the ark 04
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朝起きて服を着替えるとすぐ端末に向かい、〝先生〟から出されたその日のノルマを確認してさっそく取りかかる。朝食と昼食はそのまま部屋で食べ、三時三分前になるとアラームが鳴るので、ぼくは部屋を出る。二分で廊下を通って〝図書室〟に着くころにはぴったり三時。それから四時までが自由時間。
レンはこのあいだと同じ黒いドレスだった。とにかく大きな服で、レースが何枚も重なっているので見るからに豪華だ。ぼくたちの服も望めばそんな形に作り直すこともできるが、わざわざ船の機能を使っているのはレンだけで、カレンとイルは個性のないワンピース。ぼくも白いシャツとズボン。
「遅いわ」いつものようにレンは不機嫌そうな顔。「どうしてあと五分早くアラームを鳴らさないの?」
「寸前まで勉強してるんだから、仕方ないだろ」
「まじめに勉強してるなんて、よっぽど〝先生〟が好きなのね」
「好きとかきらいとか思ったことはないけど、今日の分は今日やらないと、明日まで持ち越しになる」
「もういいわ」レンは興味もなさそうに首を振る。「今日はどんな本を読む? このあだいはアイルランドの作家、その前は画集だったわね」
リーダーを操作しながらレンは部屋のなかをふらふら移動し、イルはなんとなく不満げな顔をしている。カレンはいつもと同じように、すべてを見守りながら微笑んでいる。
「ゲーテはどう?」
「前に読んだ」とぼく。「内容は憶えてないけど」
「それじゃああなたと同じ国の本にする?」
「ぼくは国籍なんかないよ。強いていえば、宇宙生まれの宇宙育ちだから宇宙人だけど」
「でも外見は日本人みたいでしょう。中国人ともすこしちがうし。名前もそんなふうに変えたら?」
「じゃあ日本人でいいよ。だれにする?」
レンはあっという間にひとりの作家の短編小説を探し出す。おかしな名前の作家だ。これも古い時代の小説。英訳もあったが、読めない言語でないかぎりぼくたちは原文を読むようにしている。
物語の筋は簡単だ。ある頭がすこしばかりおかしくなった科学者が、恋敵に恨み言とも遺書ともとれる手紙をしたためる。その手紙を読者も読むわけだが、最終的にはそれはありがちな悲劇的結末になり、なんともいえない後味の悪さで物語が終わる。
短い話だから、読むのに一時間もかからない。しかし感想をいいあうわけでもなく、それぞれリーダーをしまってぼんやりしているところに、警報が鳴った。
十一年間この船で暮らしてきてはじめて聞く警報だった。
甲高い、いかにも神経に障る音。部屋の見えないスピーカーから聞こえるし、外の廊下からも聞こえているのがわかる。
「なんの音?」とレン。「なにか事故でもあったの?」
「ちいさな隕石がぶつかったのかも」ぼくはあるはずもないことを口にする。
「装甲があるでしょう。装甲を貫くような大きなものなら事前にレーダーが探査するはず。回避行動もとれないくらいの速度できたの?」
「シエンティフィカかも」
「それをいうならアルティフィキアリアでしょう。ナトゥラリアにしてもアルティフィキアリアにしても、なにかが船に衝突したならもすぐに被害が出るはずよ」
「とにかく状況をたしかめないと」
ぼくはドアを開けて端末を部屋に引っ張り込んだ。そのときちらりと廊下を見たかぎりではいつもどおり明るくて清潔そうな印象で、穴が空いてあらゆるものが宇宙空間に吸い出されてしまったような様子はない。だとすればぼくたちもいまごろ宇宙空間のどこかだろうが。
リーダーの操作は苦手だが、端末の操作ならぼくも人並みにできる。しかし船内の詳しい情報を端末から知るには船長の許可が必要だった。
いつもは広い部屋に散り散りになっている三人は、いまはぼくのそばに集まっている。本能的な行動なのかもしれない。イルはぼくの服を掴み、レンはぼくの肩にすこし触れて身体を固定している。端末のディスプレイに船長の許可を得よという警告が表示される。カレンが指先を押し当てると船内の詳しい状況が表示された。
簡易表示される船体の全容にはとくに変化がない。すべてグリーン。いかなる衝突もなければ、軌道の変更も見られない。目的の星に向かって慣性移動を続けている。エンジンに火が入った様子もない。船は文字どおりの漂流状態。
内部に表示を変えると、異常はすぐに見つかった。ありとあらゆる構造が動いている。〝先生〟からの指示で大量の食料が配布準備に入り、数十人分の衣装も準備されている。
そして睡眠室――ぼくたちは冷凍室と呼んでいる――の様子がおかしかった。
「どういうこと?」レンが震えた声でいった。「〝先生〟が壊れたのか、この端末の情報がおかしいんじゃない」
「根本を疑う前に、もうひとつ合理的な解答があります」とカレン。彼女は絶望的な顔。「平和な箱庭が壊れてしまった」
「目覚めたんだ」とぼくはいった。「みんなが、冷凍から覚めた。〝先生〟はそのための食事やら服やらを作ってるんだ。警告音はコールドスリープが終わったって報せかも」
「まだ目的地までは五年あるし、減速フェイズまでも三年あるのに?」
「だけどそう考えるしかない」
「もうひとつあるでしょう。〝先生〟の頭がおかしくなった」レンは神経質に笑った。「人間だって狂うんだから、〝先生〟がこの退屈に耐えきれなくなったとしてもおかしくない」
「機械に時間の感覚はないよ。一を百回繰り返すのも、一億回繰り返すのも機械にしてみれば同じことだ。やっぱり睡眠から覚めたんだよ」
「迎えにいきましょう」とカレンは船内の情報をさらに調べる。
生命維持装置にも状況認識にも異常はない。〝先生〟は狂っていない。カレンは部屋を出た。だれもあとに続かないのを見て一瞬悲しそうな顔をしたが、それでも彼女は船長らしい威厳をもってぼくたちを振り切るとひとりで〝冷凍室〟に向かった。
レンはぼくの肩を離すと不機嫌そうに部屋のなかを漂った。イルはぼくの背中に張りついたまま、動かない。
「大丈夫だよ」とぼくはイルに向かっていった。「問題はなにもない。お父さんやお母さんが目を覚ましただけだ」
もちろんそれくらいのことはぼくにいわれるまでもなく理解している。ぼくたちは子どもだと自覚しているが、無知ではない。ただ段階的に人間を解釈したとき、その幼年期にあたるだけのこと。
イルはもうなにもわからない状況に恐怖しているのではない。
「さっき、服の用意は何人分だった?」とレン。
「知らないよ。二、三十人だろ、たぶん」
「冷凍されてる人間の数は?」
「それも知らない。二百人くらいじゃないのか」
「だったら、目覚めるのは全体のごく一部だけなのね。全員が目覚めるわけじゃない」
「いま二百人目覚めてもやることがない。あと三年は慣性移動なんだから」
「それじゃあどうして数十人はこのタイミングで目覚めたの? わたしたちは操作していない。勝手に目覚めるはずもない。はじめから計画されていたはず。このとき、このタイミングで目覚めるようにって」
「カレンが戻ってくればわかるよ」
「その前にこの部屋を出ましょう」
「どうして」
「いいから」
一度レンがわがままを言い出すとどうやっても諦めさせることはできない。ぼくたちは〝図書室〟から司令室に移り、そのことをぼくの端末からカレンに伝えた。
レンはやはり身体を固定せず、黒いドレスの裾を好き勝手に漂わせながら不機嫌そうな顔をしている。イルは不安そうにぼくのそばから離れない。ぼくは端末を抱いたまま、扉を見ていた。
ひどく静かだった。いままでとなにも変わらないように。しかしぼくはこのとき、カレンのいう箱庭がもうなくなってしまったことに気づいた。それをエデンと呼ぶなら、ぼくたちはもう追い出されてしまったのだ。蛇にそそのかされたのはだれだろう。食べてはいけない知恵の実を食べてしまったのは?
カレンはなかなかやってこなかった。
なにか問題でもあったのかと思いはじめたころ、やっと扉が開いて、十七人の大人たちとカレンが入ってくる。カレンは先頭にいて、まるで早く目覚めすぎた集団の代表だとでもいうようにぼくたちと対峙する。
レンは空中から降りてきてぼくの後ろにまわった。イルのちょうどとなり。こちら側の代表はぼくということに決まったらしい。
ぼくはしばらくなにもいわず、ぞろぞろ入ってきた大人たちを観察した。血の巡りが悪そうな、白い顔をした男がいる。まだ眠りから覚めきっていないようなぼんやりした目をした女も。手すりに捕まって重力があるように立っている男もいれば、どこにも捕まらず浮かんでいる男もいる。全員が若い。赤毛もいればブロンドもいて、黒髪もいる。顔立ちも様々。たくましそうな体つきの男から、いかにも栄養失調ふうの女まで。
「ヴァン、後ろのふたりも」カレンがいった。「挨拶は?」
「おはよう、とでもいえばいいの?」とレン。「それともブエナス・ディアス、ボン・ディア? 英語はきらいよ。ほかの言葉にして」
カレンはすこし後ろを振り返り、ぼくたちが日常的には日本語を使用しているということを大人たちに説明した。とくに理由はないけれど、とも。大人たちはうなずく。それからひとりの女が前に出てきた。ブロンドに青い目。カレンとレンの母親だろうかと思っていると、その女はまっすぐぼくを見ていた。
「ヴァンなのね。あなたは憶えていないでしょうけど、わたしはいまでも昨日のことのように思い出せるわ」
「母さん?」とぼく。
「そうよ。ほら、お父さんも」
大きな身体をした、同じくブロンドの男が出てくる。それがぼくの父。
「久しぶり、父さん。母さんも。よく眠れた?」
「ええ、あなたたちが船を守ってくれたから」
「そう。よかった。それで、カレン、ぼくたちはどうしたらいいの?」
「抱き合ってよろこぶのが普通なんじゃない?」とレンが皮肉っぽくいう。「涙を流してね」
「そうしろっていうなら努力してみるけど。もし、なにも用がないんだったら、もう四時だから、部屋に戻って勉強しないと」
「勉強はまた明日にしてください」とカレン。「これからのことを話しあう必要があるでしょうから」
「ぼくたちも入れて? 状況なら全部〝先生〟が知ってる」
ぼくの言葉に大人たちは首をかしげた。またカレンが説明する。中核コンピューターをわたしたちは先生と呼んでいる。これにもとくに理由はないけれど。大人たちはうなずき、それからぼくの母がいった。
「あなたたちの口から説明を聞きたいの。もちろん、話せる範囲でいいけど」
「それなら、ぼくたちのうちひとりが残ってればいい。だいたいぼくたちは同じ経験をしてるから。カレンならちゃんと説明できるよ。じゃあ、ぼくはこれで」
しかし扉は大人たちの向こうにあって、そのあいだを通り抜けるのはむずかしかった。大人たちはぼくたちをじっと見ていた。ぼくと、後ろから続くふたりの少女を。それからひとりこの場に残るカレンも。しかしだれも声はかけない。大げさに戸惑うような顔をしてぼくたちを見送った大人たちが扉の向こうに消えて見えなくなると、とたんにレンは廊下の天井近くまで飛び上がる。
「あなたの両親だけど」レンは皮肉っぽさを消さない。「本当にブロンドなのね。ひとちがいじゃないの?」
「ちがうと思うけど、ぼくも顔は憶えてないよ。でもブロンドだってことは知ってた」
「先祖に日本人が?」
「いたのかもしれないし、いなかったのかも。船には乗ってたはずだから、二、三世代前かもしれない。それか、地球にいたころか」
「隔世遺伝よりひとちがい説のほうが合理的ね。モンゴロイドの両親なのかも」
「きみの両親は?」
「さあ。いたのかもしれないけど。イルは?」
「わかんない」
「赤毛はいたけどね」
まずぼくの部屋にたどり着き、イルはぼくからレンに宿り主を変える。
「じゃあ、また明日」
部屋の前までいっしょに帰ってくることははじめてだったが、案外素直に別れられた。
扉が閉まると端末は自分で寝床に戻り、ぼくはその前で〝先生〟からの宿題をこなす。〝先生〟は――裏では大忙しなのだろうが――なにも変わりなく、午後からぼくがこなせるだけの宿題を出し、まちがえているところがあると細かく指示して訂正させる。歴史、哲学、文学、絵画、音楽、数学。ややこしいひとの名前にややこしい功績、ややこしい概念にややこしい流行、ややこしい内容にややこしい交友関係、ややこしい技法にややこしい鑑定、ややこしい音律にややこしい地名、ややこしい式にややこしい定理。そんなものばかり見ていると自分がだれでどこにいるのかなどどうでもよくなる。そのあたりが、もしかしたらぼくが人間らしくないといわれるゆえんなのかもしれない。
夕方――夕陽などないし、宇宙では時間ほど意味が掴みにくいものもないが――、部屋の扉がノックされた。カレンでもなければレンでもなく、イルでもない。ぼくたちはほかのだれかの部屋をたずねたりはしない。扉が開くと、先ほどぼくの母だと判明した女がいた。
ゆたかなブロンドを持つ、まだ若々しい女は、ぼくを見ると顔をゆがめて泣きだした。その感情表現にぼくは驚いた。泣くという言葉の意味をいま改めて理解したような、それでいてその過剰さはなんとなくいやらしいものであるような、自分でも理解しきれない感情が浮かぶ。
女――母はぼくを抱きしめ、それからベッドに腰掛けた。
ぼくはされるがままになり、まだ残っている勉強を気にしながら、母を追い返せずにいた。
「不思議な感じよ、ヴァン」母はぼくの頭を撫でながらいう。「昨日まであなたはほんのちいさな子どもだった。気に入らないことがあれば泣いて、楽しければだれよりも大きな声で笑ってた。そんなあなたを見ながら眠ったの。これは夢なのかもしれないわ。コールドスリープのあいだに見る、長い夢」
「夢じゃないよ」とぼくはいった。「すくなくともぼくにとっては。ぼくには昨日がある」
「そうね。なんて説明したらいいのかしら。タイムマシンに乗って未来へきたみたい。もうすっかり男の子ね。いまはなにをしてたの?」
「勉強」
「えらいわ。わたしは勉強がきらいだった。役に立たない知識なんかいらないって。だからあんまり勉強はしなかったわ」
「あの、勉強がまだ残ってるから」
おずおずというと、母は驚いたように立ち上がって、それから照れ隠しでもするように笑った。
「ごめんなさい。邪魔しちゃったわね。おやすみ。また明日」
「おやすみ」
「それから、ただいま」
「……おかえり」
母がいなくなると、ぼくはまた端末の前に戻って勉強を続けた。十分遅れている。しかしこのくらいならどこかで取り戻せるだろう。ぼくはまた、ぼくとはなんの関わりもない様々な人物のことや考え方に意識を集中させた。