帰還
別れは、予告なく来た。
人質は贈り物ではない。
条件だ。
条件は、情と無関係に動く。
大神殿の回廊に冬の匂いが忍び込んだ頃、ヴァルディアからの使者が王都に到着した。和平の再確認。交易の調整。名目はいくらでも付けられる。
だが求めは一つ。
――第七王子の返還。
ソルはそれを告げられた時、表情を変えなかった。
驚きもしない。
喜びもしない。
悲しみもしない。
ただ頷いた。
「分かった」
それだけ。
王子として正しい反応だ。
人質としても、正しい。
四年ぶりに、祖国に帰ることができる。
喜びこそすれ、拒む者はいないだろう。
だが胸の奥では、火が静かに軋んでいた。
(離れる)
一度得た温度を、引き剥がされる。
それが許せない。
だが今はまだ、力が足りない。
非力な人質のままでは、手に入らない。
エルセリア第一王子から奪うには、王になる必要がある。
王になるには、帰らなければならない。
だからソルは、笑った。
自分の中の獣を、隠すために。
出立前夜。
ソルは大神殿に向かった。
灯が少なく、人も少ない時間。
警護の目を避けるのは容易だった。
そもそも、誰も彼が“会いに行く”とは思わない。
人は敵国の王子に、恋を想像しない。
だからこそ、盲点になる。
最奥の礼拝堂。
白い石に囲まれた空間。
香の匂い。
静寂。
そこにルナがいた。
祈っているのではない。
ただ立っている。
揺れる灯が、銀の髪と薄い肌を淡く照らす。
ソルは言った。
「ルナ」
声は低い。
震えはない。
震えを見せるのは負けだ。
ルナが振り向く。
水色の瞳が、ソルを捉える。
そこにあるのはいつもの静けさ。
慈悲の温度。
だが“特別”の温度ではない。
それでもソルは、安堵する。
見つけたからだ。
ここにいる。
変わらず。
消えていない。
「明日、帰る」
告げる。
命令ではない。
報告でもない。
宣告に近い。
ルナは頷く。
「そうですか」
それだけ。
引き留めない。
残念がらない。
縋らない。
その態度が、胸を刺す。
(どうして)
(俺を惜しまない)
言葉にすれば幼い。
だが幼さこそが、ソルの核だ。
選ばれなかった幼さ。
捨てられた幼さ。
それを隠して、王子の顔をしてきた。
だが、ルナの前では剥がれそうになる。
剥がれるのが怖い。
だから、より強くなる。
強く見せる。
「俺がいなくても、変わらないのか」
問い。
薄い怒りを混ぜる。
相手の温度を確かめるための、試し。
ルナは静かに答えた。
「変わります」
その一言で、ソルの呼吸が微かに乱れる。
「……何が」
「あなたがいないと、祈りが一つ増えます」
ソルは一瞬、意味が分からなかった。
祈り。
何の。
ルナは言う。
「あなたが壊れないように」
その言葉は、剣よりも深く入った。
壊れないように。
この男は最初から、ソルの内側を見ていた。
炎の瞳の奥の、欠けた部分を。
拾われない涙を。
泣けなかった夜を。
そして。
(見捨てない)
その事実だけで、ソルの心は一度、救われる。
救われてしまう。
救われてしまうから、執着が生まれる。
これを失ったら、二度と戻れないと直感する。
「……ルナ」
ソルは一歩近づく。
ルナは退かない。
それが怖い。
退かないということは、恐れていないということだ。
恐れていないということは、誰とでも同じということだ。
誰とでも同じ。
その言葉が、胸の奥を黒くする。
ソルは手を伸ばす。
指先が、ルナの髪に触れる寸前で止まる。
触れれば、残る。
触れれば、記憶になる。
触れれば、戻れなくなる。
だが戻るつもりなど、最初からなかった。
ソルは、そっと銀の髪に触れた。
小さく囁く。
「待て」
命令の形。
願いを隠すための形。
「俺が戻るまで」
ルナは、すぐには答えなかった。
ほんの一瞬の沈黙。
その沈黙は、拒絶ではない。
だが肯定でもない。
それが、ルナという男の優しさだ。
肯定してしまえば、縛ってしまう。
拒絶してしまえば、折ってしまう。
だから中間を選ぶ。
救済としての中間。
ルナは静かに言った。
「ここにいます」
その言葉に、ソルは笑う。
勝ったように。
だが本当は違う。
笑うしかない。
「待っていろ」
そう言って、背を向ける。
振り返らない。
振り返れば、崩れる。
幼さが、露出する。
それは許されない。
ソルは炎の瞳を伏せたまま、回廊を去った。
翌朝。
王都の門前に、馬車が並ぶ。
エルセリア側の護衛は丁重だ。
別れの儀式として、必要な礼だ。
アルベルトが現れる。
緑の瞳は、静かだった。
憎しみはない。
だが、警戒がある。
それが、王子として正しい。
ソルはアルベルトを見る。
敵だ。
だが今は笑う。
「世話になったな、第一王子」
皮肉は込めない。
込めても意味がない。
ソルの戦は言葉でなく、武力で行われる。
アルベルトは短く答える。
「無事に帰れ」
その声はまっすぐだ。
善意だ。
その善意が、ソルには眩しい。
眩しいものは嫌いだ。
太陽の名をもつ自分が、暗いことを突きつけるから。
馬車に乗り込む直前。
ソルは大神殿の白い尖塔を見る。
その奥に、ルナがいる。
見えないのに、見える。
そこにいると、知っているから。
ソルは心の中で言った。
(戻る)
(王として)
(今度は奪いに来る)
炎は胸の奥で、静かに形を変える。
ただ燃える炎ではない。
鉄を溶かす炎。
鎖を作る炎。
魂を縫う炎。
馬車が動き出す。
石畳を叩く音が遠ざかる。
エルセリアの空は青かった。
豊かな国の空。
それがいずれ、黒く染まることを――
誰も知らない。
いや、ソルだけは知っていた。
自分が、この国の空から、月を堕とすことを。




