第十九話 金ヶ崎の退き口……ってなんですか?
元亀元年(1570年)
信長が琵琶湖の西岸を北上し若狭国に入ると、粟屋勝久の国吉城に入城、本陣を置く
その勢いのまま朝倉景恒の手筒山城と金ヶ崎城を攻略
織田と朝倉の戦いの火蓋が遂に切って落とされた
上洛命令に従わない若狭国の武藤友益を討つという名目で始まったこの若狭侵攻であるが、本当の狙いは、若狭の奥にいる反織田を掲げている朝倉の越前であることは誰の目にも明らかである。
そもそも武藤友益は朝倉が支援している友好的武将であることから、朝倉としても織田との敵対関係はもはや避けられぬ様相と化してきていた。
さらに越前国の妙顕寺に兵を進めた信長は、4月25日、26日の2日間で、越前国への入り口にある朝倉景恒の手筒山城と金ヶ崎城を攻略したことによって織田と朝倉の戦争は避けられない形となったのである。
さて、そこで困るのは浅井氏だ。
いくら織田と同盟を組んでいるとはいえ、朝倉には久政の縁がありどちらを取るにもとれない状況が続いているのである。
さらに間の悪いことに、この北近江には織田信長の唯一の友、かの『武の一文字』平手久秀(あ、俺ね)が使者として滞在していることもある。
古い盟約を取るか、将来を考え織田との同盟を取るか。
正直な話、朝倉と織田では戦力があまりにも違う。
尾張、美濃、京を独自で保有し、楽市楽座による経済活発による紙幣、物流の流れ。
国力の違いは火を見るより明らか。
この時代、なによりお家を大事にする風潮の中、どちらに味方をしたほうが特化なんて言うのは誰が考えてもわかるはずなのだが…
―――だがしかし、俺は一つ見逃していることがあることに、この時点では気づいていなかったのである。
「素晴らしいお手並みですね、宗易殿。流石に平手お抱えということだけはある」
「恐縮でございます」
越前で大変なことになっているにも関わらず、静かにお茶を嗜んでいる俺。
お相手は浅井長政。
仲介は松永久秀が変装した千宗易ことジジイ。
世が世なら俺の奥さんの夫になるはずだった男なのだ。
あえて言わせてもらおうか?
勝てる部分が見つからないね!
なんだそのイケメンは?
しかもその所作は優雅で余裕を感じさせる。
礼儀を叩きこまれていることはわかるが、それを常に実践しろというのは難しい。
それは本人の気質なんだろうな、絶対A型だよ、部屋とか一週間位一回は掃除機で掃除しちゃうタイプだよ!
だんだん腹が立ってきたが、恋敵であることを抜けば本人自体は悪い印象はない。
むしろとても気の利く良い奴なんだろうな、とすらおもってしまう好青年だ。
おれの嫉妬の瞳にさすがに気づいたのか、
「平手殿? 何か?」
「あ、いえ…見事な眺めだと思いましてね」
お茶会を開いているのは、琵琶湖を一望できる高さに作られた茶室で、吹き抜けから琵琶湖のみならず、城下町自然も一望できるというすばらしい光景が広がっていた。
俺のその言葉を聞くと、長政はふ、と口角を上げ、
「この眺めばかりは他のどの国にも負けておらぬと自負できる、我が国の自慢なのです」
「…確かに。素晴らしき眺めでございますなぁ」
今この時まで寡黙を保っていたジジイ(もうこの呼び方でいいや)が、感嘆の溜息を漏らすようにその光景を一望する。
そうやって眺めている途中、ピタリと視線を止め、
「あちらが越前。今頃どんな戦況になっておるのか…よもや義景殿が討たれる、なんて事は…ほっほっほ…時期尚早でしたかなぁ」
「お、おい!? 宗易! お前何を…!」
朝倉と浅井が友好関係であることを知らない弾正ではないだろう。
その上で、朝倉と織田が戦えば朝倉義景が討たれるのは時間の問題だろうとこのジジイは言い放ったのである。
当然その言葉を聞き逃すことのなかった長政は、視線を鋭くジジイを睨む。
「……宗易殿。一体それはどういう意味でありますかな?」
その口調は下手なことを言えば命はない、という迫力を持っている。
間違いなく下手を打てばジジイは死ぬだろう。
そんな長政の殺気をいなすように広角を上げると、ジジイは静かに口を開いた。
「ふむ、何をそんなにいきり立つのでしょう? 織田と朝倉が対峙するというのは平手殿から事前に話を通しておると聞いておりますが…。その時は相互に不干渉という形で決議が決まったのではなかったのでしたかな?」
そう、既に織田の狙いが朝倉にあり、それは度重なる将軍足利義昭の上洛命令を無視したことから、朝倉を討つという名目での出陣であると伝えてある。
つまり朝倉は将軍に従わないため朝敵となっており、その大義名分を持って織田家が朝倉に対して臣従することを求めているのである。
大義名分的には圧倒的に織田家が正しく、朝倉家は将軍に従わない朝敵なのだから。
「割り切られよ、長政殿。もはや織田の時代でございますよ」
その言葉を聞いた長政は俯きながらも、少し口角を上げ、苦笑いをうかべる。
「朝敵ですか…果たしてどちらが本当に朝敵と言えるのでしょうか…。織田の大義は果たして正当なものなのでしょうか…?」
「……? 長政殿?」
そう言って懐から信書のような物を取り出す。
その新書に押されている印は、
―――丸に二引両紋…
それはまぎれもなく、
「足利家家紋!? 義昭様からの親書かッ!?」
俺は驚きに声を上げる。
なんでそんなもんがこんなところにあるんだ!?
俺の驚きを介することなく、長政はその書を開き文を読む。
まぁ、あの義昭様の書だからまわりくどくクドクドと書いてはいるが、要は、
1、朝倉に対する上洛の儀はあずかり知らぬこと。
2、将軍である自分に対し礼儀を知らぬ信長は、将軍の権力を我が物としようとしている。
3、よって真の朝敵とは織田信長ではないのか。
4,この書は周辺諸国にも送ってあり、何れの者も我が意に賛成を示しており、まもなく織田は孤立無縁となるだろう。
5、朝倉に攻め入る為、浅井の領地を通るが一度は通し朝倉と浅井で挟撃をかけるべし。
その親書の内容を聞いた瞬間頭に浮かんだ言葉は一つである。
――――『信長包囲網』かッ!!
馬鹿な、時期が早すぎるんじゃ…ッ!
そもそもそこまで義昭様を信長はないがしろにはしてないはずだ。
一体、何が…!?
だがそれより衝撃的な一文が、その後告げられたのである。
6、この親書は松永弾正久秀も知るところである。機を見て挟撃すれば弾正も兵を浅井、朝倉に呼応する手筈になっている。
長政の読み上げた最後の一文を聞くやいなや、弾正の方を見れば、呑気にお茶をすすっている姿が瞳に映る。
その姿に目の前が真っ赤に染まっていく。
決して信用していたわけじゃないが、疑ってかかっていたわけじゃない。
ただ、裏切り続けたこの男とて、あの九十九茄子を返還した時の顔には信用に足るそれだけのものがあったのだと…!
「お、お前…ッ!!」
「おや、どうしましたか? 平手殿?」
いつもと変わらぬように俺に声をかける弾正。
この期に及んで言い訳すらもしない、悪いことを、信義に反することをしないなどと甘いことを言う男ではないということだろうか。
「いやはや、九十九茄子を返還していただいた時にした約束を覚えておりますか?」
「…………」
「この親書はですな、要は織田信長を周辺諸国によって包囲する、言ってみれば信長包囲網と呼ばれるものでしてなぁ。はてさて、もし仮に浅井がこの親書を真に受け反信長に与しこの朝倉攻めによる挟撃を受ける事になれば、平手殿との約束はどうなるのかと思いましてな?」
「な、なにを?」
九十九茄子を返還した時の弾正の口約束は、信長には忠誠を誓うことは約束できないが、決して平手家には弓を引かないというものであったはずだ。
「ふむ、平手家に手を出さない…というのは、織田家の姫を娶った平手家は織田家とはどういう関係になってくるのかと。ある意味親戚も織田家も平手家も区別なく同じ家といっても過言ではないのかもしれない…どこまでが境界線なのだろうか、などと色々考えましてなぁ」
弾正はそう言って、茶器の中に隠してあった鏑矢を引き、上空へと打ち上げる。
その鏑矢はけたたましい音を立てるように上空へと上がり、その数秒後、
―――――オオオオオオオォォォォォォォォ………ッ!!!
本来若狭へと向かい、北近江にはいないはずの織田本軍が小谷城周辺へと包囲を始めていく。
数刻も立たぬうちに数万による小谷城包囲が完成されていた。
「いっそ織田家こそが平手家と等しい、という答えに至りましてな」
ニヤリ、とニヒルな笑みを浮かべる弾正。
超渋いです。
「な!? なぜ、なぜ織田本軍がここに居る!? 若狭は!? 越前に向かった兵は!?」
状況がつかめない長政は、うろたえるようにその場から指示を出そうとするが、
「無駄でございますよ」
千宗易、もとい松永弾正久秀は懐から丸に二引両紋の親書、間違いなく長政に送ったのと同じ内容であろう物を取り出す。
「裏切りこそ『華』、悪徳こそ『美』。されどそれがし、いささかその華やかさに飽きてしまったようで」
そう言ってもう一つ懐から取り出したるは一つの扇子。
舞うように開かれるその扇子に刻まれた家紋は蔦をあしらった、派手好きなこの男らしからぬ家紋。
「お初にお目にかかる。我が名は松永弾正久秀。ここにいたっての裏切りは『華』ではなく『醜悪』。大人しく信長殿の沙汰を待つとよろしい」
「………………」
ポカーン状態の俺にニヤリと目配せするが、状況の入れ替わりが激しくてついて行けません。
誰か説明してもらえませんかね?
「ようは最初から目的は若狭でも朝倉でもなくて、浅井だったってことか?」
「まぁ、そういうことだ」
「いやぁ、なかなかの粋な演出でございましたな。この久秀、久しぶり血肉湧き踊りましたぞ、はっはっは」
はっはっは、じゃねえよ。ヒゲをむしり取るぞこの野郎。
結局長政は意気消沈し、指揮系統が働かないパニックのうちに、俺は俺で内側から無双して城門も開いたところでもはや勝負有りだった。
浅井親子は追って沙汰を伝えると言うことで牢に入れている。
ここは俺と弾正と長政が茶の湯を共にした特等席で、信長もいたく感心するほどの眺めであったらしい。
要は弾正のもとに信長包囲網の親書が届いたことを、直接信長に伝え、一芝居打ったとのだという。
「浅井はもともと同盟国としては繋がりが深くなく、朝倉との縁は深い。事前に連絡したところで裏切る可能性はあった。そこに弾正の親書を見せられたら取るべき方策は限られてくるさ」
「なるほどねぇ…」
でも途中ビビったなぁ…マジで弾正が裏切ったと思ったもんな。
演技の才能があるんじゃないのか?
「別に演技というわけではなく、顔の使い分けですな。まぁ伊達に乱世の梟雄とは呼ばれておりませぬぞ」
はっはっは、と大笑いする弾正だが、俺本人としては全くわらえねえっつーの。
なんかやりきれない思いを抱えながら、杯を飲み干す。
「さて。これで、正真正銘後顧の憂いは無くなった。久政はさすがに無理だが、長政には働いてもらうとするか」
「え?」
「お前のところは…もう手一杯だから、そうだな秀吉のところの家臣にでもさせるか。人手が足りぬといっておったしな」
秀吉のもとに浅井長政かよ。
扱いきれるのか?
……でもなんか扱いそうな不思議な雰囲気があるよね。
「こんどこそ本格的な越前侵攻か…。朝倉義景、その首を洗って待っているがいい」
いちいちセリフが怖い信長だが、しばらくするうちにベロベロになっていつものパターンになったのは言うまでもないことだろう。




