the ark 09
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船は減速フェイズに入った。
とはいっても生活が変わるわけではない。急激な減速では船体に影響が出るので、長い時間をかけてゆっくりと減速し、自然な姿勢で軌道に入る。軌道上で最終的な着地点の決定や調査をして、ロボットを投下し、ひとが住めるような環境をある程度整えてから、船は大気圏へと落ちる。船はとても頑丈にできているし、最大限の船体のことを考えた計画になっている。もし無理をして船が壊れでもしたらぼくたちはどうすることもできないまま船といっしょに沈むだろう。ぼくたちは泳ぎ方も知らないし、息継ぎをしようにも宇宙のどこを探しても空気はない。
ただ、減速フェイズに入ると司令室はいちおうそれらしくなった。人員をおいて異常がないか常にチェックし、いまだに電子的な船長であるカレンも司令室で忙しく働いている。
ぼくは相変わらず、どうやってひまを潰すかを中心に生きている。
このあいだまで退屈など感じたことはなかったが、なにも知る必要がなく、なにも行う必要がなくなったいまは退屈しか感じない。この船は狭い。ぼくにもすこし緑の星に対する憧れや愛着のようなものが湧いてきた。
近ごろ、カレンとよく会う。それはもちろん意図的に顔を合わせるというのではなく、ぼくの両親が相変わらず司令室を好んでいて、そこにいつもカレンがいるので、必然的に同じ部屋にいることが多いというだけのこと。
カレンは本当に大人らしくなった。このあいだまでぼくたちといっしょにいたことが信じられないくらい。冷凍されていて目覚めたのだといわれたほうがまだ納得できる。そのせいか、大人たちはすこしずつカレンを認めはじめているようだった。おかげで情報上だけではなく、実質的にもカレンは船長に近い地位にいる。たまにほかの大人がいなくなるとカレンは船長しか閲覧を認められていない星の情報を教えてくれた。地球とよく似た生態系に、図鑑に載っているような動物たち。先に星へ降りている探査機はいまも活動していて――太陽光さえあれば半永久的に活動できる仕組みらしく、その単純さがうらやましい――新たな情報を船に送っている。なかには動物たちがとっくみあいをしている映像もあり、それを見るときカレンはかつて〝図書室〟でぼくたちを見ていたのと同じ目をする。
大人たちが目覚めてから三年、星へ着くまではあと二年。
レンは着々と準備を進めているらしい。そもそもどんな計画なのかもぼくは聞かされていないが、会うたびにレンは抽象的な議論をしたがる。ぼくはレンの表情からほんのすこしの狂気を感じていた。しかしそれを理由に拒むことはできない。すべての人間が程度の差こそあれ狂っている、というのではなく、単純に、計画について話すレンは魅力的だった。
イルはいま、親子喧嘩の真っ最中で、しかも家出中でもある。
大人たちが目覚めて以来、イルはぼくたちのなかで唯一両親と同居することを望み、それまでの部屋からすこし広い形の部屋へ移った。以前の部屋よりは広いが、本当に広い空間など船内にはなく、室内にいるかぎりかならず喧嘩相手と顔を合わせなければならない。それがいやで部屋を飛び出したらしい。はじめはカレンのひとり部屋にいったらしいが、やんわりと仲直りを諭されたのでそこも出て、ぼくの部屋にやってきた。三日前からイルはルームメイトだ。
かつて〝図書室〟の隅でうずくまるのが好きだった少女は、いまはベッドのうえで一日中寝ころんでいることを望んでいる。
「だって重力があると歩きづらいもん」
船内を一回りして部屋に戻ってきたぼくがため息をつくと、イルは弁解がましくいった。
「このくらいの重力でそんなことをいってたら星ではなにもできない。星に着くころにはきみも十五歳だろ。充分働き手として認識される」
「でも、星に着いてもとくに働くことはないってお父さんがいってた」
「居住空間は軌道からユニットを落としてロボットにやらせるけど、それは最低限のものだけだよ。ぼくたちが降りていっても雨風をしのげる程度のものしかできていない。そこから発展させるのは、人間の役目だ」
「どうして? ロボットに全部やらせれば――」イルははっとして言葉をとめる。ベッドの上で身体を起こし、不安げに身体を縮ませて、「わたし、なんだかばかになったみたい。昔のわたしならこんなこと訊かなかった」
「すべてをロボットにやらせないのは、技術的にむずかしいということもあるし、ぼくたちの世界はぼくたちで作らないと無意味だからだよ」
「わかってる。わかってたのに――年をとるとこうなっちゃうの?」
ぼくはベッドが占領されているので端末の前に腰を下ろす。
「成長と劣化は精神的な問題だ。劣化したと思うならそうだし、好ましい方向へ進んだと思うなら成長になる。人間はみんな、劣化していくようなものだよ。ぼくだって昔は知っていたことをたくさん忘れた」
「それが大人になるってこと?」
「わからない。ぼくも大人じゃないし」
「でも子どもじゃない」
「どうかな。それもやっぱり考え方次第なのかもしれない」
「ねえ、ヴァンは恋人っている? カレンがそう?」
一転してイルは身を乗り出して目を輝かせる。こうした切り替えの早さはぼくやレンにはない。それは見る必要がないもの、考える必要がないものとわかっていてもじっとそこを見つめて考え込んでしまうから、いまだにぼくたちはイルのようにはなれないのかもしれない。
「恋人なんていないよ。カレンは友達だ」
「でも最近仲いいでしょ」
「友達だって仲はいいよ。突然どうして?」
「昨日、ヴァンが出かけてるあいだに船のなかを散歩したの」イルはすこし目を伏せる。「そしたら泣いてるひとがいた。女のひとで、どうしたのって訊いたら、恋人と別れたって」
「狭い船のなかで大変だね」
「でもそのあとで別れたわけじゃなくて、ふたりのあいだで悲しいことがあったって言い直してたけど。よくわからないっていったら、あなたにも大切なひとができたらわかるようになるかもっていわれたから、ヴァンならわかるかなと思って」
「見当もつかない」
「だと思った」
イルは笑顔を浮かべる。大人たちと同じ、ぼくには大げさでわざとらしく見えてしまう笑顔。しかしぼくには真似できない笑顔。
「ヴァンは、人間だけど人間らしくないっていわれたもんね」
「これでも人間らしい人間のつもりだけどね」
「カレンならわかるかな?」
「そんなに知りたいの?」
「だって、子どもにはわからないっていわれてるみたいで悔しいでしょ。わたしたち、もう子どもじゃないよね?」
「カレンは大人だと思うけど、どうしてそう思うのかは説明できない。なんだろうな、大人って」
「年齢?」
「やっぱりそれがいちばん的確って気もするけど、それだけで説明できるようなものでもない気がする」
「じゃあ、性交渉の有無」
「無関係じゃないと思うけど、それもやっぱり完璧じゃない」
「子どもの有無?」
「そうかもしれない。あらゆる生物の第一存在意義は子孫を残すことだろうから、それが済んで、余生と呼んでもいいような期間を大人っていうのかも」
「だったらわたしたちはまだ子どもだね」
「子どもっていう定義もむずかしいけど。大人の対義語っていうだけでは完全じゃないし」
イルは退屈だというようにベッドから降り、部屋を出ていく。
「ねえヴァン」
「なに?」
「わたしたちは友達?」
「そうだよ。幼友達」
「そっか。じゃあ、またね」
「仲直り、がんばって」
イルは曖昧な笑顔でうなずくと部屋を出ていく。ぼくはそれを見送ってから、その瞬間にイルが大人になったのではないかと思った。もちろん根拠はどこにもないけれど。