鎖【ソル視点】(第三部第二章の夜のシーン)
夜。
王の寝所。
灯りは少なく、影が多い。
この時間が、好きだった。
昼の間は、世界がうるさい。
臣下。報告。命令。血。王冠。
だが、夜は違う。
静かだ。
そして――ここにいる。
ルナが。
逃げない。
それが分かっているだけで、胸の奥が静まる。
触れる。
頬に。
髪に。
唇に。
壊れ物みたいに触れるのは、本当に壊れ物だからだ。
この手は、壊す。
剣を握れば命を。
命令を出せば国を。
欲望に任せれば――人を。
だから、慎重になる。
「……逃げないな」
確認。
声は低くなる。
怖がらせないように。
「逃げません」
答え。
その一言で、肺が満ちる。
逃げない。
離れない。
ここにいる。
それだけでいい。
それだけで――世界がいらなくなる。
額を肩に預ける。
触れる。
寄りかかる。
すがる。
言葉にはしない。
言ったら壊れる。
願いは声に出した瞬間、命令になる。
命令は、恐怖になる。
恐怖は、逃走になる。
だから言わない。
――ここにいて。
寝台へ導く。
急がない。
奪えば、終わる。
奪うのは簡単だ。
剣を振るより簡単だ。
だがそれでは、意味がない。
欲しいのは、身体じゃない。
指先でなぞる。
頬。
首。
肩。
唇を重ねる。
長く。
離さない。
呼吸が混ざる。
熱が移る。
分かる。
反応している。
震えている。
逃げていない。
嬉しい。
それだけで、喉が熱くなる。
触れる。
胸。
腹。
奥。
反応する。
やはりだ。
体は嘘をつかない。
「感じているな」
確信。
「お前の体は正直だ」
拒んでいるのは心だ。
拒めないのは体だ。
なら問題ない。
体は本能だ。
本能は真実だ。
腰が寄る。
自分から。
それを見た瞬間、頭の奥が熱くなる。
欲望じゃない。
安堵だ。
まだ壊れていない。
まだ逃げない。
まだここにいる。
耳元で囁く。
「もっと俺を求めろ」
命令ではない。
願いだ。
やわらかなシーツに、押し倒す。
逃がさない。
逃がさないのは拘束じゃない。
保証だ。
ここにいる保証。
触れる。
反応する。
震える。
声が漏れる。
その声を聞くたび、胸の奥が締まる。
痛いほど。
嬉しくて。
分かる。
今、思い出している。
あの男だ。
緑の瞳の男。
名前は言わない。
言えば、現れる。
現れたら、奪われる。
だから、上書きする。
声で。
熱で。
触感で。
「俺だけ見てろ」
命令。
今度は命令。
これは譲れない。
名を呼ばれる。
「ソル」
その瞬間、世界が止まる。
王でもない。
征服者でもない。
怪物でもない。
ただの名前。
ただの男。
逃がさない。
重ねる。
深く。
強く。
壊さないように。
だが離れないように。
爪が背に食い込む。
痛み。
だが離れない。
むしろ抱きついてくる。
それを感じた瞬間――
胸の奥で何かが崩れた。
理性じゃない。
恐怖だ。
失う恐怖。
それが少しだけ、消える。
(ここにいる)
(まだいる)
(離れない)
それだけで、十分だ。
世界なんていらない。
王座もいらない。
神もいらない。
国もいらない。
欲しいのは、一つだけ。
腕の中。
震えている。
泣いている。
それでも離れない。
「全部俺のものだ」
確かめるように言う。
ルナの中がうねり、限界が近づく。
分かる。
呼吸で。
震えで。
熱で。
「吐き出せ」
囁く。
優しく。
逃げないように。
壊れないように。
そして。
崩れる。
体が。
声が。
呼吸が。
すべて。
満ちる。
深く。
奥まで。
ああ。
大丈夫だ。
ここにいる。
まだいる。
逃げていない。
「俺のものだ」
言葉にする。
確認。
刻印。
祈り。
――眠りに落ちる直前。
必ず言う。
毎晩、欠かさず。
同じ言葉。
「……ここにいろ」
命令じゃない。
願いだ。
祈りだ。
懇願だ。
答えが返る。
「います」
それだけでいい。
それがある限り。
まだ。
まだ。
まだ――
怪物にならずにいられる。




