人質
国境を越えたとき、ソルは何も感じなかった。
空は同じ色だったし、風の匂いも似ていた。馬車の揺れも変わらない。兵の足音も同じ重さだ。だから最初の三日間は、自分が別の国へ連れていかれているという実感がなかった。
変化に気づいたのは、四日目の朝だった。
怒鳴り声がない。
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
ヴァルディアでは、朝は怒号で始まる。命令、叱責、威圧。声は常に鋭く大きい。声が大きくなければ従わせられないからだ。従わせられなければ、自分が殺られる。だから怒鳴る。それが秩序だった。
だが、この国の兵は違った。
命令は出す。指示も出す。だが声が低い。静かだ。まるで会話みたいに話す。怒鳴らない。威嚇しない。踏みつけない。
最初、ソルは罠だと思った。
静かな声ほど危険なものはない。そう教えられてきた。だから耳を澄ませた。視線を配った。隙を探した。
だが何も起きない。
四日経っても。
五日経っても。
ソルは考える。
(どうしてだ)
答えは、道の両側にあった。
畑。
果樹。
水路。
倉庫。
どこまでも続く穀物。
この国は、飢えていない。
理解した瞬間、胸の奥がざらついた。
飢えていない国は怒鳴らない。
奪う必要がないからだ。
ヴァルディアは違う。
資源に恵まれず、作物も育たない国は、奪うしかない。
ヴァルディアの武力をもってすれば、エルセリアを手に入れることなど簡単だった。
だが、ソルの父王は剣を抜かなかった。
理由は一つ。
エルセリアは、穀物を握っている。
水を握っている。
鉄を握っている。
薬を握っている。
つまり。
世界の命綱を握っていた。
戦えば勝てるが、勝った瞬間に世界を敵に回すことになる。
だから、剣の代わりに差し出した。
王子を。
兄たちは言った。
「和平条件だ」
そして。
「余っている」
その言葉の意味を、ソルは知っている。
王子は七人いる。
だが、王座は一つしかない。
馬車が止まる。
扉が開く。
「降りてください」
舗装された石畳は、ヴァルディアと同じはずなのに、全く違うものに感じた。
顔を上げる。
城が見える。
白い。
ヴァルディアの城は黒い。
影の色だ。
だが、この城は違う。
白い。
雲みたいに。
月みたいに。
胸の奥が軋む。
理由は分からない。
分からないが、目を逸らしたくなる。
門が開く。
中へ入る。
兵が並んでいる。
武器を持っている。
だが、その先は天を向いていた。
視線だけが向く。
ソルへ。
(見られている)
だが、ヴァルディアとは違う。
値踏みする目じゃない。
踏めるかを、測る目じゃない。
ただの視線だ。
案内された部屋は広かった。
窓がある。
光が入る。
鍵がない。
(閉じ込めないのか)
理解できない。
逃げると思わないのか。
しばらくして、声がした。
「ずいぶん小さい客だな」
振り向く。
そこに立っていたのは少年だった。
だが、ソルの知っている少年ではない。
肩の位置が違う。
呼吸の深さが違う。
ソルよりも5、6歳は上だろう。
だが、この違いは年齢差からくるものではない。
同じ空間にいるだけで分かる。
この人は、強い。
相手は歩み寄る。
足音が静かだ。
重いのに音がない。
訓練された歩き方だった。
ソルの前で止まる。
見上げなければ、目が合わない距離。
視線が落ちてくる。
穏やかな目。
曇りのない目。
踏もうとしていない目。
「お前が、例の王子か」
ソルは答えない。
少年は少し笑う。
「警戒してるな」
一歩近づく。
不思議な距離。
近いのに、怖くない。
「安心しろ」
静かな声。
「ここじゃ、誰もお前を踏まない」
ソルは思う。
(どうして、断言できる)
少年は言う。
「俺がいるからだ」
分かる。
理屈ではなく、体が先に理解する。
少年が問う。
「名は?」
ソルは、答えなかった。
少年は、構わず手を差し出した。
「俺は、アルベルト」
ソルは、手を握らなかった。
アルベルトは、何も言わなかった。
ただ、少し笑って、部屋を出ていった。
ソルは、窓から外を眺めた。
遠くの山に、日が沈むのが見えた。
夕日に照らされる、エルセリアの街並みも。
ソルは指先に赤い光を灯すと、燭台に火をつけた。
そうしてまた、窓から外を眺めた。
日の光がなくなっても、人々の賑わいが照らす、エルセリアを。
ソルは、まだ知らない。
この遠い異国の地で。
銀の髪の神官が、彼の運命になることを。




