第05話 漁師魂
「ん……」
海斗が目を覚ますと、まだ明け方の4時であった。
「……。」
海斗の自宅から真っ直ぐの方向に、いつもの灯りが灯っている。あれは漁船の灯りだろうと海斗はすぐに予想がついた。
「よいしょっと」
海斗は布団から出て、両親と妹を起こさないように自宅を出た。
「あ」
出てすぐに、湊と会った。
「おはよ」
湊が笑顔で挨拶する。
「おはよ」
なんとなく恥ずかしくなり、海斗は目を逸らしながら挨拶をした。
「散歩?」
「まぁ……そんなとこ。湊は今から?」
「うん」
「そっか……」
湊は将来、家業である漁師を継ぐ気でいる。今からしっかりと毎日祖父の漁について出て、しっかりとその技術などを学ぶというのだ。将来を今のような年齢から見据えている湊は、海斗から見れば同い年でもずいぶんと離れているように見えていた。
おまけに、昨年の出来事以来、好きだったサーフィンにも手が出せなくなっている自分に、なんともいえない虚脱感を海斗は感じていた。それだけに、余計に湊に対する劣等感のようなものが生まれていた。
「なぁ」
湊が海斗に手を伸ばした。
「行かないか?」
「どこに……」
「漁」
「……俺が?」
「うん」
「でも……」
「まだ、海、怖いか?」
「……ん」
海斗は小さく答えた。
「大丈夫。今日は波も静かだし、風ないし、天気もいいし。何も心配することないよ」
「……。」
「俺ん家の船、ボロいから心配か?」
「そんなことないよ!」
湊がクスッと笑った。
「じゃ、決まりだな。行くぞ」
湊は強引に海斗の手を引いて、港まで連れて行った。
「最初は不安定だけど慣れてくるよ」
「う、うん」
実は海斗、漁船に乗るのは生まれて初めてだった。サーフィンには何度も乗ってきたし、客船にも乗ってきたが、今まで何度も目にしてきた漁船に乗るのは一度もなかった。
「酔いそうか?」
「平気」
「そっか」
やがて、船が発進する。結構なスピードだった。
「結構速いだろ?」
「う、うん。どこまで出るんだ?」
「沖合い2kmくらい」
「遠っ!」
「これぐらい普通だよ。最低でもそれぐらい行かないと、いい魚がいない」
「そうなんだ……」
やがて、町の明かりも見えなくなるほどの距離(元々夜明け前で暗いので、余計見えない)に到着した。海の色も夜の闇に包まれていて、まったく見えなかった。
「湊! こっち来い!」
「うん!」
祖父に呼ばれて湊は走っていった。
「海斗はそこらへんで適当にしてて」
「適当って……あ、おい!」
海斗が呼び止めるのも聞かず、湊は祖父のところへ行ってしまった。
「……。」
海斗は仕方なく、船から手を伸ばして海水に触れた。
「冷て……」
久しぶりに感じる、海の温度。こんなに冷たいものだったか、と思わず考えてしまうほど長い間、海に触れていなかった。
20分ほどボーッと手を海水に突っ込んでいると、突然湊が海斗を呼んだ。
「こっち来いよー!」
「何?」
「いいモン触らせてやる!」
「……?」
海斗が立ち上がり湊の傍へ行くと、それを急に渡された。
「うわー!?」
まだ生きているタコだった。
「うわ、え、ちょ、ど、どうすりゃいーんだよ~!」
傍では湊や祖父の常雄が大笑いしている。
「ギャー!」
そうこうしているうちに、思い切り墨をかけられて海斗の顔や服が真っ黒になってしまった。
「……ひでぇやコリャ」
真っ黒になったパジャマにしていたシャツを見て、海斗もクスクスと笑った。
「どうだった?」
墨を洗っている海斗に湊が聞いた。
「何が?」
「タコ」
海斗はタコの感触を思い出していた。
「生きてるって感じ?」
思い出すように海斗はタコのいた自分の手のひらを見つめた。
「だろ? 俺たちが見るタコはいっつも足だけになってて、動いてないタコだもんな普通」
「うん」
「海は生き物だ」
「……?」
「魚もいる。タコもイカも、海草も貝も、さんご礁も。プランクトンや微生物も。俺たち人間も、大昔は海の生物だったみたいだし」
「そうなのか?」
「あぁ」
湊は小さくうなずいた。
「海だけじゃない。陸だって生き物だ。果物や野菜を育ててくれる土。俺たちの足元を支えてくれる大地。空も、海も、陸も、みんな生き物。それぞれが支えあって生きてる。俺はそんな風に思ってる」
「……。」
常雄が傍にやって来た。
「ちょっとは、恐怖感なくなったか?」
「え?」
「湊から話は聞いてる」
「……ちょっとだけ」
ガシガシと突然、頭を撫でられた。
「とても怖い思い、してきたんだからな。しょうがない。慌てる必要は全然ないからな」
「……うん」
「ワシもな。昔、怖い思いしたことあるんだ」
「海で?」
「あぁ。お前と一緒さ」
「一緒って……?」
「お前らがまだ小さい頃だ。1993年の夏だから……お前らは3歳くらいかな?」
常雄はその時の話をし始めた。沖縄に住んでいた友人が、北海道のほうへ移り住んで5年ほど経ち、結婚をすることになったそうだ。その時、友人はかねてから望んでいた漁師の一家に無事嫁ぐことができた。1993年7月のことだったという。
常雄が祝いのために友人たちとその場所――北海道奥尻島へ行ったのは7月11日のこと。翌日には挙式を上げ、盛大に祝った。さらに翌日13日も、友人の引越しの手伝いなどをして泊まり、14日には帰る予定だった。その前日13日の午後10時17分頃、それは起きた。
「北海道南西沖地震っていう、それは大きな地震でな。ワシらの来ていた奥尻島には、30mとも言われる大津波が来て……。友人やその親戚はみんな無事だったが、住んでいた地区は津波に飲まれて火事に遭って、もう跡形もなかった」
湊には想像できない光景だったが、海斗は容易に想像できた。
「だが」
常雄は笑顔で言った。
「10年経った去年、久しぶりに島へ行ったら……見事なものだ。瓦礫なんてありゃしない。港も綺麗に復興していて、まぁその奥尻にいる海の男たちは以前にも増して、輝いてたよ」
常雄は本当に嬉しそうだった。
「中には、漁師をやめざるを得なくなったものも多数いたさ。津波で船も家も木っ端微塵って人がいてね。でも、奥尻を離れようとは思わなかったそうだ。いま、その人は観光協会の会長さんをやってる」
「……。」
「海斗」
常雄が海斗の肩に手を置いた。
「海は、ワシらに魚などの恵みを与えてくれる存在ではあるが、時として嵐や津波の時には牙をむくこともある。それは大地も海も、山もすべて同じだ」
「……。」
「それを恐れていては、どこへ行っても生きていけない。感謝し、そしてその力の大きさを忘れないこと。これが一番、大事だ」
「……うん」
海斗は俯きつつも答えた。
「焦らなくていい。ゆっくり、ゆっくりだ」
「うん……」
海斗は漁船から見える、まだ暗い海をしっかりと見つめていた。