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太陽王と終焉の月  作者: 帰り花
第一章 太陽の檻
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出会い

 傷が塞がってからも、ソルはすぐには立ち上がらなかった。

 母国からの刺客に、命を狙われたからではない。

 エルセリアで、人質である自分が死ねば、ヴァルディアはこれ幸いと攻め込めるのだろう。

 自分の生まれ育った国の欲深さは、身に染みて知っていた。

 だから、そのことについて、ソルは何も感じなかった。

 身体の痛みより、別の痛みが残っていた。

 ――触れられた感覚。

 温度。

 光。

 そして、声。

「苦しそうだったから」

 理由としてはあまりに幼く、あまりに無防備で、だからこそ信じがたかった。

 ヴァルディアでは、理由は常に利だった。

 価値があるから。役に立つから。恐れるから。支配したいから。

 だがこの男は言った。

 ―苦しそうだったから―

 そんな理由で人が動く世界があるのか。

 そんな世界があるなら、そこは危険だ。

 温すぎて――壊れる。

 ソルは立ち上がる。

 外套の裾を整える。

 血の跡を隠すように。

 そして最後に、ルナを見た。

 銀の長い髪。

 色の薄い肌。

 水色の瞳。

 神殿の石壁よりも冷たく見えるのに、触れた手は温かかった。

 矛盾。

 その矛盾が、頭の奥に残った。

「……礼は」

 言いかけて、止める。

 礼など知らない。

 礼は王が受け取るものだ。

 与えるものではない。

 だから言葉を変える。

「借りだ」

 ルナは微笑んだ。

「必要ありません」

 必要ない。

 その言葉が胸を刺す。

 必要ないと言われることは、突き放されることではないのに、ソルの心はそう受け取る癖がある。

 拾われない涙を知っているから。

 ソルは言った。

「……忘れるな」

 何を、とは言わなかった。

 ルナは頷いた。

「忘れません」

 その答えが真実かどうかを確かめる術はない。

 だがソルは、それで良かった。

 その夜、エルセリア王城の人質に与えられた部屋に戻っても。

 彼は眠れなかった。


 翌日から、ソルは神殿の奥を歩く回数が増えた。

 大神殿。

 銀髪の神官がいる場所。

 理由を付ける必要はない。

 人質の身であっても、彼はヴァルディアの王子だ。

 エルセリアの宮廷は彼を粗末には扱わない。むしろ過剰に丁重だった。敵に礼を尽くすことが和平の証明だから。

 だから彼は、自由に歩くことができた。


 最初は、偶然を装った。

 回廊で行き違う。

 庭で遠目に見る。

 祈りの間で、背中を見る。

 ソルは隠すことが得意だった。

 感情を。

 欲望を。

 望みを。

 だが今回だけは、違う。

 隠しているつもりで、追いかけている。

 追いかけているつもりで、覗いている。

 覗いているつもりで、祈っている。

 彼自身が、自分の心の変化を理解できない。

 理解できないものは、怖い。

 だから、確認する。

 何度も。

 何度も。


 ルナを追い求める中で、彼が不老不死であることを知った。

 それでも、確かめずにはいられなかった。

 そこにいるか。

 変わらずにいるか。

 消えていないか。


 ルナは、気づいていた。

 視線の熱を。

 赤い炎色の瞳が、自分を追うことを。

 だが、何も言わない。

 責めない。

 追い払わない。

 ただ、いつも通りの穏やかな顔で歩く。

 その態度が、ソルの胸を静かに狂わせた。

 拒絶されない。

 だが、選ばれもしない。

 この「中間」が、最も耐えがたい。

 ヴァルディアでは、すべてが白か黒だった。

 勝つか、負けるか。

 従うか、死ぬか。

 愛するか、捨てるか。

 中間は、存在しない。

 だが、ルナは中間にいる。

 境界に立ち続ける。

 手を伸ばせば触れられそうなのに、触れても捕まえられない。


 ある夕暮れ。

 ソルは、神殿の中庭で足を止めた。

 ルナがいた。

 花壇の前。

 白い花に水をやっている。

 その後ろ姿は、静かだった。

 人は祈りの時、背中が変わる。

 肩の力が抜け、呼吸が深くなる。

 彼は今、祈ってはいない。

 ただ、水をやっているだけだ。

 なのに、背中が祈りの形をしている。

 世界と折り合いをつけて生きる背中。

 ソルの世界にはなかった背中。

 ソルは思う。

(この背中が、―この人が、欲しい)

 言葉にならない欲望。

 それが芽生えた瞬間、―別の男が現れた。


 緑の瞳。

 風の匂い。

 穏やかな足取り。

 王族の衣。

 エルセリア第一王子、アルベルト。

 ソルは知っている。

 この国に来た最初の日に会ったからではない。

 どこに行っても、その名が聞こえてくるからだ。

 この国の“光”。

 人々が自然に微笑みを向ける存在。

 生まれながらに肯定されている男。

 そして――

 ルナが、わずかに表情を変える相手。


「ルナ」

 アルベルトが呼ぶ。

 その呼び方は柔らかい。

 祈りではなく、生活の中の呼び方。

 ルナが振り返る。

 水色の瞳が、ほんの少しだけほどける。

 ソルの胸の奥が痛む。

 理由は分かっている。

 自分に向けられたことのない目だ。

 アルベルトはルナの手元を覗き込む。

「また仕事を抜け出したんですか」

「少しだけ」

「相変わらずですね」

 アルベルトが笑う。

 ルナも微笑む。

 その微笑みは、ソルが見たことのない温度だった。

 神官としての微笑みではない。

 慈悲の微笑みでもない。

 ただの、人としての微笑み。


 ソルは息を止める。

 世界が狭くなる。

 中庭が縮む。

 二人だけが残る。

 自分の存在が、また透明になる。

 あの、ヴァルディア王城の庭園と同じだ。

 兄たちの背中。

 踏み潰された花びら。

「まだいたのか」

 その記憶が、今の光景と重なる。


 ソルは理解する。

 この男がいる限り。

 自分は選ばれない。


 胸の奥に芽生えたものは、恋だった。

 だが同時に、それは憎しみの種でもあった。

 赤い炎色の瞳が、アルベルトを焼こうとする。

 焼けば消える。

 消えれば、自分が見える。

 単純な論理。

 ヴァルディアの論理。


 その夜、ソルは鏡の前で自分の顔を見た。

 幼い。

 まだ子供だ。

 だが、瞳だけは赤い。

 燃えている。

 炎は小さい。

 だが、確実に広がる。

 ソルは小さく呟いた。

「……奪う」

 誰から、とは言わない。

 言わなくても、心は知っている。


 まだ誰も、気づいていない。

 この初恋が、やがて世界を壊すことを。

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