崩れゆく世界で
崩壊は、音を立てて始まったのではなかった。
最初はただ、世界の呼吸が乱れた。
風が止まり、雲が流れず、水面が揺れない。
まるで、大地そのものが息を止めているみたいに、すべてが静まり返る。
それは破滅の兆しではない。
すでに破滅が始まっている証だった。
魂は本来、流れるものだ。
生まれ、燃え尽き、土に還り、また巡る。
その循環があるから、世界は保たれる。
魂は命の灯ではない。
世界そのものを回す歯車だ。
一つひとつが小さくても、止まれば全体が軋む。
軋みが増えれば、やがて崩れる。
だがソルは、その歯車を一つ――止めた。
魂の固定。
それは単なる拘束ではない。
神の与える不老不死とも、異なっていた。
魂は、何かに縛られるものではない。
無理やり繋がれたルナの魂は、流れから外れてしまった。
巡らない魂は、世界の循環を止める。
循環を止める魂は、世界に“詰まり”を生む。
小さな詰まり。
だが、世界は巨大な器だ。
巨大な器ほど、詰まりに弱い。
血管が一本塞がるだけで命が死ぬように、魂の流れが一つ塞がるだけで、世界は死ぬ。
その“停止”が起きた瞬間。
世界のどこかで、何かがずれた。
音もなく。
光もなく。
ただ確実に。
窓の外で、空が歪んだ。
寝台の上で、ソルはルナを抱いていた。
腕は強い。
逃がさない強さ。
だが、乱暴ではない。
むしろ丁寧だった。
壊れ物を扱うような触れ方が戻っている。
失わないと確信した者だけが持てる、歪んだ優しさ。
ルナの銀の髪が、枕に広がる。
白い肌に、崩れゆく空の光が淡く映る。
その光の中で、ソルの瞳だけが燃えている。
赤い炎色。
世界が消えても、消えない色。
「……静かだ」
ソルが呟く。
窓の外では、遠くの塔が崩れていた。
音は遅れて届く。
低く、重い、終わりの音。
だが、彼の声は穏やかだった。
恐怖がないからではない。
満たされているからだ。
ルナは外を見つめる。
空に走る裂け目。
沈む海。
崩れる地平。
すべてが終わっていく。
ゆっくり。
確実に。
「……代償です」
ルナが言う。
責める声ではない。
ただ、真実を置く声。
「魂を縫い止めた代償」
ソルは否定しない。
理解しているからだ。
魂を固定した瞬間、世界の理が悲鳴を上げたことを。
巡るはずのものが止まり、理が裂けたことを。
だが、それでも。
「それでいい」
短く言う。
迷いなく。
「お前がいる」
それだけ。
世界とルナを秤にかけるまでもない。
初めから、答えは決まっている。
城壁が崩れる。
海が泡立つ。
森が沈む。
世界が順番に死んでいく。
だが王の寝所だけは、静かだった。
静かで、温かい。
ルナは目を閉じる。
胸の奥が、静かに痛む。
恐怖ではない。
後悔だ。
(止められなかった)
(あなたが壊れるのを)
(止められなかった)
救いたかった。
孤独を。
渇きを。
拾われなかった少年を。
怪物になってほしくなかった。
そのために、残った。
そのために、触れた。
そのために、耐えた。
だが結果は――
世界が壊れた。
これは、ソルだけの罪ではない。
ルナは知っている。
自分も原因だ。
自分が残ったから。
自分が見捨てられなかったから。
自分が彼を“選び続けた”から。
ソルの指が、頬を撫でる。
「寒くないか」
ルナは首を振る。
「いいえ」
そして静かに言う。
「温かいです」
それは、真実だった。
外の世界は死んでいくのに、
この腕の中だけは生きている。
それが救いであり、罰だった。
唇が触れる。
柔らかく。
ゆっくり。
逃げないと知っているのに、確かめるように。
触れ合うたび、ソルの炎は静まる。
王ではなくなる。
ただ一人の、男になる。
ルナは思う。
(この人は)
(こんな顔ができたのに)
どうしてもっと早く救えなかったのだろう。
どうしてもっと早く抱きしめなかったのだろう。
どうしてもっと早く――
愛を教えられなかったのだろう。
後悔が満ちる。
だが、涙は出ない。
もう過去が、存在しないからだ。
外の世界と一緒に、崩れた。
空が裂ける。
光が崩れる。
世界が終わる。
だがソルは見ない。
見ているのは、ルナだけだ。
「ルナ」
名を呼ぶ。
低く。
祈るように。
「はい」
返事。
変わらない返事。
逃げない返事。
ソルは囁く。
「もう離れない」
ルナは答える。
穏やかに。
確定した真実として。
「ええ」
「永遠に」
隣にいると誓ってくれた、緑の瞳。
世界が崩壊する中、隣にいるのは彼ではない。
(これはきっと、世界を崩壊させた、わたしへの罰)
窓の外で、月が砕けた。
白い円が静かに割れ、闇へ沈む。
世界の終わり。
だが寝台の上では、何も終わらない。
魂が固定されているから。
世界が消えても、巡りが止まっても、時間が壊れても――
この結びつきだけは壊れない。
世界は崩れた。
空も、海も、大地も、命も、祈りも。
そうして最後に残ったのは、
世界を代償にして縫い止められた、二つの魂だった。




