出会い
回廊は静まり返っていた。
大神殿の奥はいつも人が少ない。祈りの時間でもない限り、神官以外が立ち入ることはない場所だ。壁に刻まれた古い聖句は薄く摩耗し、石床は長い年月の足跡で滑らかになっている。
そこに、血の匂いがした。
ルナは足を止める。
微かだが確かに鉄の匂いがする。
視線を落とす。
白い石床に、赤い滴。
新しい。
乾いていない。
辿る。
滴。
滴。
滴。
そして。
その先に――少年がいた。
倒れている。
壁にもたれ、片膝をつき、息を殺している。
衣服は高価な布だが、泥と血で汚れていた。外套の下から覗く腕には切り傷が走り、脇腹からは血が滲んでいる。追手から逃げてきた者の体だ。
だが。
それより先に目を奪われたのは。
瞳だった。
赤。
炎の色。
夕焼けではない。
宝石でもない。
燃える炭の奥に残る、消えきらない火。
生きている色。
消えない色。
壊れかけている色。
少年もルナを見ていた。
逃げない。
怯えない。
助けを乞わない。
ただ見ている。
沈黙で。
まっすぐに。
ルナは理解した。
この子は助けを求めない。
求められなかった子だ。
「……怪我をしていますね」
静かに言う。
少年は答えない。
瞬きもしない。
ただ見ている。
疑う目で。
計る目で。
値踏みする目で。
ルナは一歩近づく。
その瞬間。
少年の指がわずかに動いた。
袖の内側。
短剣。
握れる位置。
逃げるでもなく。
振るうでもなく。
ただ。
届く距離を測っている。
(ああ)
ルナは思う。
この子はずっと、一人で生きてきた。
守られたことがない。
信じたことがない。
だから距離を測る。
人を。
世界を。
命を。
「抜かないでください」
ルナは言う。
少年の視線が微かに動く。
「武器は」
静かな声。
「あなたを守るためのものです」
沈黙。
風が通る。
遠くで鐘が鳴る。
少年の赤い瞳が、ほんのわずかだけ揺れる。
「……何者だ」
声は低い。
十二、三歳くらいに見えるが、年齢より落ち着いている。
子供の声ではない。
王の声だ。
まだ、王ではないのに。
「神官です」
ルナは答える。
「名は、ルナ」
少年はしばらく黙っていた。
名乗らない。
普通なら名を返す場面だ。
だが彼は言わない。
名前を渡すという行為が、信頼だと知っているから。
「手当てをします」
ルナが言う。
少年は動かない。
拒まない。
許しもしない。
ただ、見ている。
ルナは膝をつき、手を伸ばす。
触れる前に、止まる。
「触れますよ」
確認。
強制しない。
奪わない。
その態度に、少年の瞳がまた揺れた。
ほんのわずか。
だが確かに。
「……好きにしろ」
許可。
それは信頼ではない。
だが拒絶でもない。
その中間。
それだけで十分だった。
ルナは傷に触れる。
光が滲む。
温度が宿る。
裂けた皮膚が閉じる。
血が止まる。
呼吸が整う。
少年の瞳が見開かれる。
初めて。
明確に。
驚きで。
「……何をした」
「癒しました」
「魔術か」
「いいえ」
「なら何だ」
「祝福です」
沈黙。
少年は、じっとルナを見ている。
その視線は鋭い。
刃のようだ。
だが刃は振るわれない。
ただ、触れてくる。
心の奥まで。
「……なぜ」
小さく問う。
「助けた」
その問いの意味は分かる。
なぜ見知らぬ人間を助けたのか。
なぜ敵かもしれない相手に触れたのか。
なぜ見返りを求めないのか。
ルナは答える。
迷わず。
「あなたが、苦しそうだったから」
それだけ。
沈黙。
長い沈黙。
少年は、何も言わない。
だが。
視線が逸れた。
ほんの一瞬。
それが。
この子が初めて見せた。
無防備だった。
「……名前は」
少年が言う。
ルナは微笑む。
「もう言いましたよ」
少年は言う。
「違う」
一拍。
そして。
「お前じゃない」
ルナは気づく。
少年が言っているのは、ルナの名前ではない。
「……ソル」
少年は名乗る。
それは、初めての信頼だった。
取引だった。
許可だった。
その瞬間。
運命が固定された。
しかしそのことを、ルナは知らない。
ソルも知らない。
この出会いが。
世界を終わらせることを。
ただ。
二人は見ていた。
互いを。
沈黙のまま。
まるで、初めから知っていたみたいに。




