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the ark  作者: 藤崎悠貴
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the ark 01

the ark


     1


 アラームに急かされて部屋を出る。

 廊下を伝って移動しているあいだも後ろからは端末がひょろひょろとついてくる。止まれと命じればついてくることはないが、代わりに船内のカメラがぼくを追う。見えない目で見られるよりはこちらからも見えている目で見られるほうがいい。

〝図書室〟に入るともう三人はぼんやり部屋のなかを漂っていた。


「遅いわ」とレンが日本語でいった。「アラームをもう五分早くしなさい」

「遅刻してきたわけじゃない」とぼく。「ぴったり時間どおりだよ。いま三時になった」

「だからあなたはすこし冷たいところがあるといわれるんですよ」カレンがいった。

「時間を守るのは冷たい人間の特徴なのか?」

「冷たいというより、人間らしくないというべきでしょうね。端末はそんなひどい言葉はいえないから、冷たいと表現しているだけ」

「ぼくは人間だ」

「人間らしくない人間だっているでしょう」

「ぼくのどこが人間らしくない? 目はカメラじゃない。声も合成しているわけじゃないし、自分と同じものが別のどこかにいても平気だとは思えない」

「時間厳守はいいことです」カレンはぼくとレンを見る。「でも、まわりの状況を見て臨機応変に対応を変えられるのが柔軟性のある人間といえるでしょうし、ヴァンにしたって遅刻してきたわけじゃないんですから」

「キャプテンだか姉だか知らないけど、あなたに諭されるようなことじゃないわ。それくらい自分でわかってるんだから」


 レンは苛立たしげにいう。ぼくとレンのやりとりだけならただの冗談で済むのに、そこにカレンが入ると本当のけんかのようになってしまう。


「三人とも、やめてよ」と部屋の隅でじっとしていたイルが泣きそうな声でいった。「あんまり騒ぐと〝先生〟がくる」


 本当に怒っているときはイルの言葉はむしろ火に油を注ぐようなものだが、今日はそこまで深刻な事態というわけでもなかった。レンは壁に手をついて移動すると部屋のなかまでついてきたぼくの端末を追い出す。ほかの部屋と同じように、この部屋にもカメラはある。しかしここは〝図書室〟で、機械に図書室は必要ないから、人間だけにならなければならない。この四人だけに。

 イルはドアからいちばん遠い隅に蹲っていて、カレンはそのそばの壁に身体を固定している。レンはどこにも身体を固定せずに部屋のなかを漂い、ぼくは片手で手すりに捕まった。

 ぼくたちはその部屋を〝図書室〟と呼び、かつて大人たちは遊戯室と呼んでいた。どちらにしても部屋にはなにもなく、図書室らしくもないし遊戯室らしくもない。ただの四角い空間。壁や天井に最小限の手すりがある以外は、ほかの部屋よりも一段となにもない部屋。


「今日はなにを読む?」


 レンは黒いドレスの裾を無重力に遊ばせながら呟く。片手にはリーダー。ぼくもポケットに同じものを入れている。イルも、カレンも。


「古い文学ってやつはもう飽きたよ」とぼく。「シェイクスビアとか、なんて名前だっけな、旧ロシアの」

「旧なんてつけないでよ。ロシアはロシアでいいわ」

「もうないのに?」

「それをいうならすべてに旧をつけなくちゃ。旧地球の、旧某国の、旧人類の――面倒でしょう。古い文学がいやなら、なにがいいの」

「三代前のキャプテンがつけてたっていう紙媒体の日記はないのかな? 昨日見た記録にあったやつ」

「もうなくなってるでしょうね。読みたければ、たぶんデジタルに直したやつがあると思うけど」

「デジタルのを見たって仕方ない」


 同感とばかりにレンはうなずき、リーダーを操作する。それをぼんやり見ながらぼくは疑問に思ったことをそのまま口に出す。悪いくせだとわかりながら。


「端末はいけないのに、リーダーは持ってきていいの?」

 案の定、レンはぼくをにらむ。「前にも一度教えたはずよ」

「そうだっけ。憶えてない」

「ものを憶えられないあなたにはなにを教えても無意味よね」

「端末はマシーン、リーダーはツール。だから持ち込んでもいい。そうだよね」とイル。

「そういうこと」

「なるほど。なんとなくわかったよ。それで、おもしろそうな本は見つかった?」

「あなたにとって? それともわたしがおもしろそうだと思うもの?」

「ぼくが――というかみんながおもしろそうだと思うものがいい」

「要求だけは一人前ね。あなたも探せば?」

「リーダーは苦手なんだ」

「わたしがやる」イルがうずくまったままリーダーを取り出す。


 レンとイルが自分の手元を覗き込んで夢中になっているので、ぼくは仕方なくカレンを見た。カレンは特定のだれかというわけではなく、部屋全体を見ている。柔らかく微笑みながら。母親のようなのかもしれない。実際には子どもである彼女も、役割を与えられれば母親にでもなれるだろう。

 レンはカレンの目を機械のようだという。本人の前ではなく、ぼくとふたりきりになったときだけ。なにもかも知っていると思い込んでいるような瞳が機械のようだという説明を受けても、ぼくにはカレンの目と機械のレンズを同じようなものとして見ることはできない。レンズは黒い。カレンの目は透き通るような青。まるで空のよう。実物の空は見たことがないけれど、あらゆる媒体で見る空はカレンの目と同じ色をしている。


「絵にしましょう」とレンがいった。「そうすればみんなが楽しめる。ちがう?」


 ぼくはあまり興味がなかったが、とりあえずうなずく。それから渋々リーダーを取り出した。


「何番?」

「Fの一一六三八○二」

「エフの……なんだっけ」

「貸しなさい」


 レンに向かってリーダーを投げる。レンはすばやく操作してまた投げ返した。半透明のリーダーにはもう目的の画集の表紙が表示されている。

 イルとカレンも同じようにリーダーを取り出して操作を終えていた。リーダーの操作がうまくできないのは四人のなかでぼくだけなのだ。レンはそれを、ぼくがばかなせいだというし、カレンは普段から端末に任せているから慣れていないだけなのだという。イルはなにもいわない代わり、ぼくにはできない操作を代わりにやってくれたりする。カレンに怒られるのでたまにしかやってくれないが。


「これ、どの時代の絵? ルネサンス?」

「どこがルネサンスなの?」

「いや、なんとなく」

「ラファエル前派よ」

「ああ」


 よく見れば表紙にもプレ・ラファエルと書いてある。ぼくは片手でリーダーを軽く持ち、すこし遅めのスライドショーをぼんやり眺めた。

 ルネサンスとはまったくちがう絵柄で、これはこういう理由によって生まれ、こういう理由で衰退していったのだ、ということをレンがしゃべっている。なんとなく聞いてはいるものの、理解はしていない。絵はきれいだった。ついぼんやりしてしまうくらい。いろいろな画家の名前と題名が現れ、なかには知った名前もある。とくに題名のほうにはなじみの名前が多かった。ガラハッド、エレイン、オフィーリア。

 レン以外はだれもしゃべらない。それはだいたいいつもどおり。レンは本を読みながらでもしゃべれるが、ほかの三人はそうではないし、しゃべれたとしてもしゃべる言葉を持っていない。レンはなんでも知っている。ぼくたちに想像できる範囲のことは。


「宗教的な絵からも、壮大なシーンからも離れてるから、テーマ的にはとくにおもしろみはないの。たとえばシェイクスピアをテーマにしてもとくに悲劇的なシーンを描くのではなくて、見た目が美しいシーンを選んで描いた。だからこういう絵はきれいなの。美しいものを美しく描こうとしているわけだから」


 ちいさな川を流れていくオフィーリアの死体は、たしかにきれいだ。本当の死体ではないとさえ思える。そういう意味では現実にも忠実なのかもしれない。シェイクスピアは演劇だから、そこにいるのは役者で、死者ではない。

 森のなかに大きな馬と並んで立つガラハッドにも現実感はない。船のなかで眠るように死んでいるエレインにも。それを意図しているのなら完璧にそれを表現できているのだろうし、意図していないとすればそこに奇跡みたいなものが入り込んだ結果なのだろう。

 ぼくはもう顔も思い出せなくなった父や母を思い出した。父と母は眠っている。エレインやオフィーリアは眠ったように死に、父や母は死んだように眠っている。いつかは目覚めるが、それまでは決して生きているとはいえない。

 スライドショーが終わるとレンはリーダーをドレスのポケットにしまった。無重力でなくてもふわふわしていそうなドレスに実用的なポケットがあることにぼくは驚いた。


「やっぱりデジタルじゃおもしろくないわ」レンは俯せの姿勢で呟く。「本物の絵があればいいのだけど。そうすればこの部屋だってライブラリーからゲメルデガレリーに、それかクンスト・カンマーに名前を変えられる」

「本物の絵なんてできるわけないよ。紙もない」

「でも三代前のキャプテンは紙にペンで日記を書いてた」

「懐古主義だったんだね」

「わたしたちのなかで懐古主義じゃない人間がいる?」

「ぼくはどっちでもいいよ。未来でも、過去でも」

「わたしは未来なんていらない。時間は、過去を知るためだけにある。未来はそのうちにやってくる。そうすればわたしたちは未来を知ることができるけど、過去は知ろうと思って未来を消費しなくちゃわからない」

「だけど、実際には無理だよ。過去を知ることはできるかもしれないけど、それを再現するのは不可能だ。絵を描きたければリーダーか端末に描けばいい」

「それじゃあただの落書きでしょう。芸術じゃない。芸術はデジタルのなかで生まれるかしら?」

「さあ。そういう議論は得意じゃない」


 ぼくは助けを求めてカレンとイルを見た。ふたりともリーダーはしまっている。しかしぼくの代わりにレンの矢面に立つことは了承してくれない。


「芸術は個人が行うものよ」レンは静かに興奮している。「デジタルは、いってみればだれにでも操作できるように標準化されたもの。標準に芸術はありえない。プラスかマイナスかに傾くからこそ傑作が――マイスターヴェルクが生まれるんでしょう。こんな世界、子ども騙しよ」

「ぼくたちは子どもなんだから、子ども騙しでも充分なのかも」


 言葉遊びでもするようにぼくがいうと、驚いたことにレンは目を伏せてちいさくうなずいた。ぼくのいうことにレンが同意するのは珍しい。明日はなにかやっかいなことが起こるかもしれない。アラームが故障するとか。


「この世界は本当に子ども騙しよ」レンはいった。「時間になれば食事が出てきて、時間になれば眠って、時間になれば起きる。そのあいだ、わたしたちはなんでもできるけど、なにもすることがない。操縦室に入ることはできてもなにも操作はできない。端末を使って船内の状況を知ることはできてもそれに変化を与えることはできない。まるでテレビでも見せられているように。わたしたちはただの観測者でしかないんだわ」

「それなら、きみの望みどおりじゃないか。ぼくたちが観測者で、いったいなにを観測しているのかは知らないけど、それがこの船なんだとしたら、ぼくたちはこの部屋を絵画のギャラリーとも呼べるし、美術品の収集室とも呼べる」

「そう呼びたければ勝手に呼んだらいいわ。わたしは絶対に呼ばない」

「きみが呼びたいっていったんだろ。それに、さっきもいったけど、ぼくたちは子どもだ。きみは十一歳、ぼくも十一歳。カレンは十四歳で、イルは十歳。全員子どもだ。なにもさせてもらえないのはぼくたちが子どもだからだと思うな」

「あと十年待って、わたしが二十一歳になったら、わたしはこの船を自由に操作できるようになる?」

「まあ、キャプテンの許可があれば」


 レンはにらむようにカレンを見る。いまはいちばん年長のカレンが船長をやっている。十年後も、おそらくいちばん年長のカレンが船長をやっているだろう。カレンが年をとるのをやめるか、レンがひとよりも早く年をとるかしないかぎりは。

 カレンはなにもいわず、いつもの柔らかい笑みも引っ込めていた。そうするとレンとカレンはよく似ている。姉妹なのだから当たり前だが、普段はあまり感じない。レンはいつもむっつり黙り込んで不機嫌そうにしているのに対して、カレンはいつも笑っている。そばかすもないきれいな顔で見つめあったふたりは、やがて同時に顔を逸らす。レンはいつもより強く壁を蹴ってぼくのほうへ飛んできた。そしてそのままドアを通って部屋を出ていく。

 こういう日は、だいたい一週間に一回くらいの頻度でやってくる。レンがなにもいわずに部屋を出ていってしまって、残された関係のないぼくたちがひどく気まずい気分になる。レンの悪口をいうつもりもないし、そもそもけんかをしたわけでもない。よくわからないと肩をすくめるのもなんだかいやらしい。


「きれいな絵だったね」とイルがいった。こういうとき、彼女ほど役に立つ人間はいない。「女のひとの絵が多かった。きれいな女のひと」

「栗色の髪のね」とぼく。「イルと同じだ」


 レンとカレンの姉妹はブロンドで、イルは栗色。ぼくはなぜか黒い髪に黒い瞳。両親は正真正銘のコーカソイドなのに。隔世遺伝というならなんにでもなれそうだ。赤毛でも、犬か猫にでも。


「そろそろ部屋に戻るか。また明日」


 ぼくはふたりにさよならをいって〝図書室〟を出る。廊下にはぼくの端末が待っていた。ほかの三人は部屋に待機させている。


「お待たせ」


 丸い端末の頭あたりを撫で、廊下の手すりを伝って部屋に戻る。部屋は船内でも外側にあるので、すこし重力がある。遠心力の疑似重力だが、無重力のような煩わしさはない。レンにいわせれば無重力のほうが圧倒的に自由で重力があるとうっとうしいらしいが、ぼくはすこしでも重力があるほうが好きだ。自分がどこかに立っていると思える場所のほうが。

 部屋に戻ると端末は自動的に所定の位置へ戻る。ベッドと机のほかにはなにもない空間で、ぼくは端末と向かい合い、教育プログラムに沿った勉強をする。数学、歴史、芸術、哲学。そんなものをこの狭い部屋で習い、そしてもう十一年経つのだが、いまのところその知識が生かされたことはない。

 それでも勉強はしなければいけないから、その日の予定分を必死になってこなす。

 一度の食事を挟んで八時五分前にすべての予定が終わり、ベッドに入る。寝るときはかならず俯せ。仰向けになって布団に入ると二度と起き上がれない気がする。きれいに眠りすぎるのは死の危険がある。それなりにシーツを乱し、服装を乱しながら眠らなければ。

 俯せになって頬を枕に押し当てるとすこし気分が落ち着く。物事を考える余裕ができる。考えることはいつも同じだ。自分のこと。宇宙のこの。この船のこと。三人の少女のこと。目が覚めるとなにを考えていたのかすっかり忘れてしまうから、まず昨日なにを考えていたのか思い出すことからはじめる。すっかり昨日の記憶を取り戻すころには眠くなる。そして考えを進められないまま、ぼくは眠る。

 ここは冷たい世界。

 広い宇宙のどこかを漂う船のなか。

 ぼくはひとりで、だからぼくは最後の世代だ。

 ぼくが死んだとき、人類は終わるのかもしれない。

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