学院首席の幼馴染に「君とはもう会えない」と言われたので、素直に頷いてみました
卒業まで、あとひと月。
私は、王都でも指折りの名門、シェール王立学院の中庭に立っていた。青い空の広がる、うららかな春の昼下がり。春風に、私の制服の、緑のリボンが揺れている。
学院では、所属する科ごとに、異なるカラーのリボンを白シャツの襟元に結ぶ。私の所属する魔法科は、エメラルドみたいな深い緑色。それがとても綺麗で、私は、この制服が大好きだった。
「もうちょっとで、この制服ともお別れかあ……なんだか実感、無いけど」
私は、この中庭も好きだ。白い校舎に囲まれた、芝生の緑の美しい中庭。この中庭にはリンゴの木が何本か植えてあって、春には、白く可愛い花が満開になる。私は教室の窓から、この中庭のリンゴの木を眺めるのが好きだった。いつもと何も変わらない、幸せな放課後……だったはずなのに。
「エリゼ」
リンゴの木を見上げていた私は、ふいに呼ばれた名に振り向く。そこに立っていたのは。
「……トリスタン?」
私の幼馴染、トリスタン・ド・ルクレーヌ。学院首席で、由緒正しきルクレーヌ公爵家の一人息子。背が高く、整った顔立ちに加えて、成績も、家柄まで良い彼は、学院中の女の子の憧れの的だった。
でも、私にとっては。
(昔、うちの庭の片隅で泣いていた男の子、なんだよね。トリスタンと一緒にアップルパイ食べたの、懐かしいな)
トリスタンの綺麗な顔の上に、木漏れ日が美しい陰影を作る。彼の金色の髪が、春風にサラサラと揺れていた。彼の背後から、うちのクラスの女の子達が、遠巻きにこちらを見ている。
(あれは……最近、トリスタンと一緒にいる子達だわ。トリスタンのおうちと仲の良い、お金持ちの伯爵家の女の子達ね。彼の屋敷に遊びに来ているのを、何回か見たことがある)
私の家は、トリスタンの家の隣だった。と言っても、その家の格は、全然違う。
トリスタンの父親のルクレーヌ公爵は、王族の血縁で、ルクレーヌ家は国を代表する名家の一つ。対して、私の生家のマノン男爵家は、はっきり言って、貧乏だ。奨学金が無ければ、とてもこんな名門校には入れなかっただろう。私は幸い、家系的に魔力だけは強かったから、魔法科の特待生として入学出来たけど。うちは貴族とは名ばかりの貧乏男爵家だから、学院内で肩身が狭いことも結構多い。
私とトリスタンの間を、春風が吹き抜けた。こちらに向けられた彼の顔付きは……酷く冷淡だった。その空色の美しい瞳も、まるでガラスのように無感情だ。
(トリスタン……怒っている? どうしたのだろう。何か、あったのかしら?)
彼を怒らせたなんて、心当たりはないけど。私は不思議に思いながら、彼を見上げる。リンゴの木の下で向き合う私達は、いつの間にか、中庭の生徒達の視線をすっかり集めていた。
トリスタンが、冷たい声で、無表情に言い放った。
「エリゼ。君とはもう会えない」
リンゴの木陰から、中庭を囲む校舎の窓から、渡り廊下の柱の後ろから。女の子達の忍び笑いが聞こえて来る。トリスタンの金色の髪に、ふわり、とリンゴの白い花びらが舞い降りて。私は、素直に頷いていた。
「うん、分かった」
決めた。今日帰ったら、列車の切符を取ろう。今までずっと考えていたけど、今やっと、決心がついた。卒業式が終わったら、すぐに隣町に行って、仕事を探そうっと。
私は踵を返した。背後では、「トリスタン様!」という女の子達のはしゃいだ声が聞こえていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「トリスタンと……絶縁したぁー?!」
ジェシカが裏返った声で叫んだ。ジェシカは赤い巻き毛の派手な女の子で、私達は入学以来の親友だ。彼女は学校帰りに、よくこうしてうちに遊びに来る。お目当ては、『エリゼ手作りのアップルパイ』だそうだ。
ジェシカは、テーブルに身を乗り出して言った。
「一体どういうこと?! 何があったのか詳しく教えてよ、エリゼ!」
「中庭にいたら、トリスタンに声をかけられたの」
「それで」
「トリスタンがいきなり、君とはもう会えない、って」
「それで?!」
「うん、分かった、って答えたわ」
ジェシカがずる、と椅子からずり落ちた。
「なんでよ! どうしてそこで、素直に引き下がるの?! 理由は聞かなかったの!?」
「うん」
「なんで!」
「トリスタンが、何も言わなかったから。きっと、何か言いたくない理由があるのかな、って。だから、それならそれでいいかな、って思ったの」
ジェシカが「はああー!」と、盛大にため息をついた。
「だから、あんたはなんで、いつもそんなにあっさりしてんのよ! 去る者追わず、みたいな……エリゼは、欲が無さ過ぎる!」
「そんなことないわ。この前ジェシカとクレープ屋さんに行った時だって、イチゴとクリーム追加したし。先週、市場でキャンディ詰め放題していたのだって、誰よりもパンパンに詰め込んだもの」
「それは単に、食い意地が張ってるだけでしょ! エリゼが甘いもの大好きってことは知ってる! そうじゃなくて……私が言うのは、人間関係の話!」
「人間関係……」
「そう。エリゼは、なーんか、そういうの、昔から無頓着なのよね。今までは確かに、トリスタンとは単なる友達だったかもしれないけど。でも、よく考えてみてよ。相手はあの『トリスタン』だよ? 学院首席、剣術科所属のエリート、王家に連なる公爵家の超金持ち……の上に、あの顔面! 間違いなく、学院の男の中で最高の相手でしょ!」
「うん。確かに、トリスタンは凄いよね。でもそもそも、私と彼は、家が隣同士なだけで、別に特別な関係じゃないから」
私は、憤慨しているジェシカのティーカップにお茶を注ぎながら、ふふ、と微笑む。
(特別な関係……か。それを言うなら、私とトリスタンは、一緒にアップルパイを食べた大切なお友達、かな。私達の、秘密の思い出だね)
十年前の、あの日。うちの庭の片隅で、リンゴの木の下で泣いていたトリスタン。今の立派な彼からは想像もつかないけど、当時まだ八歳だったトリスタンは、体が華奢で弱かった。だから、公爵家の厳しい剣術の稽古から逃げ出して、うちの庭に隠れて泣いていたのだ。
うちは貧乏だから、庭にリンゴの木をたくさん植えて、自給自足の生活をしている。家族で食べるのはもちろん、収穫したリンゴをジャムに加工したり、パイにしたりして、市場で売るのだ。それであの日も私は、両親の手伝いで、庭でリンゴをもいでいた。それで、リンゴの木の根元で、傷だらけで泣いている男の子を見つけた。私の気配にビクリと顔を上げた彼の頬は涙で濡れ、空色の瞳が、怯えた様に私を見上げていた。それで私は、思わず声をかけていたのだ。
『……アップルパイ、食べる?』
それが、私とトリスタンの、出逢いだった。
ジェシカが、鼻息荒く言った。
「トリスタンも、トリスタンだよ! 昔から仲良しのエリゼを突き放して、あんな女達と付き合うなんて……」
「彼女たちは、トリスタンの婚約者候補って聞いたわ。だったら、あの子たちが私に腹を立てるのも当然よ。客観的に見て、私はあまりにも、トリスタンに不釣り合いだもの」
私は、はっきり言って、学院でいじめられていた。ロッカーが荒らされるのは日常茶飯事、テキストも破かれて、試験の範囲が分からなくなることも多い。そんな時、ロッカーの片付けを手伝ってくれたり、テキストを見せてくれたりするのは、いつもジェシカだった。
ジェシカが、ぶんぶん頭を振った。ジェシカ自慢の巻き毛が揺れる。
「不釣り合いなんて、そんなわけない! エリゼ、この間の魔法クラスのこと、忘れたの?! トリスタンってば、呪文のスペル間違えて、危うく教室の窓を二度と開かなくするところだったじゃない! それを、エリゼがこっそり助けてあげたんでしょ!」
私は笑って頷いた。トリスタンは優秀だけど、昔からちょっとおっちょこちょいだ。特に、魔法は彼の苦手科目。先日、剣術科と合同で魔法の授業をやった時、トリスタンは、鍵魔法を間違えた。『一時ロック』を、うっかり『永久ロック』にするところだったのだ。魔法は、スペルを少し間違えただけで、全然違う結果になってしまう。私は、彼が自信満々に間違えた直後に、さりげなく『ロック無効』の魔法をかけておいたのだ。
「トリスタンは、剣術科だから。魔法が苦手でも、仕方ないよ」
「そうやって、いつもエリゼは、こっそりトリスタンを助けてる! でもそれも、エリゼが優秀だから出来ることなんだよ。エリゼは、魔法科の成績トップだもん。……あー、こんなにエリゼに世話になってるくせに、伯爵家の女と仲良くなった途端、エリゼを突き放すなんて! トリスタン、最低!」
「ちょっと待ってよ、ジェシカ。本当に、私達は単なる幼馴染だから。私が魔法を頑張っているのだって、魔法が出来れば、将来いい仕事につけるかな、と思っただけだし」
「それは、そうかもしれないけど……やっぱり、男友達としても、トリスタン最低よ!」
「トリスタンは、『最高の相手』なんじゃなかったの?」
「それはあくまでも一般論だから。言っておくけど、私はああいう、いかにも優等生、って奴、全然好きじゃないからね。私は、もっと色っぽくて危ない男がいいし、トリスタンなんて、エリゼにそんなこと言った時点で、最低に格下げよ。……はあ。それにしても。このパイ、やっぱ美味しいー! エリゼのアップルパイ、最高に大好き!」
「ありがと。学院で、状態保存魔法を勉強した甲斐があったな、って。秋に収穫したリンゴを長く安全に保存できるようになったの。魔法を勉強して、本当に良かった!」
私達はアップルパイを食べながら、楽しくおしゃべりする。私はちら、と窓の外を見た。白い花咲くリンゴの木々の向こうに……隣の屋敷二階の、トリスタンの部屋の窓が見える。トリスタンは、さすがは学院首席なだけあって、あの窓辺の机でいつも勉強をしていた。難しそうな本を開いてカリカリと真剣に書き物をする彼の姿は、今日は見えない。
(トリスタン、まだ帰っていないのね。きっと、あの女の子達とどこかに遊びに……って、私には、関係ないけど)
私はトリスタンと、特別な関係じゃない。でも、あの窓辺に彼の姿が見えないのは……なんだかとても、淋しい気分だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エリゼの家の窓に、温かなオレンジ色の灯が灯っている。ここから見えるあの窓は、エリゼの家のダイニングだ。エリゼは今頃、両親と3人で、温かいシチューの食卓を囲んでいるはず。エリゼの家の食事メニューは、長年この窓から観察して来たおかげで、すっかりトリスタンの頭に入っている。
トリスタンは、ふふふ、と幸せな笑みを浮かべながら、重厚な革製ノートを開いた。一見すると難しい本に見えるが、これは長年書き続けて来た、トリスタンの日記帳だ。
『〇月×日。今日もエリゼは、窓際の席で頬杖をついて、中庭のリンゴの木を見ていた。うふふ。可愛い。好き。好きすぎて、好きとしか言えない』
『▽月◇日。今日のエリゼのスクールランチは、グラタンか。よし、俺も同じもの注文しよう』
『□日☆日。……なんだ、あの男……エリゼに気軽に声掛けやがって……あ、数学の先生か。なんだ、エリゼ。分からないところがあれば、首席の俺に聞きにくればいいのに!』
『+月―日。今日の放課後、エリゼがジェシカとクレープ屋に行くという話を耳にした。俺は、すかさず隣の店でフライドポテトを注文する。時間を見計らって店を出れば……ほーら、やっぱり! さりげなくエリゼと一緒に帰る作戦は、大成功だ!』
トリスタンは、上機嫌で、サラサラと羽ペンを走らせる。
『♡月♡日。今日は、以前から温めていた計画を、遂に実行した。その名も、『突き放すと見せかけて、エリゼをいじめから守る作戦』だ! 俺は中庭で、出来るだけ目立つように、彼女に「君とはもう会えない」と告げた。これで学院中に、俺とエリゼは疎遠になった、と知れ渡ったはずだ。これでエリゼは、安全だ。俺がそばにいたら、可愛いエリゼはいつまでも、女子達のいじめの標的になってしまう……』
トリスタンは、エリゼがクラスの女の子達からいじめられているのに気付いていた。そんなことは、晴れの日も曇りの日も、大雨の日だって、朝から晩までエリゼのことを見ている自分に分からないはずがない。しかも、その原因がどうやら自分らしい、ということも分かった。何せ主犯は、自分にいつも気味の悪い笑顔で近づいて来る、伯爵家の女なのだから。彼女が、エリゼに嫉妬してこんな凶行に及んでいることも、トリスタンは見抜いていた。
今日あの中庭で、エリゼが可愛く頷いて去った直後。あの変な女は、不気味な笑顔でこちらに近づいて来て、いかにもいい人ぶった甘い声で言った。
『トリスタン様、宜しいんですの? エリゼ様は、目立たない大人しい方ですけれど、魔法の成績は良いでしょう? トリスタン様が彼女に恨まれて、魔法で何かひどいことをされてしまったらと思うと……心配ですわ!』
トリスタンは、顔が引きつるのを感じながら、何か言った。が、自分が何と言ったのかは、覚えていない。それだけ、頭に血が上っていた。覚えているのは、こいつは一生許さない、と思ったことだけだ。
トリスタンは「はあ」とため息をついて、ずるずると日記帳に突っ伏した。
「今日もエリゼは、本当に可愛かったな……あの時は、ただ頷いただけだったけど。俺には分かる。エリゼは、心の中で俺に言っていたんだ。『トリスタン、ありがとう。私を守ってくれて』って!」
中庭のリンゴの木の下で、素直に頷いていたエリゼ。満開の白いリンゴの花が、彼女の神秘的な佇まいを際立たせていた。トリスタンは、あの時の可愛いエリゼを思い出して、ひとしきりニヤニヤする。そして、再びため息をついて、呟いた。
「はあ。しかし、計画のためとはいえ……あの言葉を口にするのは、俺にとっては、拷問だったよな」
『君とはもう会えない』。思い出すだけで、あまりの苦しみに叫び出したくなる。あの一言のために、自分は、どれだけ鍛錬を重ねたことか。出来るだけ無表情になるように顔の筋肉に力を入れ、心を殺し、遠くを見た。あの時自分は、虚無だった。
トリスタンは、気を取り直して体を起こし、エリゼの可愛い写真を顔の前に掲げた。秘密の日記帳には、エリゼの写真が山ほど挟んである。トリスタンが、知り合いの写真家に頼んで、密かに撮らせたものだ。真っ赤なリンゴを収穫するエリゼ。ジェシカと笑っているエリゼ。街角のカフェで、ぼーっとしているエリゼ……。どの一枚にも、トリスタンの大好きな、自然体のエリゼが映っている。
つやつやの長い黒髪。美しい緑色の瞳。顔にかかるサイドの髪を少し束ねて可愛い緑の髪飾りを付けたエリゼは、どんな顔をしていても、何をしていても、トリスタンにとっては最高に愛らしい存在だった。努力家で、謙虚で、優しいエリゼ。あの幼き日、泣いている自分にアップルパイを焼いてくれた彼女は……控えめに言って、女神だった。
トリスタンは、ふふん、と顎を撫でる。
(エリゼは、人見知りだからな。学院では、『成績優秀でクールな魔女』なんて言われてるけど。彼女の本当の可愛さは、俺しか知らないんだ。……ふふふ……ははは!!)
トリスタンは耐えきれず、「はーあ」と甘いため息をつきつつ、ぶつぶつ呟く。
「とにかく、これで卒業までエリゼは安全だ。そして……卒業式が終わったら、その時こそ俺は、エリゼに告白するんだ! エリゼもきっと、泣いて喜んでくれるはずだぞ!」
トリスタンは、その瞬間のエリゼの笑顔を想像して一人歓喜しながら、日記帳を閉じた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
卒業の日は、青い空がどこまでも広がる、快晴の朝だった。
式次第が全て終わると、私達卒業生は、わあっという歓声と共に、学院の角帽を投げ捨てた。私の、魔法科の緑色のタッセルのついた帽子が、青い空に高く飛ぶ。生徒達は、これから、それぞれの道に進むのだ。
式後の立食パーティでは、トリスタンの周りに女の子が殺到していた。うちの学院には、古くからの伝統がある。それは、『卒業式の日に、男の子は、好きな女の子に制服のリボンを送る』というものだった。だから男の子からリボンをもらったら、それはつまり、「僕はあなたが好きです」という意味なのだ。女の子はみんな、トリスタンの青いリボンが欲しいから、ああして彼の周りにいるんだろう。でも私は。
(早く帰らなくちゃ。汽車の時間に、間に合わないわ!)
隣町への汽車は、午後三時に出る。夕方、隣町に住む親せきのアンナおばさんが、目的地の駅まで迎えに来てくれる予定だ。パーティの終わるまでここにいたら、予約した汽車に間に合わない。もう荷造りはしてあるけど、自宅から駅までは、馬車で行く距離だ。そろそろ学院を出なければ、頼んであった馬車が迎えに来てしまう。
私は、ジェシカに別れを告げて抱き合い、そっとパーティ会場をあとにした。本当は、今まで仲良くしてくれた幼馴染のトリスタンにも、ひとこと、声を掛けたかったけれど。
(あんなに人だかりがしていたら、とても無理ね。それに私は、彼から絶縁宣言をされた身。理由は結局よく分からなかったけど、きっと、彼の婚約話とかに、何か差し触りがあったのだわ。これでお別れなんて淋しいけれど、トリスタンが、この先も、元気でいますように。いつかまた、彼と会えるといいな)
その時には、トリスタンには、彼女がいるだろうけど。ううん、もう、結婚だってしているかもしれない。彼は、名だたる公爵家の跡取りだもんね。だから、私は私で、新しい場所で、自分の人生を頑張らなくちゃ。新しい人生が、私を、待っているんだから!
私は、思い出のシェール王立学院の門を見上げ、深々と礼をした。そして踵を返し、これから始まる新生活を思い描きながら、学院をあとにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エリゼが、馬車で駅に向かっている頃。学院のパーティ会場の片隅では、トリスタンがジェシカに詰め寄っていた。
「な……なんだって?! もう一回言ってくれ、ジェシカ!!」
「だーかーらー。今言った通りよ。エリゼはもう帰ったわ。汽車の時間に間に合わないから、って」
トリスタンは、全身から血の気が引くのを感じていた。汽車? 隣町の親せき宅へ引越し? 一体、何の話だ……。ジェシカが、「はあ」とため息をついてトリスタンを覗き込んだ。
「大丈夫? 顔が、シュガーキャンディみたいに真っ白だけど。生きてる?」
「なぜ……。なぜエリゼは、そんな……」
「あんたのせいでしょうが。あんたが、もう会えない、ってエリゼに言ったんでしょ。それって、あの子と婚約するため?」
ジェシカが、会場の中心で笑っている伯爵令嬢をあごでしゃくって言った。トリスタンは語気荒く否定する。
「冗談じゃない! あんなのと婚約してたまるか! 俺がエリゼにああ言ったのは、あいつらのいじめから、エリゼを守るためで……」
「トリスタン、あんたそれ、エリゼ本人に言ったの?」
「いや、でもエリゼなら、きっと……」
「分かってくれる? ……あんたさあ。前から思ってたけど、馬鹿じゃないの? 学院首席の優等生が、聞いて呆れるわ。そんなの、言わなきゃ伝わるわけないじゃん。エリゼは、家を出て隣町で仕事探す、ってさ!」
トリスタンの背中を、冷や汗が伝う。エリゼが、まさか! このまま、何も伝えられないなんて、嘘だろう……?
気付いたら、会場を飛び出していた。背後で「トリスタン様?!」という女達の悲鳴が聞こえるが、知ったことではない。学院の門を駆け抜け、ちょうど前を通りかかった商人の引く馬を見るや否や、トリスタンは駆け寄った。
「その馬を、俺に売ってくれ!!」
「へ、へえっ?! でも、これは、これから市場に……」
トリスタンは、制服のポケットに入っていた紙幣を鷲掴みにすると、戸惑う商人に押し付けた。
「これでどうだ?!」
「ひ、ひいいっ?! こんな大金……ま、まいどありい!! 坊ちゃん、良かったら、この鞍も付けますぜ!」
トリスタンは、商人の付けてくれた鞍に飛び乗り、馬を走らせる。栗毛の立派な馬は、思った通り、俊足だった。
「頼む……間に合ってくれ!! 彼女は、まだ駅にいるはず……エリゼ、お願いだ。俺が行くまで、そこにいてくれ……!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
汽笛が、辺りに響く。私は、本から顔を上げて、窓外を見た。
春の午後、オレンジ色に変わりつつある優しい陽の光が、街に降り注いでいる。あちこちに揺れるリンゴの白い花が、なんとなく名残惜しい。この町に帰って来るのも、次はいつになるのだろう。隣町には魔法の求人が多いから、きっと仕事は見つかるはず。アンナおばさんも親切だし、きっと新生活は上手くいく……と思った時だった。
ゆっくりと走り出した汽車。でも、プラットホームが、なんとなくざわついている。なんだか、聞いたことのある声も聞こえる気がする。私は不思議に思って、皆の視線を追ってみた。
「……リゼ! エリゼー!! 待ってくれ、エリゼ!!」
「ト……トリスタン?!」
私は驚いて、汽車の窓を開けた。栗毛の馬に跨ったトリスタンが、駅前の馬車道を爆走して来る。トリスタンは、ホーム前で馬を下りてその辺の人に預けると、見たこともない必死の形相でホームを走って来た。まだゆっくりとはいえ、既にプラットホームを出つつある汽車に追いすがって来るその姿は、完全に、辺りの人々の視線を釘づけにしていた。
「な、なんだ、あの見眼麗しい若者は?!」
「あれって……名門シェール王立学院の制服じゃない?!」
「汽車を走って追いかけるって……すげえな、おい!!」
という人々の声が、あちこちから聞こえて来る。トリスタンは、見る間に汽車に追いつき、動き始めていた汽車の入り口手すりに手をかけて、軽やかに飛び乗った。周りから、わあっ!と歓声が上がる。トリスタンは、人々の拍手喝采の中、息を切らして、一目散に私の元まで走って来て……私を抱きしめた。
「エリゼ!! 良かった、間に合った!!」
「トリスタン!! あ、あの……どうしてあなたが、ここに……!? あの馬は……」
彼は、肩でハアハアと息をしながら、私から体を離した。そして、私の両腕をつかんで、必死の形相で言う。
「きみが隣町に行ってしまうと、ジェシカから聞いて……黙っていられるわけないだろう?! すぐに学院を飛び出して……道で見つけた商人に言って、馬を買い取った。馬車で来ていたら、とても間に合わないと思って」
彼はそこで言葉を切り、私の腕を掴んだまま、真剣な顔で私を見つめる。私の胸が、ドキリとした。トリスタンは勢いよく頭を下げ、いつもの爽やかな声で言った。
「エリゼ、本当にごめん! あの時は、ひどいことを言って。でもあれは、きみを守るためだったんだ。俺のそばにいたら、きみが辛い目に合うと思って、皆の前で、わざと遠ざけるようなことを」
彼はそう言って、両手で、私の両手を取った。トリスタンの手に触れるのは、あの十年前の、リンゴの木の下以来だ。あの時、私と同じくらいだった彼の華奢な手は……今はとても大きくて、私の両手を、優しく包み込んでくれる。トリスタンは、学院でみんなに囲まれている時とは全然違う、泣きそうな顔で言った。
「エリゼ。俺のことを、許してくれる? 俺は、その。きみがいないと……ええと、困る……から。でも」
「……でも?」
トリスタンは、少し迷う素振りを見せてから、はあ、と息を吐いた。
「エリゼが、決めてくれていい。俺はずっと、きみと一緒に居たいけど……もしもきみが、俺が居なくても平気だ、と言うのなら。遠慮なく、そう言ってくれ。俺は……きみが新しい人生を歩むのを、邪魔したくないから」
私は、トリスタンの美しい空色の瞳を見つめた。十年前から変わらない、優しい瞳を。そして、そっと目を逸らし……言った。なんだか恥ずかしくて、彼と視線を合わせたままでは、とても言えないから。
「私は……トリスタンといると、ほっとするわ。あなたといると、私は……私でいられるから」
それはいつも、思っていたことだった。あの、リンゴの木の下で会った時から。私は、トリスタンの前でだけは、自分でいられた。テストで失敗して、凹んだ時も。面白い遊びで、盛り上がった時も。ただぼんやり、空を見ていたい時も。トリスタンといる時だけは、何も取り繕わずに、私らしく。
私は、薄く口を開けたまま驚いた顔をしているトリスタンに視線を戻し、言った。
「私は学院で、いつもどこか緊張して、張り詰めていたの。だって、私と皆は、住む世界が違い過ぎるから。でも、トリスタンといる時には、私、そんなこと考えないでいられた。だから、トリスタンと一緒にいると、とても居心地がいいな、って。私、ずっと、そう思っていたわ」
私を見つめるトリスタンが、固まっている。私が心配になって、「あ、あの……トリスタン?」と声をかけると。トリスタンは突然、感極まったように、私を抱きしめて明るい声で叫んだ。
「ありがとう、エリゼ! つまりそれって……俺への、愛の告白だよね!!」
「え? あ、愛の告白って……ええと……」
私は、急に恥ずかしくなって、口ごもった。けれどトリスタンは、上機嫌に私の手を取り、私と一緒にボックス席に腰かける。切符はどうしたのだろう、と思う間もなく車掌がやって来て、トリスタンは気前よく料金を支払った。
この客車に乗客はまばらで、このボックス席には私と彼しかいない。二人きりの空間。隣に座ったトリスタンとの距離が近くて、なんだか少し、恥ずかしい……と思っていると。トリスタンが「あ、そうだ」とニコニコ言った。
「これ。エリゼに」
そう言って彼は、胸元の青いリボンをスッと解いた。剣術科の、サファイアみたいな青いリボン。学院中の女の子が欲しがっていた、トリスタンのリボン。彼は、それを私の両手のひらの上に乗せながら……上気した美しい顔で、口ごもりながら囁いた。
「あー、ごほん! ……好きだよ、エリゼ。世界で、一番」
私は、無言でその青いリボンを見つめる。トリスタンが、「エリゼ?」と小さく声をかけた。私は、顔を上げ。心配そうに私を見つめているトリスタンの肩に、ぽふ、と頭を預ける。
「え……エエ、エ、エ、エリゼ?!?!」
トリスタンの声が裏返る。私は、硬直している彼に寄り沿ったまま、幸せな気分で囁いた。
「ねえ……覚えてる? 十年前の、あの日。一緒にアップルパイを食べた、あの日」
「も、もちろん!! 忘れるわけないだろ?! 屋敷を逃げ出してリンゴの木の下で泣いてた俺に、エリゼが、最高に美味しいアップルパイを焼いてくれて……」
「あの日から、私はずっと、トリスタンのことが……」
「あの日から、俺はずっと、エリゼのことが……」
私達は同時にそう言って、思わず顔を見合わせた。そして、二人で幸せに笑い合う。
二人きりのボックス席には、春の夕暮れのオレンジ色の夕陽が、差し込んで来ていた。
Fin
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