攻城戦ゆえ騎馬隊は忠勝の2000のみ。榊原、酒井には3000の兵を与えており、ワシの麾下には鉄砲隊はここにある200丁と2000の兵を残すのみですな」
徳川兵は合わせて10000か…。
それもいまだ合流しておらず、実質は2000と200丁のみ。
騎馬隊である本多隊は間に合うかもしれないがそれでも3000。
表面からぶつかり合えば一瞬で踏み潰されるのがオチだ。
「……武田は13000ですが総大将に武田信玄、そして周りを真田幸隆、山県昌景、板垣信方が固めるおそらく武田最強の矛。同数の兵力を集めた所でこの野戦に持ち込まれた時点で勝負になりません」
「………」
「急ぎ浜松城へ帰還してください。家康殿さえ無事ならこの戦は勝ちだと、そう思ってください。すでに掛川城は武田によって城砦の意味をなしていません。故に武田信玄は掛川城を拠点と出来ず、二俣城のみがその居城となります。だから浜松城に帰還したのち籠城をすれば、まず間違いなく貴方の命は助かります」
「な…っ、ワシに部下を見殺しにしろと!? 幼少の頃より今の今まで耐えぬいた我が同士を見捨て、ワシ一人戦場に背を向けろというのですか!?」
「必要な、犠牲です」
「出来ぬ! そのようなことをするくらいなら、ワシは最後まで部下とともにこの命尽きるまで闘いぬいてみせるわ!!」
「~~~っ! 闘いぬくだけが勝利ではないでしょう!? 泥水をすすっても這いずってでも生きて、最後に笑うことこそが本当の勝利のはずだ!」
「―――ならん! 何と言われようとワシはここで戦い抜く!!」
く~~~!! なんつー頑固な!
頭に血が上っている事もあるんだろうが、考え方が単楽すぎるだろ!
武田騎馬隊の恐ろしさを知らなワケがないだろうに。
とはいえ、このまま家康殿を浜松城へ帰した所で騎馬隊の機動力を考えれば追いつかれる可能性のが高い。
何か方法は………
―――どさっ……
「え…」
突然家康殿の身体が揺らぎ、その体を揺らし崩れ落ちた。
しかし地面に倒れるわけでもなくその体を支えているのは、
「遅参、申し訳なく」
「忠勝殿!? ご無事でしたか!」
そこにいたのは本多忠勝だった。
その身には幾つかの傷を受けながらも、悠然とその場に立っていた。
本多忠勝といえば生涯その身体に傷を負う事がなかったとされる、後世では戦国最強とも言われる武人の一人だ。
余程の乱戦の末にここまでたどり着いたのだろう。
「状況は極めて不利ですな。我が隊も半数以上が武田騎馬隊の突撃によって蹴散らされ申した。かくいう拙者も部下によって活路を開かれ、殿を守るため生き恥をさらしております」
そう語る忠勝殿は顔には出さないが、相当な苦悩を抱えているのだろう。
状況が状況とはいえ、部下を置いてくるしか選択肢がなかったのだ。
「それより…。おい、お主」
「は、はい!」
忠勝に呼ばれた一兵卒であろう兵に声をかけると、その手に抱えた家康殿をその兵士へと託した。
「拙者が乗ってきた馬がいる。お主はそれに乗り、家康殿を必ず浜松城へお届けしろ」
「は…? それでは忠勝様は…」
「何度も言わせるな。急げっ」
「は、はいっ」
家康殿を背負い、馬のもとへと走る兵士。
それを見送ると、忠勝殿は状況を把握できずにいる兵に向き直ると、
「皆の者、よく聞け! この戦、もはや勝ち負けの存在する戦に非ず! 逃げたき者は逃げよ! 責はせぬ! だがもし、三河武士の誇りと殿への忠義がその胸に宿っておるのなら―――」
―――ゴォン!
「―――我ら、死兵となり共に修羅道へと参ろうぞッ!」
石突で地面をたたき、その声は高らかに。
誰もが何も言葉を発せない一瞬の静寂の後、それは起こった。
――――ォォォォォォォォオオオオオオオオ!!!!
凄まじいばかりの熱狂。
ともすればその場に立つことすら覚束なるような感覚。
誰一人として逃げ出すものはいない。
相手は戦国最強と謳われる武田信玄率いる武田騎馬隊。
数の上でも相手が上、勝算など無きに等しい。
それがただの一声。
その圧倒的な存在感と、培った戦場での兵からの畏怖と羨望。
この人さえいれば、そう思わせるこの熱狂の中心に立つ人物によって兵の一兵一兵を死兵へと変えてみせたのだ。
俺は目を奪われながらも、知らずしらずに武一文字を固く握りしめていた。
「これが、三河武士…」
死を恐れぬものなどいない。
兵を巧みに操り勝利を手繰り寄せる者は居ても、兵に死を忘れさせる者がどれだけいるのだろうか。
「………これが本多平八郎忠勝…ッ」
徳川家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八。
これこそが後の歴史に名を残す英雄の姿なのだろう。
元亀2年(1572年)
武田騎馬隊前線にて
「はぁぁぁぁ!!」
「ぬぅぅん!」
押し寄せる騎馬隊に武一文字を振るい馬ごと兵をなぎ倒す。
隣を見れば、俺に劣らずの怪力で馬の足を切り飛ばし、兵を落馬させ槍の一突きによってその生命を断つ忠勝殿の姿があった。
この戦場には俺達二人だけではない。
俺達を戦闘に2000の兵がつき従い、ともすれば俺達に迫るような戦果を上げ、武田騎馬隊を次々に蹴散らしている。
「ふっ、流石は平手殿。まさに『武の一文字』の名に恥じぬ戦働き」
「貴方にそれを言われちゃ、嫌味にしか聞こえませんよっ!」
互いに背を預けながら、確実に一歩一歩と前に進む。
妙な高揚感を感じる。
今までここまで死力を尽くして戦ったことなんてなかったからか?
「しかし良かったのですか? 貴殿は言わば織田家家臣であり、このような死地に赴くことなどなかったはず」
「まぁ、そうなんですけどね……ふっ!!」
忠勝殿の問いに答えながらも眼の前にいる敵の槍をいなしながら、前蹴りで敵の甲冑ごと肋骨を砕く。
我ながら恐ろしい威力だと、場違いにも感じてしまう。
「……強いて言えば、初めて自分の意志で力を振るってみたかったから、ですかね」
俺の答えが意外だったのか、忠勝殿は眉をひそめる。
まあそりゃそういう反応が帰ってくるよな。
「? 貴殿は今まで『武の一文字』として戦功を重ねてきたのでは?」
「流されるままに力を振るった結果に過ぎませんよ」
「ふむ、拙者にはわかりかねますな…。織田殿の為に力を振るったというのならそれは誇るべきものであると思いますが」
「……そこに自分の意志があればそうなんでしょうが、ね」
絶え間ない敵を前に、自分の過去を振り返り笑ってしまう。
生まれつきの恵まれたこの身体。
村では異端視され、父も母もそのせいで死んでいった。
過ぎた力を振るえば、人は恐れる。
当たり前のことを当たり前だと諦めて。
前世の記憶を引き継いで、所詮は傍観者と事なかれ主義を貫いて。
信長に出会ってからも変わらず、『武の一文字』なんて呼ばれて少しは成長したかと思えば、結局は過ぎた力を振るう免罪符のように扱う事で居場所を得た気がしていただけだ。
――――俺は結局何一つ成長してない、人に嫌われることを恐れる意気地のない餓鬼のまま…
「だから、俺はこの場に立っていなければならないんですよ。それがたとえ貴方達によって呼び起こされた勇気だとしても、いつかきっとそれが本物になることを信じて」
「ふふ…っ。ははっ、ははははははははッ!!!」
突然、忠勝殿が笑い出す。
それは心底可笑しそうに。
「忠勝殿?」
「ならば是非ともその勇気、本物にせねばなりませんな。それと…」
「?」
「拙者のことは忠勝と呼び捨ててくだされ。堅苦しい言葉も無用にお願いいたす」
ふ、と笑みを此方に向ける忠勝殿。
その笑みには親しみと、何より生きて帰るという鋼の意志が宿っているのを感じられた。
幾分か呆然としてしまう俺だったが、笑みを返し、
「じゃあ忠勝、俺のことも久秀と。ははっ、なんか絶望的な状況なのに笑いがとまらねえよ! お前のせいだからな?」
「くく、では責任を取りその笑みを勝利の笑みと変えて見せよう。行くぞ久秀っ!」
「ああ、背中は任せろよ忠勝!」
そう言って駆け出し、お互いにがむしゃらに槍を振るう。
そこには悲壮感など欠片もない。
死ににゆくわけではない、生きて帰るためだけに槍を振るっているのだから。




